第七楽章
彼女のために薔薇の花束を買おうと思った。
彼女はいつも赤い衣装に身をまとい、髪飾りも赤だと聞いた。
一度写真を見たことがある。美しい人だ。薔薇がよく似合う、彫刻の様な顔立ち。
バルトルトはまず花屋に向かう。
いつもはヒイラギの傍を離れることなど滅多とないのだが、身内の所用だと偽り、屋敷を出た。
ヒイラギの元には別の運転手も手配した。
花屋は、賑やかな繁華街から少し離れた通りにあり、時間的に人通りも少ない。
それは偶然だった。
写真でしか見たことがない、彼女はそこにいた。
一輪の花を持っている。
しかしそれに違和感を覚える。
あれは彼女の花ではない。
華やかさがない。
花びらが少なく、素朴と言えば聞こえはいいが、今は化粧っ気がないのにも関わらず華やかな彼女の顔立ちには似合わない。
バルトルトは好機とばかりに彼女に近づく。薔薇の花束を抱えて、ファンを装うのだ。
「あの」
彼女は振り向き、首をかしげた。
「ユキノ・カルマンさん、ですよね」
ユキノは、彫刻の様な顔を綻ばせ、「はい」とだけ答えた。
写真とは違う、生きた彼女が目の前にいる。
実際バルトルトは、ユキノの歌は素晴らしいと思っていたし、薔薇は彼女のために買ったのもだった。
「これをあなたに」
ここで会うのは偶然にしろ、これからの計画にそれは僥倖だった。
「まあ、立派な花束。私にはもったいないわ」
彼女は受け取らない。
「この街にあなたが来ていると聞いて、買ったのです。私はあなたの歌が好きなのです。是非受け取ってください」
「本当に私をご存じなのですね。ですけど、今はステージではないので」
去ろうとする彼女の腕を掴み、振り向かせる。
「すみません」
バルトルトは懐に仕舞ってあった催眠剤を染み込ませたハンカチをユキノの口元に押し当てた。
そして停めていた車にユキノを無理やりに乗せ、運転手に走らせるよう促した。
「……バルトルトさん、本当に、大丈夫でしょうか?」
運転手の顔は青ざめている。
「大丈夫です。明日、彼女がミスターの夜会で歌うことになっています。彼は彼女の歌を聴けるならばと迎えましたが、本心では納得していないはず。
彼の軌跡に妥協は許されない。そんな中途半端なものを彼に聴かせるわけにはいかない。
やはりあのギターとでなければいけない」
運転手は冷や汗をぬぐい、車を路肩に停める。
「しかし、それは実際ミスター・ヒイラギの真意なのですか? 私はこんな犯罪めいたことをしているあなたは、何かにとり憑かれているようで」
「あなたは何も見なかったことにしてください。黙っていればいいのです。私が口裏を合わせますから。今は申し訳ないが車を走らせて下さい」
車はゆっくりと路肩を離れ、再び目的地へと走り出した。
「あの、私はその方は存じ上げないのですが、有名な歌手でいらっしゃるのですか?」
「一部では。熱狂的なファンがいると、ミスターがおっしゃっていました。私は何度かレコードを聴きました。天性の声と、音感、センスの持ち主です。ただ、プロデュースされることを彼女が嫌がるとかで、宣伝力がなく、今では小さな楽団でひっそりと歌っているだけです」
「そうなんですか。いや、是非私も聴いてみたい。い、いえ、すみません。私なんかが聴ける身分ではないのはわかっています」
バックミラーから伺えるバルトルトの眉間に皺が寄っていることに気づき、運転手は慌てた。
「何を言っているんです。彼女は実力と希少価値が比例していないんです。誰でも聴けます。
今週末、今向かっている場所でコンサートを開いてもらうんです。
あなたも是非聴くといい。
私は彼に恩義がある。必ず成功させなくては」
車はいくつかの街を通り過ぎ、四時間ほどで目的の山のふもとへとたどり着いた。
「この山に、そのギタリストが住んでいるのですか?」
「甚だ信じられませんがね。亡くなっていたら、その時はまた別の方法でコンサートが行われるよう手配しています」
車は山を登り、ギタリストが籠っているという洞窟の前に停車した。
バルトルトはユキノを抱え、運転手に地図を渡す。
「いつのまに地図を手に入れたのですか?」
その不気味なほどの用意の周到さに、運転手は狼狽した。
「ああ、さっき寄ってもらった家で借りたのです。この辺は古い土地なのでね。大地主というのがいて、地質学の研究をしていると言って地図を借りてきました。調べたところ、随分と入り組んだ洞窟らしいので」
「しかしバルトルトさん、地図がないと入れないような洞窟に、その、ユキノさんを連れて行って、我々はどうするのです? 帰るのですか?」
「帰ります。とにかく今は、ギタリストととの距離を縮めてもらわなければなりません。五年間だそうです。
ユキノさんが彼のことをどう思っているのかは、歴代彼女と音楽を奏でてきた方々も聞いたことがなかったそうですので。
週末までの三日間。
生きているにせよ死んでいるにせよ、縮めてもらわなければいけないのです」
運転手はそう口にするバルトルトの目を見たとき、一瞬背中が凍るのを感じた。
彼は主に傾倒しすぎているのは知っていたが、それは主従関係を通り越して、一種異様な形で愛しているのではないか、しかし、こんな所でそれを口に出してしまうと、彼のたてた計画は崩れ、自分も巻き込まれてしまう。
