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葬列の指揮者 ー赤い海に沈むー  作者: 深野メイ子
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第一楽章

 街の中心にある、そう大きくないダンスホール。


 通りは古い石畳が敷かれ、煉瓦造りの二階建ての建物は、さながら歴史建造物のように厳めしく、その存在を主張していた。


 その建物の中で、栗色のショートカットに吊りズボンの少女、ヒナノが真っ昼間から慌ただしく階段を昇り下りしているのは引っ越しをするからでも柔道の特訓をしているからでもない。


 彼女は焦っていた。


 今晩の夜会の演奏のメインを務めるユキノが居なくなったのだ。

 彼女の唄は絶対だった。

 何者も魅了する神秘の声を持ち、その彫刻のような顔は誰もが見れば嘆息する。

 今日来る客は皆が皆それ目当てのはずであった。

 それなのに、彼女は何処にもいない。

 昨日、起きると、隣のベッドはもぬけの殻だった。

 今日になっても帰ってこない。

 些細なことで言いあった。まさかそれが原因だろうか。

 ヒナノはそう考えるといてもたってもいられなくなって、階段をとりあえず上り、そして下りていた。

 彼女がいなければ成り立たない、しかし親方は言うだろう。


「お前が歌え」と。


 それはあってはならない事態で、確実に避けなければならない事なのだ。


 ヒナノは歌が上手かった。

 人から褒められる程度には歌えたし、何故歌姫ユキノと同じ楽団に居るのかと問われれば、それは彼女の絶対音感が特殊だからだ。


 絶対音感とは、その能力を持つものは、音であれば何を聞いても音階に聞こえるという、一種ありがたくない能力のことで、例えば普段の会話の言葉の音階、虫の声、それこそ硝子の割れる音、雑音、全てに音階がついて回る、本人たちにしてみれば頭が休まる暇のない、歌うたいにしたっていらない能力の事である。

