Yearning
タチアナの心は複雑だった。これまでの彼女は殺す事と殺される事だけ考えていれば良かったのだ。奴隷剣闘士。それは毎日が殺し合い。食べて、寝て、殺す。これだけが彼女のすべてだったのだから。
タチアナの人としての記憶は12歳で止まっている。
彼女の父は狩りで生計を立てる山の民だった。彼女も幼い頃から狩りを学び、人里離れた山の中で父と母と3人でそれなりの幸せの中で成長する。
10才の頃、母が病気で亡くなると、父は家に引きこもり酒浸りの日々を過ごすようになる。もちろん狩りに出ないのだから収入は無い。タチアナは父の為、なにより自分が生きるため、森に入り獲物を狩った。
自分の力で生活し、傷心の父を面倒見る。食事、洗濯などの家の仕事も一人でこなしそれなりに充実した日々だった。ある日森から帰った彼女は家に見知らぬ男が数人いることに気がついた。
男の話によれば、父はこの一年ほど酒を買うため、大層な借金を作っているとのことだった。生活するのがやっとのこの親子に返済できる宛などあるはずもなくタチアナは奴隷として売られていくことになった。
その時の父の情けない顔を今も忘れはしない。
奴隷となった彼女は生活苦でやせ細っていたこともあり、女としては売り物にならないと判断される。そうなると最も値のつく売り先は常に死の危険がある剣闘士だ。剣闘士同士の殺し合いはこの大陸で人気のある興行。貴族から庶民に至るまで誰もが熱狂し、夢中になる。中でも奴隷剣闘士はその命を忖度する必要がないため常にどちらかが死ぬまで戦わされるのだ。そしてそれが観客を喜ばせる。
国によっては奴隷が禁止されているところもあるが、実際は見て見ぬふりというのが当たり前になっていた。
タチアナは12歳にして初めて人を殺す。泣き叫びながら同年代の男の子に剣を突き立てた。勝って戻ると十分な食事が与えられる。彼女の中で生きるためには仕方ないんだと殺人の正当化がなされた。どうせ負ければ死ぬしかないのだと。
そうなれば対戦相手はもはや人ではなかった。森で動物を狩るように何の為来もなく急所を突き、絶命させる。そこから10年、彼女は生き残り、今や『ゴースト』の異名で知られる大陸有数の剣闘士となっていた。
あの日、世界が変わる。いつものように体を拘束され万が一にも反抗できないようにされたまま私は試合会場へ向かう。一度自分を手篭めにしようとしたあの奴隷商を殺しかけたことがあるからだ。
いつものように夜陰に紛れ馬車をすすめる一団は3人の男によって制圧された。護衛は6人もいたというのに。
私たち6人の奴隷剣闘士は救い出され、アシュレイと名乗る男の部下となる。彼は私たちにも隔たりなく接し、食事も水も好きなだけ与えてくれた。私が衰弱していた間もつきっきりで看病してくれていた。髪も整えてもらい、新しい服も買ってくれた。そして身なりを整えた私を綺麗だとも言ってくれた。
なぜ彼が私にこれほどまでに良くしてくれるのか理解ができなかった。
私は、命を救われた義務感から彼に従おう。そう思っただけだった。
はじめは私が女であるため慰み者にでもされるのだろうと思っていた。バーツと言う男からアシュレイの身の回りの世話をするようにと言われた時、そういうことなのだろうと覚悟していた。
しかしアシュレイは同じ部屋で二人きりで寝ていたにもかかわらず触れてさえこない。聞けば彼は高貴な生まれで元王子なのだという。私のことなど汚いものにしか見えないのだろう。ならば最初から助けなければいいのに。綺麗だ、などと思わせぶりなことを言わなければいいのに。
私は生まれて初めて自分の中の女を意識した。
でも今、彼を失えば私は何をして生きればいいのかわからない。その思いはレイラと言う女の存在を知ったとき、爆発した。
アシュレイには女がいる。そうなれば汚い私は捨てられてしまう。そんなのは嫌だ。彼と街を歩いた生涯でもっとも楽しかった記憶が走馬灯のように駆け巡る。そのあとは自分でも何を言ったのか覚えていない。
覚えているのはあのクマと言う男と戦った事、ソーヤを殴り飛ばした事、そしてアシュレイに負けた事。
