第四楽章
たゆたう蝋燭の灯りに誘われて、蛾が一匹翔んでいる。
あらゆるものを飲み込んでしまいそうな、ぽっかりと空いた真っ暗闇の洞窟の先に、彼はいた。
床に置いたギターの弦は錆びていて、本来六本あるはずの一本が切れたまま、もう何年も張られることなく放置されていた。
それでも彼は時折その弦を爪弾き、空気が音の振動で揺れる瞬間を楽しんでいた。
昼も夜もわからないこの空間で、一体何日過ごしたのかわからない。
それでもここから出るわけにはいかないのだ。
使命がある。
絶対に逆らえない使命。
洞窟の壁に備え付けられたベッドに彼女は眠っていた。
ほんの先刻まで独りで過ごしていたこの空間に、彼女は或る男に連れられやってきたのだ。
彼の瞳の奥に静かに燃えるのは彼女への憧憬だったのか、それとも単なる嫉妬だったのか。
今ではそれもはっきりとしない。
朦朧とした頭で考えるのは、どうやってこの場で死なずに居れるのか。
自らの意思で住み着き、孤独だが何にも干渉されず、ただ時だけがが流れる。
彼女の事は知っていた。
その類いまれなる才能を余すことなく発揮し、栄光を手にいれた歌姫。
赤毛はステージとは違い後ろでひとつに束ねている。
それも男は知っていた。
近寄り、そっとその頬に触れてみる。
彼女が目を覚まさないのは、薬で眠らされているからだ。
何年ぶりにこんな近くでこの顔を見たのか、それもわからない。
あの頃は忙しく、そしてあわただしく、義務のように音楽をこなし、お金をもらい、それで満足していた。
自分はそれでいいと思っていた。
義務とはいっても、洗礼され、素晴らしい師匠の元で培われた技術が自分にはあった。
彼女はそれに天武の才能も加わり、二人はどこの楽団よりも優れていた、そう思っていた。
だがそれは欺瞞だったのだ。
二人がそうやって常に立ち回れていたのは、ただただ彼女の天武の才能があまりにも秀でていたためであって、男の技術などはただの飾りでしかなかったのだ。
気づいたときには遅かった。
すべてのファンは彼女のみに付き、男のその傲慢な態度から、二人のファンは消えた。
誰でもよかったのだ。
彼女さえいれば。
そこから男はこの洞窟を見つけ、引きこもった。
その紅い花はどこから持ってきたのか、ユキノの胸に飾られたそれは、禍々しくも美しく、内から流れ出た血のようで、陶磁器の様な肌は少しの化粧ものってはおらず、よく見ると、うっすらと青く血管さえ見える白さだった。
節の目立つ指でその肌に触れる。
「…ユキノ」
ふいに瞼の筋肉が少し動いた気がした。
もう一度触れてみる。
一瞬の間をおいて、もう一度瞼が動いた。
「ユキノ、聞こえてるの?」
ひきこもってからはほとんど発することがなかった男の声は、掠れ、老人のようだった。
それでもやはりその声に反応を示しているように思う。
ここでユキノが目を覚ましたとして男はいったいどういった対応をすればいいのか、長年人との関わりを絶っていた男はしかし、その考えに及ぶ前に、ユキノの肩をゆすっていた。
「ユキノ、ぼくだよ、起きて」
遠い記憶にある、吸い込まれそうな翡翠色の瞳が開かれるのをじっと待つ。
入り組んだ洞窟のずっと奥で、地中から染みでた水が滴り落ちる音が微かに聞こえる。
少しの物音も聞き逃すことはない。
ふと、視界に入ったものが、男の衝動をさらにかきたてた。
それは男の記憶にある栄光の片鱗。
手に取り、骨ばった指で爪弾く。
ここに来てからというもの、張り替えられたことのない鉄弦は錆び、まるで艶のない音をたてたのだが、天然の反響で幾分柔らかく響いた。
「君の一番得意な曲だよ。懐かしいな。君は僕のギターで歌ってたんだよ」
一曲弾き終えた後、薄く血色の良い唇が動いた。
「…ユアン」
胸に置かれていた花が床に落ちる。起き上がろうとするユキノを、ユアンと呼ばれた男は抑えた。
「だめだよ、まだ起きちゃ」
ユキノは翡翠色の瞳でユアンの鳶色の瞳を覗き込んだ。微かに怯えているように見える。
