第六楽章
銀髪を櫛で綺麗に後ろになでつけた男は、最新のレコードプレイヤーから流れる曲を豪奢な部屋で聴きながら、ふと首をかしげた。
そこは自室の一画で、対面にもう一人厳めしい顔つきの男が座っている。
その男は、銀髪の男のとった些細なアクションを見逃さなかった。
「どうなさいました。ミスター」
ミスターと呼ばれた男は、少し考えた後、レコードプレイヤーを一旦止め、答える。
「いやね、変だな、と思って」
この最新機種のプレイヤーで、二人で音楽を聴き始めたのがほんの十分前ではあるが、その間会話という会話はなされなかった。
ということは、
「私の顔に何か付いてましたか」
言いながら厳めしい男は手で自らの顔を撫でる。
「バルトルト。それは違うよ。音楽だ。チューニングが少しおかしい」
「チューニングとは?」
「音楽が心地よく聞こえるのは、すべからくチューニングを揃えているからだ。弦楽器ならばひとつひとつの弦の音を、同じヘルツに合わせてあるし、管楽器などもまあだいたいは440ヘルツに合わせてある。それがずれてしまうと気持ちが悪いってもんじゃない。音痴な歌を聴いているのと同じだ」
「そのレコードが、そのチューニングがずれていると」
「ギターだろう。今まで気づかなかった」
もう一度針を盤の上に乗せると、ギターのイントロ、女性の唄声が流れる。
バルトルトはそれを一音一音逃すまいと耳を研ぎ澄ます。
ヒイラギは何度も「ほら、ここ」「ここも」「この音とこの音だ」と言う。
「高いな」
「すみません。ミスター・ヒイラギがおっしゃっていることが、私にはまったくわかりません。常人の耳には聴きわけがつかないのですか? それとも私の耳が腐っているのでしょうか」
バルトルトが真剣な顔で言うので、ヒイラギは可笑しくなってしまった。
「腐っているのかもしれんな。
いや、冗談だが。
普通の耳ではわからんかな。これだけ音が混ざっていると。しかし混ざれば混ざるほど、ブレが生じて音が揺れる。多分、何ヘルツかだろうけど。これはいただけんな。今まで何度も聴いてきたレコードなのに」
針を持ち上げ、棚から別のレコードを出し、丁寧に入れ替える。
しんとした空間に、先ほどとはまた別の曲調の音楽が流れるが、演奏者は同じだった。
「これもだ」
ヒイラギの眉間に皺が寄る。明らかにイラついている。バルトルトが立ち上がり、
「お茶でも淹れましょうか」
そう申し出てから部屋を出る。
バルトルトはしかしその足で一旦外へ出ると、外で常に待機している車の運転手の元へと向かった。
「バルトルトさん、何か」
「ちょっと使いを頼みたいのですが」
バルトルトはその場でメモを書き、運転手に渡す。
「ここに住んでいる方に、この男の行方を知らないか訪ねてきて欲しいのです」
メモには、住所と、一人の男の名前が書かれていた。
「わかりました」
そして執務室で湯を沸かし、カモミールの葉を濾すと、主の待つ部屋へと戻った。
ノックをし、中へ入ると、ヒイラギはまた別の盤を聴いていた。
「さっき誰か来ていたのか?」
「いえ」
「そうか」
「ミスター・ヒイラギ、明日の演奏者は、確か先ほど拝聴していた」
「そうだ。ユキノが在籍している楽団だ。大枚をはたいてでも呼びたかった。私の憧れだよ。しかしな、さっきのレコードは昔のものだからな。
ああ、彼との音楽を、また聴きたいな」
カモミールティーを飲み、そばに置いていた煙草をふかす。
明日の演奏は、一興に過ぎない。
それが主ではないので、彼は満足がいってないのだろう。
立ち上がり、彼女のかつての録音をレコードプレイヤーに乗せる。
しかし針を落とすことはなかった。
「バルトルト。彼女はこれでよかったのだろうか」
足を組み換え、首をもたげる。
「私の古いレコードプレイヤーでは聴きとれなかったんだ。
最新のものは違うな。
細かな表現まで丸聴こえだ。
荒というのかな、味というのかな。
彼女は完璧なのにな」
カモミールは心地よい睡眠をもたらすという。
ヒイラギは日頃の激務に疲弊し、ソファーに埋もれるように眠りに落ちた。