私は負けてしまった。唯一の存在価値である強さで。きっとアシュレイは私を捨てるに違いない。そう思うと涙がとめどなく溢れてくる。強くなければ彼にとって私など何の価値もないのだから。
立ちすくす私の手を取ってくれたのはアシュレイだった。私を仲間だとも言ってくれた。捨てないでいてくれた。私はひとつの決意をする。女がいるのなら奪えばいいのだ。汚れているなら綺麗になればいい。そしてそのレイラと言う女を殺そう。そうすればアシュレイは私だけを見てくれる。私とずっといてくれる。
剣闘士の教官は言っていた。欲しい物があれば勝ち取ればいいと。
オルランスについた俺たちは旅の垢を落とすため宿を取り、風呂に入った。
ここはフィンリー商会の根拠地。すでにこちらの動きが補足されている可能性もある為、交代で風呂に入る。先に入ったのは俺とバーツ、それにソーヤだ。タチアナは女湯に入らせた。何かあってもクマと剣闘士5人がいれば対応できるだろう。
「なあ、ここでは何をやらかすつもりなんだ? 」
体を洗いながらバーツが俺に尋ねる。
「そうだなぁ。とりあえず借りは返さないとな。」
ヒゲを剃っていた俺はそう答えた。
「借りって例のヴァランの街でアサシンに狙われたってやつですか? 」
俺の背中を流しながらソーヤがそう言う。
「そうだ。やられたからにはやり返す。当たり前のことだろう?」
「借りを返すのはいいんだがよ。あんまり派手にやると城の王妃が困るんじゃねーか? アンタの姉上なんだろ?」
「まあ、そのへんも含めてうまくやるさ。早めに上がってクマたちと交代してやろうぜ。」
「そうですね。」
風呂から上がり、部屋に戻る。部屋割りは俺とタチアナで1つ、バーツとクマで1つ、ソーヤたち剣闘士5人で大部屋を1つと割り振られている。
タチアナは風呂上がりの俺と自分用に冷たい飲み物を持ってきてくれた。最近彼女は気が利いてる。俺の服の洗濯や、剣の手入れなども何も言わずともしてくれるし旅のあいだはウサギなどを捕まえてきて料理してくれる。聞けば元々猟師の娘なのだそうだ。
俺は椅子に腰掛け葉巻に火をつけるとバカ王子の日記を検索する。この国の王妃、スカーレットは奴の姉さんなのだ。どんな人物かくらい知っておいたほうがいいだろう。
スカーレットの記述は、7年前15歳の春の日記に記述があった。
4月10日 天候 雨
空には厚い雲が立ち込め、もう昼だというのに真っ暗だ。きっと神様が僕の心を空にでも写してくれたのだろう。
今まで生きてきて今日ほど辛い日はないのだから。
今日、スカーレット姉さんが輿入れする。僕の胸は張り裂けそうなほど辛い。レット兄さんは「男がそんなメソメソするな!」と僕を怒鳴りつけるが姉さんは僕にとって特別な存在なのだ。悲しむなという方が無理がある。
大体レット兄さんは子供の頃から人の気持ちがわからない。武断的と言えば聞こえはいいが、要は単純で粗暴なだけだ。彼とは幼い頃から喧嘩ばかりしている。
年下で体の小さかった僕はその度に泣かされる。そんな時、いつも一緒にいてくれたのがスカーレット姉さんだ。2つ年上の彼女は僕が泣き止むまでそばにいてくれて、泣き止んだあとは絵本などを読んでくれる。そんな姉さんが僕は大好きだった。
そもそも僕たち兄妹は2人の母から生まれている。長男のフランク兄さんと僕は同じ母親から生まれた。王妃だった母は僕を産んですぐに亡くなってしまったのでその顔は肖像でしか見たことがない。次男のレット兄さんと長女のスカーレット姉さんは第二夫人から生まれている。その第二夫人も今は亡く、僕たちに母という存在はいなかった。
フランク兄さんは僕の4つ上。生まれつき体が弱く、その為か非常に温厚な人だ。いつも僕たちを慈しむように笑いながら見ていてくれる。でも、一度だけレット兄さんに酷いいたずらをして、怪我をさせた時だけは真剣に怒られた。僕はあまりの剣幕に泣いて謝ったのを覚えている。
レット兄さんは僕の一つ上だが、生まれつき相性が悪い。体格もよく、ケンカも強い兄さんは、考えるということをしない。物言いも行動も粗暴で、単純なのかやたら涙もろい。僕の嫌いな人間性を全部併せ持つ非常に稀有な人間だ。
スカーレット姉さんは2つ上だけど、僕にとってはこの世で一番大切な人だ。母親を知らない僕にとっては母のような存在でもあり、姉さんと居る時が何より幸せだった。その姉さんが今日、エミリウス王に嫁いでいく。
