1 境目の春期講習(6)
次に現れたのは阿木だった。
「おはよー、あれ。関崎くんだけ?」
「ひどいなあ、俺だっているよ」
「あら更科くん、失礼いたしました」
軽口を叩きつつ、男子二人が地味にお茶を飲んでいる姿をまじまじと眺め、
「私もなんか飲むわ。紅茶残ってる?」
更科に聞く。
「あるけどそろそろ少なくなっているから、経費で買っておきたいよね」
「そうかあ、で、経費といえば、名倉くんは?」
乙彦に尋ねる。さてどう答えたら良いものか。
「今、難波に呼ばれて外で話をしているはずだ。終わったら戻ってくるそうだ」
「難波くんと?」
阿木の顔が少しだけ曇った。手元が狂ったらしく、ポットのお湯が手に跳ねたらしい。「うわ、熱いよお」と独り言をつぶやいた。
「大丈夫?」
気遣いする更科に阿木はあっさり答える。
「平気平気。それよか、難波くん何考えてるんだろう。名倉くんと話だなんてここではできないことなのかな」
「多分そうだと思うよ。阿木さんもご存知のあれやこれやでさ」
落ち着いて更科が答える。ここまでテンポは狂っていない。
阿木が腰掛けるのを待ち、更に話し続ける。
「名倉は外部生の立場としていろいろ思うところあるだろうし、難波は反対に内部生の誇りを持って反論したいこともあるよ。別に戦いたいわけじゃないんだからほっとけばいいよ」
「えー、でもそれまずいよ!」
良い香り漂う紅茶に手もつけず、阿木が叫ぶ。
「あのね更科くん、もしかしてあんた、ふたりが口喧嘩するんじゃないかと思って見送ったってわけ?」
「俺は見送ってないよ。見送ったのは関崎」
話をこちらに降ってくる。否定はできない。答えるしかない。
「講習が終わってから名倉と二人でここに来たら、難波に呼ばれた。別更科の言ったとおり、殴り合いするわけでもない話をしたいだけだ、ということだったので、見送っただけなんだ」
「なんで止めなかったのよ」
特に怒っているわけではないが、ふてくされてはいるようだ。
すぐ更科が助け舟を出してくれた。
「阿木さんが名倉を心配する気持ちはわかるよ。けどさ、普通の話し合いで無理に割り込むこともないよ。学校内だから先生たちも監視してるし、ついでにいうならホームズだって馬鹿じゃない、殴り合いなんかして自分の評価を下げたいとも思ってない。ただ、真実についてのこだわりはあるよ。ほら、ホームズだから」
声上げて阿木が笑った。なんとなくだが、説得されたらしい。
「そうだよね。そこのところ、立村くんや新井林とは違うよね」
「そうだよ。もし相手が立村だったとしたら、俺だってすぐに様子伺いに行くよ。関崎だってそうだろ?」
「まったくだ」
乙彦の返事にまた、阿木はけらけら笑いこけた。
「けど。なんの話し合いからは気になるんだけど。この前の、ほら、ゆいちゃんの弟のことかなあ。名倉くん一連の流れに対して怒っていたからそこのあたりで何かなければいいんだけど」
それでも気になるのか、話の合間に阿木は問いかける。
「たぶんだけど、十中八九、俺のことだと思うよ」
さっき乙彦に返事したときと同じように、更科は答えた。
「名倉が俺のことでいろいろ言いふらしたんじゃないかとか勘違いして、頭に血が昇っただけだよ。んなわけ無いって説明したつもりなんだけどね」
言葉をつぐむ阿木。流石に事情は把握しているようだ。ひとりで更科は続ける。
「阿木さんも聞いてると思うけど、俺と都筑先生のこと、本当に普通の付き合いで別れただけなんだよ。よくあることじゃん。なのに、なんで難波が仮想敵を作りたがっているのか、今ひとつピンとこないんだ」
「じゃあ、新しい彼女作る準備できてるわけなんだ」
楽しそうに尋ねる阿木。
「もちろんだよ! あ、もちろん年上に限るけどね」
──いや、難波は名倉にもっと深いところの問題を見出している可能性がある。
目の前でのんぴり語らうふたりの会話を聞き流しながら、乙彦は息を殺した。更科たちはごく普通の日常として語り合っているけれど、青大附属の校外に持ち出せばそれは大事件にもなりかねない。教師と生徒の一線超えた恋愛が一段落しただけと校内では思われているが、外気に触れさせたら最後、爆発物の恐れあり。
──名倉がうまくごまかしてくれればいいが。
少なくとも難波はただのホームズ気取りアホではない。
人を見下すことに喜びを見出す勘違い野郎でもない。
名倉と同様に、大切な友達を守るために体を張っている。
──名倉はこの学校の闇を明るみに出そうとしている。
──難波はその闇を隠そうとしている。
二人が戻ってくるのを待つしかない。冷えた日本茶が苦い。