 そして彼女の一風変わった絶対音感とは、彼女の歌が、音階内でしか発声できないということ。

 言ってみれば機械に歌を歌わせている様なもので、表現者にとって必要不可欠なビブラートやグリッサンド、所謂しゃくりができないという致命的な欠点があった。


 親方は面白いからと言って使ってはくれるけど。


 表現者としては最悪な人材であった。


 本人もそれを重々承知しているだけあって、今夜の夜会は散々たるものになるのは目に見えている。


 ヒナノが二階の楽屋で頭を抱えていると、下で喧しくブザーが鳴り続けているのが耳についた。

 それは何度もしつこく押されている。

 誰もいないのだろう。先程まで今日の主催者、この季来館のオーナーが居たのに。

 ラの音の連打。あまりにもしつこいので、ヒナノは渋々出ることにした。


 ドアを開けると、そこには両サイドは刈り上げてはいるが、片目が髪で隠れ表情のいまいち覗えない青年が不気味に立っていた。

 言っては何だが、服装も薄汚れ、お世辞にもこの建物を訪ねてくるには見合わない出で立ちをしていた。


 見たことのない顔にヒナノはこの店の主人でもないのでなんと言ったらいいのかわからず、青年を凝視する形になってしまった。

 先に口を開いたのは青年の方だった。


「あの、ユキノさんの……」


 ああ、そうか、やっぱり。


「ユキノのファンの方ですね? ユキノは只今不在でして」


「いえ、違うんです。その、これを」


 何が違うと言うのか。ちゃっかりプレゼントなど用意しくさって。

 ヒナノは小さく舌打ちをする。


「え?」


「すみません、そういったものは、うちの楽団は受け取らない方針なんです」


 これは本当である。親方はたまに受け取っているが、ユキノは頑なに受け取らない。


「いえ、これはその、もともとユキノさんのものなので」


 そう言って青年は紙に包まれたモノを無理やりヒナノに渡すと、「では僕はこれで」と逃げるように去っていってしまった。


「なんなのさ」


 手の中にはユキノ宛て、いや、ユキノの所持品が。


「ファンじゃないのかな。親方が帰ってきてから渡そう。てかユキノ、どこいっちゃったのよ」


 ヒナノは一旦楽屋に戻ると、一応発声練習とユキノが歌うはずだった歌を確認する。

 声は悪くないと思う。

 しかしどうしても正しい音階しか出ない。ちょっともずれない。


「上手いんでも特殊でもない。ただの機械じゃん」


 涙が出てきた。

 そこへドアが開き、見慣れた親方の顔。丸々として、今にも空へ飛んでいきそうだ。


「ユキノはやっぱり帰ってこんか」


 よほど探したのだろう。あまり体力のない親方は若干息を切らしている。

 再びドアが開き、トロンボーン奏者のニコと、アコーディオン奏者のベルーナが車を置いて入ってきた。

 二人ともよほど親方につれ回されたとみて、やはり疲れぎみに椅子に座った。


「おいおい、ニコもベルーナも座ってる場合じゃないぞ。わしらこれからおまんま食いっぱぐれちまう。早くユキノを探さんことには」


「でも親方、この小さな街を汲まなく探したのに見つからないなんて、もうこの街にはいないんだよ」


 そう言ったのはノッポのニコだった。ベルーナも頷き、ヒナノの方を見る。


「ヒナノ、どう? 声の調子は」


 三人に見られ、ヒナノは元々小さな体を更に縮こまらせる。


「どうったって、いつもとおんなじ。おんなじ音しか出ない」


 三人は同時に溜め息をついた。

 焦ったってもがいたって、今はどうしようもないのだ。


「それより、さっき男が来て、これ置いてった」


 ヒナノは中身のわからない紙の包みを親方に渡す。親方は裏表を確かめたあと、「どんなやつが持ってきた?」そう言いながら包みを開け始める。


「ひょろっとした青年。ちょっと臭った。そんで前髪が長くて顔は見えなかった。元々ユキノのものだったって言ってたよ」


 少し嫌な予感がする。


 恐る恐る包みを開くと、そこには小さなメモ用紙と、赤い花、それに赤い髪の毛の束。


 髪はおよそ二〇センチ程の、まだ切りたての艶やかな赤毛。

 それは紛れもなくユキノのものだった。


「どういうこと?」


 ヒナノは急に寒気がして、ベルーナの服の端を掴む。

 メモには走り書きで住所が記されていた。


「ここにユキノがいるってことかしら……」


「行こう!」


 ヒナノは自分の鞄を持ち直ぐ様部屋を出ようとするが、ベルーナに捕まれ戻される。


「待って、今すぐには行けない。私たちには仕事があるのよ」


「だってベルーナ、ユキノ、ひょっとしたら……」


「ヒナノ、お前の気持ちはわかるがな、今日はダメだ。ユキノが居てもそう言うだろう。我々の音楽を待ってる人たちがいるんだ」


 ヒナノは溢れてくる涙を堪え、反論しようにも言葉が出てこなかった。


 その時、玄関のドアが開く音がした。オーナーが帰ってきたのだ。

 四人はまずどの問から解決すればいいのか考える間もなく、楽屋のドアがノックされた。


「は、はい、どうぞ」


 親方がためらいがちに返事をし、そのドアは開けられる。

 もちろんそこに立っていたのは、銀髪を後ろに撫でつけたオーナーのヒイラギだった。後ろには、常に張り付いている、額に傷のある厳めしい顔つきの男。どういった立場の者なのか、ただ無表情で佇立している。