僕はレット兄さんのとなりに立ち、雨の中姉さんの乗る馬車を見送った。
帰り際、「これで我がヴァレリウスの未来も安泰ですな。」と嘯いていたロマーニャ公爵の足を思い切り踏んづけてやった。
今日から僕が泣いても慰めてくれた姉さんはいない。姉さんは最後に
「強くなりなさい。力で負けたら知恵で勝ちなさい。ケンカで負けたら剣で勝ちなさい。最後に勝てばいいのです。たとえどんな手を使っても。」
と言ってくれた。だから僕は泣くのをやめる。遠いエミリウスの王城まで僕の名前が響くよう強くなってみせる。いつか、姉さんに褒めてもらえるように。
シスコンってやつだな。あのバカ王子にも可愛いところがあるじゃないか。
しかし、世の中は難しい。弱くて泣き虫だったバカ王子を励ますための一言がまさか、ヴァレリウスの貴族たちの悪夢に変わるとはね。おかげで皆ひどい目に遭ってるからね。
まあ、いずれにしても日記を見る限りこの姉上はバカ王子に好意的だ。多少の騒動を起こしても見逃してもらえるだろう。
その夜、俺は久々に王子に招かれた。
招かれた先は見慣れたボロアパートの一室ではなく、高級感のあるマンションだった。
「やあ、久しぶりだね。」
バカ王子はピシッとしたスーツ姿で俺を出迎えた。
「何ここ、お前まさかここに住んでるとか言わないよな? 」
リビングに通された俺は高級感溢れるソファーに腰掛ける。
「あー、ここね。ちょっと狭いけど便利な場所にあるから引っ越したんだ。」
バカ王子はコーヒーを点てながらそう答えた。
「だってここ家賃とか高いんじゃねーの?それにお前保証人とかいねーだろ。どうやって借りたのさ。」
こぽこぽとコーヒーをついで俺の前に差し出すと
「借りてなんかないさ。人の使った後とか耐えられないし。新築で手頃だったから買っちゃった。」
彼は自分のコーヒーにクリームを垂らし、かき混ぜると大きく足を組んだ。
「買う? これだけのマンション、そう簡単に買えるもんじゃねーだろ? 大体お前何の仕事してるんだ? 」
「たかだか5000万くらいだよ。君のとこで言えば金貨5000枚さ。君だってそれくらい稼いだだろう?」
「いや、こっちはいろいろまずい感じで稼いでたけど、こっちの世界じゃまっとうに働いても半年じゃ5000万なんか稼げないだろ? 前にあったときは深夜バイトしてたじゃねーか。」
「あー、そうだったね。あの頃は深夜のコンビニで働いてたんだけど、あのあとすぐスカウトされてね。今は雑誌のモデルやってるんだ。」
「モデル? 何それ。そんな夢の世界の話が現実にあるわけ? 」
「まあ、僕ってイケメンだし、動きも洗練されてるからね。このことに関しては産んでくれた父王と母に感謝してるよ。」
「……世の中ってほんと不公平な。同じ境遇なのにイケメンってだけでこうも違うわけ? 」
「まあ、たまたまさ。僕の場合あっという間に売れっ子になっちゃってね。テレビCMも何本かやってるんだ。そしたらあっという間にこのマンション位は買えるようになったって訳。君だってなんだっけ、ヴァランの街の顧問官になったんだっけ。で、今は王都、オルランスについたとこだよね。」
「ああ、また無職になったとこだ。」
「まあ、いろいろやってるみたいだけど、そろそろ本腰入れて動く頃じゃないかな。神様の催促もうるさいしね。」
「ああ、アサシン送ってきたフィンリーとか言う奴からたっぷり巻き上げてやるつもりさ。そしたら親衛隊を呼び寄せる。」
「具体的にはどうするつもりなんだい? 」
「賞金稼ぎの時と一緒さ。乗り込んで制圧して世話になる。」
その時彼の持つ携帯が着信を告げる。彼は俺に手で待つように合図すると電話を取った。
「いやぁアイリちゃん。待ちきれないのかい? 僕は今兄弟が訪ねてきててちょーっと忙しいんだよね。え? 大丈夫。今日の合コンでしょ。時間には間に合うようにいくから。
うん、あはは、君が一番カワイイに決まってるじゃないか。うん、わかってるって。セリナちゃんもいるの? うんうん、それはたのしみだねぇ。うん、わかったよ。それじゃ10時にあそこだね。遅れないように行くからおとなしく待っててね。それじゃ、またあとでね。」