今はどういう状況で自分がどういう状態かもわからず、辺りを見回す。
灰色の壁に、炎の明かりだけが暗く揺らいでいる。
ひやりと湿った空気が、起きたばかりの体をどんどん冷やしていく。
一瞬体を震わすと、覚醒してきた頭で、その状況を理解しようとそれまでのことを思い出そうとした。
しかしそうすると今まで感じたことのない頭痛がユキノを襲った。
「大丈夫? 水を持ってくるよ」
ユアンは奥で流れている水路から汲んできた水を渡す。
それを受け取り、一口飲み込むと、再びユアンの手に戻した。
「そんな顔で見ないでよ」
ユアンは警戒を解かないユキノに苦笑した。
「君の気持はわかるけど」
ユキノはそう言ったユアンから顔をそむけ、閉じていた口を開いた。
「頭が痛いの、ユアン」
彼女の声は、ギターと同様、空間に生気をもたらした。
澄んだ湖のような透明な響き。どこまで沈んでも視界は鮮やかに、ユアンの脳に青い波が押し寄せた。
「ここはどこなの」
ユキノは率直な疑問をぶつけた。
「ぼくのうち、かな」
少しの間をおいて、ユキノはもう一つの疑問を口にする。
「どうして私があなたのうちにいるの?」
「それは、今は言えない」
「それじゃあ、別の質問を。あなた、今までどうしていたの」
数年前、突然消えた相方が、気がつくと目の前にいる。どれほど探したか知れない。
「ぼくは、ずっとここにいた。もう君のことは忘れるくらいに」
「それじゃあ、どうしてあなたの目の前に私がいるの? ずっと、こんなところで、ひとりぼっちでいたの?」
その瞳には涙があふれていた。
「どうして? どうして私をおいてこんなところに? 私がどれだけ心配したか。……頭が痛いわ……」
ユアンはユキノの手を取ると、そっと口付けた。
「ごめん。ぼくは弱い人間だからね。いろんなことに耐えられなくなって、すべてのことから逃げたんだ」
「すべての……。それは、私からも逃げたってことね」
ユアンは笑うと、ギターを抱え、再び弾き始めた。
「歌ってよ、ユキノ。ぼくのギターで」
「こんな気持ちで歌えない」
ユキノは起き上がり、ふらつく足で立ち上がると、出口を探し始めた。
「無理しちゃだめだよ。まだ薬が効いてると思うんだ」
「薬?」
再び頭に激痛が襲い、うずくまる。
「私、どうしてこんなところにいるの、ヒナノ達が、きっと心配しているわ」
ユキノの視界に、先程胸に置かれていた花が映る。
「あれは……」
這いずり手に取ると、懐かしそうにその匂いを確かめた。
「ヒナノの誕生日に用意していたの、あの子の好きなアネモネの花。
そうだ、私、この花を買って帰る途中、誰かに声をかけられたわ」
「ユキノ、大丈夫だよ。うまく言っておいてくれるよ」
「どういうこと?」
「あの人たちはそう言ってたよ」
ユキノは怪訝な目でユアンを眺め、赤い花を胸に抱いた。
「私には大事なステージがあるの。帰らなければいけないわ」
履いていたヒールは歩きにくく、それを脱ぎ、いくつかの横穴を覗いてみる。
しかしどの穴も奥は暗く、足を踏み入れるだけで飲み込まれてしまいそうだった。
「この洞窟は入り組んでるからね。地図がないとぼくでも出られないよ」
「地図はどこにあるの?」
「そんなの、渡せないよ。君はぼくとここで暮すんだ」
暗闇の中に浮かぶ男の顔は、奇妙に歪んで見える。
ロウソクはどこからか吹いてきた風に揺れ、影も不思議に踊り、ユキノは胸のざわめきを鎮める事ができなかった。
「あなた、何を考えているの。あの人たちって誰?」
「ぼくはただ君と一緒にいたいだけだよ。願わくば、歌を聴きたい。あの人達のことは、そうだな、君が一曲歌ってくれるなら、話してもいい」
男は常に口元に笑みを携えているが、ユキノにはそれが不気味で仕方なかった。
交換条件をのんでしまうと、自分は二度とここから出られないような気がした。
しかし状況がわからないままでは先には進まない。