知らぬ存ぜぬを通せばいいのだ。
地図と懐中電灯を手に、二人は口を開くことなくうねうねとした穴の中を突き進む。
しばらく歩いて行くと、開けた空間。
ランタンの火が静かに燃えている。
ベッドの上に、男は居た。
生きている。
凄惨な光景を僅かながら想像していた運転手は、少なからず胸をなでおろした。
この先に起こり得る事は考えない。
彼女を彼に渡し、引き戻す。
それが今与えられた仕事なのだ。
運転手は、かつて音楽家だったとは思えない見窄らしい佇まいの男の、住居とも言える空間の入り口に立ち、バルトルトと男のやり取りを目の端で捉えながら、耳からの情報は一切シャットアウトした。
壁のギターに違和感を抱ききつつ、狭い空間での男の生活を想像し、吐きそうになった。
彼女をベッドに寝かし、バルトルトが引き返してきた。
薄ぼんやりと見える男の顔は、来たときよりも柔らかくなっているような気がした。
運転手は、自分の靴音と、心臓の音がやたらうるさく耳に付き、冷や汗が止まらなかったが、気を紛らわすのにこの大男に話しかけるのは違うと思った。
今晩の夕御飯、娘の将来、できるだけ関係のないことを思い浮かべた。
朝のスープは濃かった。
ラジオから流れる音楽は自分好みだった。等々。
終始無言のまま車に乗り込むと、鍵を回し、元来た方向へ転換し、山道を下った。
何時間かのロングドライブ、これほどまで心身ともに疲れ果てたことはなかった。
屋敷に着いた頃には辺りは薄暗く、軒並みにはポーチライトが付き始めている。
なんと一日の長かったことだろう。
明日は非番だ。
釣りにでも出かけよう。
バルトルトはその足で主人の元へと向かう。
ヒイラギは明日の準備で忙しそうに立ちまわっていた。
長年の憧れの人を迎え入れなければならないのだ。
もうこの街にはいないというのに。
しかし、実現することを知っている。
もっと素晴らしい音楽が鳴ることを。
週末、主人は感激してくださるはずだ。
準備は整ったのだ。
明日の落胆など些細なこと。
バルトルトはヒイラギが持とうとしていた荷物を横から支え、
「遅くなりました。私が運びます」
そう言って、誰にも気づかれないような小さく笑った。
翌日。
楽団の歌姫は不在のまま演奏し、代わりにショートカットの少女が歌っていた。
伸びやかな気持ちのいい声だと思った。
ヒイラギも、ユキノが不在だということを聞いて落胆していたが、ステージを見て遜色はないと喜んでいた。
バルトルトも、それはそれで良かったと思う。
紛い物の楽団でユキノが歌うのを聴くよりは、良いに決まっていた。
早く二人の演奏を聴かせたい。
今頃二人は空白の時を取り戻していることだろう。
ユアンは戸惑いながらも喜んでいたように思うし、ユキノも目覚めれば再会に歓喜するだろう。
さて。
楽団はまだユキノを諦めていないようだった。
しかし世界でも通用するような歌手が、そんな流しのような楽団に所属させておくわけにはいかない。
ユキノの手がかりはないはずだ。
だがひとつ気になることがあった。
ヒナノという少女が胸に挿していた花だ。
あれはあの時ユキノが花屋で買っていた花ではなかったか。
「バルトルト、ユキノはどうしたんだろうか」
バルトルトが事務所で夜会の名簿を整理していると、ヒイラギが部屋に入ってきた。
夜会に出席していたユキノのファンも、そこそこ満足はして帰ったようだった。
ヒイラギも思ったより落胆はしていないようだ。
楽団に問い合わせても結局有耶無耶に流され、母が危篤だの、飼猫が失踪しただの、城に呼ばれただの、その時々で対応が違ったため余計に謎が深くなるのだった。
「何かあったのは間違いないでしょうが、事情がはっきりしないので心配ですね」
バルトルトは一旦手を止めると、適当に主人に合わせた。
「何もなければいいのだが、あの楽団が事情を隠しているのが解せない」
楽団ももう少し上手く誤魔化してくれたら良いものを、曖昧にするから主人が疑うのだ。
「ところでミスター」
不安げな顔をしている主人に、バルトルトは話題を変えようと話しを振った。
「明後日なのですが、何か予定はありますか?」
少し考えてから、「いや」と答える。
「ミスターに見せたいものがあるのですが、付き合っていただけませんか」
「珍しいな。お前から頼みごとなんて。どこかへ行くのか」
「ええ。きっと喜んでいただけると思うのです」
「そうか。楽しみにしておくよ」
そう言ってヒイラギは部屋を出て行った。
三日もあれば二人の関係は元に戻っているはず。
指揮者はもう着いているだろうか?
すべてがうまくいくはずだ。
あの二人は生きていたし、あの頃の音楽を再び奏でてくれるはず。
そしてチューニングの狂ったギターではなく、何の歪みもないギターと、ユキノの声で、音楽が奏でられる。
指揮者はいてもいなくてもいいが、クロエという男の指揮は死者でなくとも行えるはず。
更に素晴らしい物になるだろう。
バルトルトの頭のなかで奏でられる音楽はファンファーレ。
もう一度ユキノのレコードを聴いておこう。
明後日が楽しみだ。