何この会話。スッゲームカつくんですけど。
「いやあ、ごめんね。実は今夜、モデル仲間と合コンでさ。僕がいないと始まらないってうるさくてね。君もあっちの世界じゃいろいろやってるんでしょ? 」
「……」
「え? まさかその顔で女に困ってるとか言わないよね。」
「いや、その、別の意味で困ってるというかなんというか。まあ、この話はとりあえず置いといて、フィンリーの話に戻ろう。」
俺はものすごく切なくなった。同じ顔のはずなのに、片やモデルとウハウハで俺は幽霊女に取りつかれてる。この違いってどこから来るんだろう。アハハ、なんか泣けてきた。
「僕の意見を言わせてもらえれば、もうちょっとスマートにやってほしいんだ。」
「スマートにって? 」
「そうだねぇ、例えば、力技をやめて、交渉するとか。」
バカ王子は顎に指を当てしばらく考えた後、そう切り出した。
「交渉? 」
「うん。」
「そんなまどろっこしい事やんの? やっぱガツンと殴り込んだほうがよくないか? 」
「殴りこみはやめて、姉上に迷惑がかかる。」
そうかコイツは重度のシスコンだったんだ。
「そのかわり、姉上の権威を利用すればいい。脅しで使うだけなら姉上に迷惑もかからないし。ここまで言えば君のことだからわかってくれるよね。とにかく騒動はダメ。姉上に悲しまれたらそれこそ僕は生きていけないからね。」
なるほど。コイツは俺に殴り込みをさせないためにここに呼び出したってわけか。まあ、あの日記は唯一まともなものだったし、ここは気持ちを汲んでやるか。
「ああ、わかったよ。スカーレット王妃には迷惑は掛けない。でもいいのかせっかくすぐそばまで来たのに顔を合わせなくても? 」
「ああ、君には王になってもらわないと困るからね。その途上で他国の王家の力を借りることはマイナスでしかない。借りは後で必ず大きくなるからね。」
「なら手紙ぐらいいいだろう? ここで書いてみろよ。俺が暗記して向こうで書き直して出してやるから。」
「いいのかい?そんなこと頼んじゃって。」
「ああ、気にすんな。俺たちは兄弟なんだろ? 」
「じゃ、すぐに書くから待ってて。そこで適当にくつろいでてよ。」
「ああ、焦らなくてもいいからな。」
俺はそのへんにあった雑誌を手に取る。ファッション雑誌のようだ。表紙をめくると数ページにわたってバカ王子の特集が組まれていた。こりゃ、金持ちにもなるはずだ。
しばらくするとバカ王子は一通の便箋を抱えて戻ってくる。
俺はその内容を暗記する。中身はまぁ良くも悪くも甘えた内容だ。よっぽど姉が好きなのだなと俺は微笑んだ。
「じゃあ、そろそろ行かなくちゃならないから送り返すね。くれぐれも姉さんを泣かすことのないようにね。頼んだよ。」
その言葉を聴き終えるといつものように意識が薄れ、宿のベッドで目を覚ます。あたりは真っ暗だったが俺はランプの明かりを頼りに、忘れないうちにバカ王子の姉への慕情を手紙にしたためる。
「うわぁ! びっくりした! 」
気がつけばタチアナが俺の後ろから手紙を覗き込んでいた。
「なんて書いてあるの? 」
「ああ、ここの王妃は俺の姉上なんだ。近くまで来たから手紙ぐらいは出してやらないとな。」
「会いにはいかないの? 」
「今の俺が会いに行ったら向こうに迷惑になるんだ。」
「王子様でもままならないことがあるのね。」
「まあな。お前は家族はいないのか? 」
「私を売った父さんだけ。母さんはもう死んだから。」
「生きているなら会いたいとは思わないのか? 」
「……」
「ああ、済まない。余計なことだったな。」
「いいの。会いたくないと言ったら嘘になるけど、会えば悲しい思いをするから。お互いに。」
「そうか、無理はするなよ。会いたくなったら言ってくれ。俺がなんとかして会わせてやる。」
「優しいのね。」
そう言うとタチアナは俺に顔を寄せ、頬にキスをした。
何が何だかわからずにポカンとしてしまった俺をそのままに彼女は毛布を頭までかぶって寝てしまう。
俺は先ほどと同じ内容の手紙を念のためもう一通したためた。こちらにはマーベルに世話になったので目をかけてやって欲しいと添え書きをして。