「一曲だけ歌うわ。だけど覚えておいて。どんな素晴らしい歌を歌っても、今ここで歌うその歌は、最低な歌になるわ。私の気分が最低だからよ」
「ユキノの中では最低かもしれないけど、どんな奴が歌うより、それは最高なものだよ」
言いながらユアンはギターを構え、アルペジオを弾き始めた。
弦が一本足りない分、その音があった部分に空白ができ、本来のものより幾分怠惰に奏でられる。
悲恋を歌ったその曲を、ユキノは、こみ上げてくるユアンに対する懐疑の念を顕わに歌いあげた。
ユアンは頭の天辺から爪先まで、その声の高音、低音を久方ぶりに体で感じ、弾きながら自らの脳内の霧が、見事に晴れていくのを感じていた。
「……ユキノ、やっぱりユキノはぼくの女神だよ。流れる忘却川に片足を突っ込んでたぼくは、君に引き上げられた。一度は嫉妬で君がいなくなればなんて思ったけど。ああ、そんなの、比べるなんて、なんておこがましいことだろう。やっぱり、ぼくには、君がいないとだめなんだよ」
一気に喋ると、ユアンはユキノが飲み残した水を飲んだ。
「もう一曲歌ってよ」
「だめよ。約束よ。あの人たちの話をして」
冷静に言うユキノをユアンは凝視し、暫しの沈黙の後、口を開いた。
「あの人達は、ぼくたちのファンだったって言ってたよ。突然ここにやってきて、君を置いて行った。ぼくはただ、君を見ていればいいって」
「あなたがここにいることを、その人たちは知っていたの?」
「それは……、知ってたんじゃないかな。突然君を連れてきたから。ぼくたちを逢わせてくれたんだ」
「あなたは五年前に私の前から姿を消した後、すぐにここに来たの?それから、ここから出ないわけにはいかないでしょ?誰かにあなたがここにいることは伝えたの?」
ユアンは押し黙る。
「どうしたの?」
暫くして、少し顔を顰めながら言った。
「ぼくは、あの人たちのこと、本当は何も知らない。でも、ユキノをここに連れてきたってことは、ぼくがここにいることを知っていたんだろう。ぼくがここにいることを知っているのは、ぼくの師匠だけだよ。食糧は山に自生しているものを食べているし、麓の村にはたまに行くけど、みんなぼくの素性なんて知らないだろ」
「……わかったわ。結局、私がどうしてここに連れられたのか、全然わからない。でも、私たちのファンだなんてよく言うわ。私を薬で眠らせて、こんなところに閉じ込めて。いったい何がしたいのかしら」
「ファンなんだから、ぼくたちの音楽を聴くために、ぼくたちを会わせたんじゃないのかな」
「いくら私たちが好きだと言ってくれても、私はこんなやり方をする人たちの前で歌う気はないわ」
ユキノはそう言って立ち上がり、ユアンが自ら作ったのであろう机の引き出しを、一つずつ開け始めた。
「ユキノ?何してるの?」
しかしユキノはそれを無視し、それが仕舞われていそうな場所を闇雲に探し続ける。
「ユキノ!」
ぼろぼろになった譜面や、手紙、破られた写真などが出てきたが、それらしいものは見つからない。
「無駄だよユキノ。地図だろ?見つかりっこない」
「どうして!私はここから出なきゃいけないの。みんな待ってるわ」
「だれが待ってるんだ。ぼくより君のことを必要としている人間なんてこの世にいない」
「いるわよ。あなたは歪んでしまったわ。あなたも、ここから出なきゃいけない。あなたの目を覗くとね、ほんとに暗いわ。洞窟にいすぎて、中身が見えない。暗い暗い、闇そのもの。一緒に出ましょう。そしてもう一度、青空の下で、ギターを奏でるの。そしたら、私歌うわ」
ユアンは、じっと見つめる翡翠色の瞳を直視できなかった。それは彼女の歌声のようにあまりにも澄んでいて、長年穴で澄み続けた男には、眩しすぎた。
目をそらし、うつむく。
「もう無理だよ。ぼくは出られない。日の光の下じゃ、君は明るすぎるから、ぼくは一緒にはいられない。だからこうしてここで一緒にいたいんだ」