「みなさん、リハーサルはお済みになられましたかな? そろそろ食事でもと思いまして。

 おや?」


 辺りを見回す。


「ユキノさんは?」


 四人は顔を見合わす。


「どうなされたのです」


「いえ、ユキノはちょっと、体調を崩してまして、先ほど診療所のほうへ…」


 ヒイラギは目を細め、疑心暗鬼に楽団の面々を見渡した。


「そういうことでしたら、仕方ありませんね。食事は四人分、用意させます。もちろん、後程ユキノさんはいらっしゃるのでしょうな」


「は、はい、もちろん!」


 親方のその返事に、ヒナノ達は一斉に冷や汗をかいた。

 ヒイラギが去った後、何故あんな嘘をついたのかと、皆で親方を責め立てた。


「そんなもん、ひょっとするとひょっとするかもしれないじゃねぇか。ユキノがまだ帰って来ないって決まったわけじゃないんだから」


「そうは言っても親方、この髪の毛を見たら、ユキノが事件に巻き込まれたって思うのが普通でしょ」


 言ったのは巻き毛のベルーナ。


「でも何らかのメッセージをユキノ自身が送っているのかもしれないよ」


 ヒナノは言うが、自分の髪の毛を自分が所属している楽団に送る意味。

 まったくわからない。

 事件に巻き込まれたと考える方が確かに無難なのだが、ただそうは思いたくない。


「ユキノは確かに心配だが、とりあえず今考えなければいけないのは、今夜の夜会の構成だ。ユキノがいないんじゃセットリストは丸々変更だ」


 親方は使い古された革のケースの中から譜面の束をごっそり取りだし、あれでもないこれでもないと、何とか四人でできる曲を探している。

 ニコとベルーナも各々の楽器の手入れに取りかかっていた。


「ちょ、ちょっと待ってよ。オーナーはユキノのファンなんでしょ? ユキノがいないまま演奏なんかしたら……」


「まあ落ち着けヒナノ」


 ヒナノは釈然としないまま、親方が絞り出したリストを見る。

 ユキノとはまったく違う選曲。

 当然と言えば当然なのだが、あまり感情表現のいらない曲ばかりなので、客は楽しめないのではないか。

 そう言うと、


「ユキノのコンサートは無しだが、我々が音楽を奏でられないわけじゃない。バックミュージックをつとめればいいんだよ。生でやっているという見栄えが大事なんだから」


 親方は最もらしく言うが、要はレコードプレーヤーでも良いと言っているのだ。

 ただそこに音楽が鳴っていればいい。それだけの存在。


「ニコとベルーナは素晴らしい演奏をするけど、そこに私が入るとバランスが崩れるに決まってる。いつもみたいに私はウッベだけでいいよ。歌がなくてもみんな踊れるでしょ」


 ユキノがメインで歌うとき、ヒナノはウッドベースを弾いている。たまにコーラスを歌うときもあるが、同じ歌でもコーラスとメインは役割が違う。

 ヒナノのコーラスは音程を外すことがないのでそれはある意味最強だった。


「まあそれはそうだけど、一回やってみましょうよ」


 ベルーナは立ち上がり、トロンボーンで音階を奏でる。

 柔らかい、音から音へ繋がる奏法。ヒナノには奏でられない音。

 ニコのアコーディオンが和音を奏で、それにトロンボーンが裏旋律を乗せてくる。

 小さな体のヒナノの指が、身長よりも大きなウッドベースの弦を弾く。親方は所謂道化として本番では立ち回っているが、普段は楽団の指揮を勤めている。たまにシェイカーやタンバリン、カバサやウッドブロックなどを思い付くまま鳴らすこともあるのだが、基本的には盛り上げ役である。

 イントロダクションがそろそろ終わろうとしている。

 親方がヒナノに歌えと目で合図を送る。

 ヒナノは、こんな心地のいい揺れる音楽に自分の歌は乗っからないと首を振るが、三人は仕切りに入れと促す。

 何度かイントロを繰り返し、ヒナノは意を決して声帯を開いた。

 歌いながら、なんて自分の歌はつまらないんだろうと思う。

 やっぱりユキノは世界一の歌手だったんだ。

 私にはその代役なんて、とてもじゃないけど務まらない。

 そう思いながら歌い終えると、親方が不意に側に置いていた呼び鈴、あのホテルのカウンターなどにあるベルーナをリズムよく叩き出した。


「親方?」


 もう曲は終わっている。

 ヒナノはそう尋ねると、ベルーナとニコも次の曲を奏で始める。

 南国の軽快なリズムがヒナノのベースを誘っている。仕方なしにもう一曲演奏しなければならないようなので、リズムは呼び鈴だがそれはトライアングルの音と良く似ていてとても軽く心地よい。

