プロローグ
その細くスマートな黒猫は、寸分違わぬ市松模様のタイルの上を、しなやかに歩いていた。
もうすぐ主人が帰ってくる。
きっと大好物の『しまや』の鰹節をお土産に買ってきてくれるに違いない。
目的のシルクのクッションの上にしゃなりと座ると、優雅に毛繕いをする。
「その姿はまるで貴婦人のよう」
突然背後から聞こえた主人の声に、黒猫はびくりと体を震わせた。
「カラス、そこは僕の席だよ。黒い毛が付くのは僕は好まない」
冷ややかな目で見下すように言った男の名をクロエ。
黒い山高帽に、燕尾服。
カラスと呼ばれた猫は、渋々クッションから下り、冷たいタイルの上に横になった。
「今から大仕事だぞ」
ソファの上には大量の花。ローテーブルの上にも同じだけの真っ赤な花が散らばっていた。
忘却川のほとり。
葬列を指揮するものは生と死の狭間のこの地に、黒猫のカラスと、もうひとり、小さなピエロと暮らしていた。
朝にも夜にもならないこの地で、彼らは死人を案内している。
空は常に赤く燃えているようで、川の流は恐ろしく早い。死者が生前の記憶を洗い流す川、それが忘却川であった。
「カラス、ドロペスは一体何処へ消えたんだ? 僕の歌姫がお待ちだってのに」
猫はそっぽを向き、尻尾を床に打ち付け、知らない事をアピールする。
「クソッ。僕は忙しいのに。あいつがいないと指揮が出来ないじゃないか」
目の前の花をむしり、床にばらまく。白黒のタイルに原色の花びらが散らばる様はとても優美だった。
カラスは、どうやらご主人は『しまや』の鰹節を忘れてきたようなので、後は自分には無関係だとばかりに部屋を出ていった。
「おい、カラスにも大事な仕事があるんだぞ!」
花びらが散ったテーブルの上に紙とペンを出し、一筆したためながらピエロお手製のクッキーを口に放り込んだ。
「どいつもこいつも、まったく使い物にならん」
がりがりと乱暴に噛み砕く。
怒りが頂点に達し、彼は持っていた指揮棒で更に花を散らした。
「ああ、向こうで千切る予定だったのに。仕方ない。袋へ詰めよう……」
すっかり袋に詰め終わった頃、ピエロが腕いっぱいの蝋燭を抱えて帰宅する。
花瓶には庭に咲いていた赤い花を挿し、カラスには留守番を命じ、二人は家を出た。