その声は小さく掠れ、嗚咽が混じっていた。ユキノはできることなら二人でここから出ることを考えていたが、それは長い年月が邪魔をして、溝は深まるばかりだった。
「地図はぼくが持ってる。ぼくはきみとここにいられるなら、ここから出られなくったっていい。地図なんか、破り捨ててしまう」
懐からそれを出すと、一気に破った。
「やめて!」
もう一度破ろうとするのを、ユキノは飛びかかり彼の手をつかみ遮った。しかしユキノの細い腕では、男の力には適うはずがなかった。
ユキノは弾き飛ばされ、膝を強打した。そして小さく呻くと、男をきつく睨みつけた。
「もういい。地図なんかいらない。自分でここから出てやるわ」
打ちつけた膝が痛むが、そんなことはどうでもよかった。
壁に掛けられたランタンを手に取ると、長いスカートのすそを持ち、アネモネは髪に。ユキノは先の見えない岩山の胎内へと足を踏み入れた。
平坦ではない道を、裸足で駆ける。
痛みは感じない。とにかくここから出ること。唯一の光は先を照らしてはくれない。幾度も行き止まりにぶつかり、折れそうになる心を、待っていてくれる仲間の顔を思い出し、奮い立たせる。
もうどれだけ走ったかわからなくなった頃、遠くで何かが反響する音が聞こえた。
立ち止り、その方向を凝視する。
傷だらけの足は、疲労と痛みで、一歩進むことも辛い。
しかし耳を澄ませ、確実にその方向へと進んでいく。
ユキノを追う男の足音は、先ほどから聞こえなくなっていた。
その音は、鳥の羽音のようだった。
一歩、そしてまた一歩。
だんだんと希望の光が見えてくるような感覚。
生き物の気配。
それはきっと出口に近付いているということだ。
きっと服はドロドロで、たくさん引っ掻いて穴だらけなんだろうな。ヒナノに見られたら恥ずかしい……。
そんなことを考えながら重い足を気力だけで動かす。
と、その時、あるはずの地面がないことに気づく。
と同時に、ユキノはバランスを崩し、底へと―――。
ユアンの瞳は彼の住む洞窟よりも暗く深く、暗澹としていた。
どうしてこうなったのか、考ようとしても、思考は勝手にストップする。
彼女の持っていった小さく揺れる光を見逃すまいと、長年使うことのなかった筋肉を動かし続けた結果、離され離され、小さな石に躓き、転んだ。
膝と手のひらを擦りむき、汗と泥まみれの顔を、壁に打ち付けた。
「無理だ。無理だったんだ。もう一度ユキノと一緒に暮らすなんて。あの人たちは嘘つきだ。
ちくしょう、ちくしょう!」
壁は冷たく、薄い皮膚を付けると、熱くなった体をすぐに冷ましてくれた。
どんな手を使ってもユキノを引き留めたい気持ちはあるが、そのどんな手も思いつかない。
ユアンはへたり込んだまま頭を抱えていると、小さく、自分の息の音で消えてしまうような、微かな声が、耳についた。
悲鳴であった。
それは一度きりで、場所を特定できればと、息を殺して耳を澄ますが、二度と聞こえることはなかった。
ユアンは一度聞こえた方角を、勘だけで突き進む。
今や傷だらけの体など、忘れていたし、ユキノと住むことなどできない絶望感はすっかり消え、ただ、その悲鳴の主が彼女でしかあり得ないことに、ユアンの心の奥で不安と恐慌の渦が激しくなるばかりだった。
「ユキノ、ユキノ……!」
あまりの突然の運動で、ユアンの肺は限界であったが、頭の中で先ほどのユキノの歌が反芻し、止まることがなかった。
あの歌をもう一度聴かなくちゃ。
ぼくは、生きていけないんだ。
右手を壁につけ、行き止まりにぶつかることなく、しかし何度も地面の隆起に躓き、転びながら、ユアンは走り続けた。
そしてとうとうもう走る必要がない場所へとたどり着く。
ユアンは柔らかいものに足を引っ掛け、大きく体を倒した。
受け身をとる体力も残っておらず、その場に胸から倒れると、暫く起き上がることができなかった。
足に受けた感触。
それは、人であった。
まぎれもない。疑う余地もない。
ユキノだった。