 再び促され、口を開いた。

 音は機械的だがリズム感は抜群のヒナノの声は、清らかに澄んでいて、その透明感は誰にも出せないものだった。


「お前、ずいぶんと練習したんじゃないか。いけるぞ、今夜」


 二曲目が終了し、賑やかだった楽屋に静けさが訪れたと同時に、親方がぽつりと呟いた。

 ヒナノはとんでもないと首を振る。

 しかしベルーナとニコも同じく「最高だった」と、賛美の声をあげた。



「練習したんだろ?」


 もちろん、演奏のない日は決まって川原や公園などで発声練習はしていた。

 ユキノの歌を真似たいとも思い、頼み込んで特訓してもらったこともある。

 結果真似ではそれ以上にはならないと言うことがわかり、再びひたすら個人練習を積み重ねたのだが。

 音が混ざっていた。

 違和感なく、それは重なり重なり、絡み合って不思議なほどに美しく混ざっていた。


「ユキノとは別のサウンド、素晴らしいよ、ヒナノ」


 ベルーナはヒナノを抱きしめる。

 ヒナノは自分でもそれが明らかに馴染んでいた事に驚いていた。

 親方を見やると、「グッジョブ」ど親指を立てている。


「今夜、お前の歌を聴かせてやろう」


 そう言うと、楽屋の呼び鈴をいそいそとパーカッションの入ったサイケデリックな模様の箱に入れた。

 ユキノにも、聞いてもらいたかったな。

 そう思い、ヒナノは思いもよらぬ初ステージの前の緊張を、誰よりも早くその身に感じているのであった。



 今夜、古いダンスホールで行われる夜会。


 本来そのインターバルの余興として、その楽団は呼ばれていた。

 絶対的な歌姫、ユキノを軸とした楽団、その声は神に与えられた奇跡の歌声だと、噂は真しやかに囁かれ、実際聴いたものが昇天したと言う尾ひれも加わり、今まさにその声を聴こうとこの建物に訪れたものも少なくない。

 というより、本日のメインイベントはそれであったのだ。

 ところがその噂の歌姫ユキノは体調不良のため本公演を辞退。

 それが伝えられ、会場がざわつく。

 それはもちろん予測されたこと。

 中にはユキノの熱烈な追っかけも何人か混じっていたが、その方々には改めて謝罪の品を差し上げるとして、今、演奏が始まろうとしていた。

 ステージのカーテンの陰では、オーナーヒイラギが静かにこちらを見ていた。

 知らされたのはたった今。

 このステージどころか、この会場にユキノは居ない。


「私はユキノ以外の歌手は認めない。そしてそもそもそれを宣伝文句にしていた私の面目はまるでなくなってしまった。いったいどういうおつもりなのか」


 鋭い眼光をピエロに扮した親方に浴びせ、ヒナノも一瞬すくんだ。


「いや、ヒイラギさん、我々はプロです。一度引き受けた仕事をそんな簡単には放り出すこと、それは何の仕事にしたってやっちゃあいけないことだ。まあ見て聴いてください。確かにディーバ・ユキノはおりませんが、まったく別物の、音楽と言う意味では何ら遜色ないステージをお見せ致しますから」


 そして自信満々に言う。


「今夜新たな歌姫の誕生です!」


 ステージの幕が引け、先にスタンバイしていたベルーナとニコがオープニングの曲を始めた。

 親方が恭しく前に出て、少しの挨拶をすると、ヒナノの方を向き、合図をする。

 ベースの横にはマイク。

 今までリハーサルでさえまともにできなかったヒナノの歌声が、会場に響いた。

 ユキノが辞退とわかってからの客席は、オーナー、楽団に対する失望の念で埋め尽くされていたが、その確かな音程で奏でられる機械的なのに包み込まれるような音色を耳に入れた瞬間、誰もが感嘆した。

 安定感が心地よく、それもまた歌姫と呼ぶに相応しい歌声だと思った。

 ただ一人を除いては。

 暗闇に蠢く影は、会場の好意的なざわつきを不遜な目で見ていた。


 認めてはいけない。歌姫は彼女だけなのだ。


 三日月が嘲笑うかのように空にぶら下がっていた。

 鳴り止まぬ拍手の中、何度めかのアンコールに応え舞台袖から出る一行。

 ヒナノはユキノが居ないはじめてのステージに戸惑いながらも、なんとか無事終えたことに安堵し、胸を撫で下ろしていた。

 楽屋に戻り、やっとのこと緊張から脱け出したヒナノは差し入れのケーキをほうばった。


「ヒナノ、よくやったね。あんたならできると思ったよ」


 ベルーナがヒナノの頭を撫でながら言った。


「オレもまさかここまで良くなってると思わなかったからな、本当に良い音楽ができたよ。ユキノとは違った素晴らしい才能がお前にはある!」


 親方に言われて照れ臭く鼻の頭を掻く。


「でも、やっぱりこの楽団はユキノがいないと。私じゃ華やかさが足りないもの」


 ショートカットのボーイッシュな少女はそこまで誉められたが、本来の楽団のスタイルはこうではない事を伝える。

 ユキノの、抑揚のある誰もを魅了する歌声と妖艶な容貌。

 柔らかな赤毛はいつも下ろして耳の上にはバラの花。

 深紅のドレスを身にまとい、優雅に歌う姿はやはりディーヴァと呼ぶに相応しかった。


「明日、あのメモ書きの住所へ向かうよ。今日はゆっくりおやすみ」


ベルーナの言葉にヒナノは頷き、一行は宿屋へ向かった。


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