バルトルトはティーカップを片付けると、今しがたセットされたレコードの上に針を乗せる。
透明度の高い伸びやかな声に、チューニングのずれたギター。
何度か耳にしたことのある曲だった。
中間部の、リズムが変わる所が好きだ。
ずっと違和感があった。
それが、チューニングというものだとは知らなかった。
それは、今までのレコードプレイヤーの時からずっと感じてはいた。
バルトルトは寝室からタオルケットを持ち出し、ヒイラギにかける。
彼は何も知らない。
バルトルトの額と脛には、古傷があった。
幼少の頃海で流され、岩礁に額と脛を打ち付け、うまく岸に乗り上げたものの動けず、それを助けてくれたのがヒイラギだった。
ヒイラギの好きなものは好きだし、嫌いなものは同じように好きにならなかった。
付き人として従順であり続ける。
今までも、そしてこれからもそうだ。
バルトルトは主人の部屋を出ると、先ほど運転手に頼んだ連絡を待つ。エントランスに立ち、外を伺うが、車が帰ってきた気配はない。
バルトルトは、彼の居場所が知りたかった。
彼の師は見つけた。名の知れた作曲家。その人物は隣町に住んでいるという。
その人物なら、知っているかもしれない。
彼女と共に栄光を手に入れ、そして姿を消したギタリスト。
ユアン・ディエゴの行方を。
程なくしてパタパタという足音と共に運転手が帰ってきた。
夜も更け、車は駐車場に停めてきたのだろう。
先にバルトルトが玄関の戸を開け、外に出る。
「どうでした?」
「はい。快く教えて下さいました。ただ、ちょっと……」
運転手は言い難くそうに口籠る。
「ユアンさんはもう随分と前に、ある山にこもったまま、そのお師匠さんの所にも姿を見せていないそうです。なので、生きているかもわからないと」
もし死んでいるとしたら。
主の願いを叶えることができない。それでは自分が生きている意義がなくなってしまう。
彼が生きていて、二人が出会いさえすれば。
ただそれは、秘密裡におこなわなければならない。
ヒイラギを喜ばせたい。
予定は今週末。彼がオフの日だ。そこを外せば暫く彼は休みがない。
彼女は来てくれるだろうか。
幸い彼女は今この街にいる。どうにかすれば、引き合わせることができるはずだ。彼が生きていれさえすれば。
どういう理由があって二人が別の道を歩んだのかはわからない。しかし、どうしてもやりとげたい。
二人を引き合わせ、ヒイラギのために、演奏してもらいたい。
ステージも用意しなければ。
生きてさえいれば、うまくいく。
しかし、彼が死んでいるとしたら?
「すみません、もう一度だけ今から走ってもらうことはできますか」
バルトルトは一旦応接室に戻り、短い文を書き、再びそれを運転手に渡した。
「街の外れにある、クロエと言う男の家のポストに入れてきてほしいのです。できれば早急に」
運転手は、バルトルトが主に並々ならぬ忠義心を持っていることを知っている。
バルトルトの使いは、同時にヒイラギの使い。それを疑うことはない。
運転手は急ぎ、街外れに住む男の家へと向かう。
その手紙の内容などもちろん知らない。
知ってはならない。
運転手を見送ると、バルトルトは自室に戻り、主人へのサプライズをどう演出するのが一番効果的か考えた。
ユアンの生死が不明というのは寝耳に水だし、彼女の彼に対する想いも全くもって不明である。
再開したところで、演奏をしてくれるとは限らない。
明日、行動を起こそう。
彼女が主人の前で奏でる音楽は、まず二人のものでなければならない。
明後日の興行はよくわからない楽団だと聞いた。
知名度も演奏力もたいしてない。どうしてユキノがそんな楽団に所属しているのかは謎だが、そんなものでは、表立っては言わないが、ヒイラギは納得していないはずだ。
本物のユキノの歌を聴かせたい。それは、レコードで散々聴いた、あのチューニングのずれたギターではなく、真に納得できるものでなければならない。
誰かが二人を再び結びつけなければ。
それは、自分にしかできない使命だ。