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日々是好日

作者: てつお

 望月は仕事が終わり、更衣室で着替えていた。制服をロッカーに直して、更衣室を出た。少し歩くと会社の入口に受付があり、守衛に社員証を見せて退社しようと、スボンのポケットに入れたはずの財布を出そうとしたが、ポケットに財布は無かった。更衣室に忘れたのかと急いで戻ったが、財布は見当たらなかった。ロッカーの鍵を開けて中も確認したが、やはり無かった。着替える時に財布はロッカーの上に置いたはずであるが、無くなっていた。

 望月は受付で守衛に「財布を無くしたのですが、落し物として届いていませんか?」と尋ねた。

「いいえ、財布は届いていません。落し物が届きそうな他の部署に連絡してみるので、少しお待ち下さい」と言って守衛は総務課と人事課に連絡を入れてくれたが、やはり財布の落し物は届いていなかった。仕方がないので、望月は守衛に礼を言うと退社した。

 望月はまず届出はないだろうと思いながらも、すぐに警察署に行き、遺失届を出した。

 望月は、更衣室から受付に行くわずかな時間に盗まれたとか、受付から更衣室に引き返す間にすれ違った七〜八人くらいの中に犯人がいるのだろうかとか、財布を無くした事が頭から離れなかった。そんな事をとめどなく思いながら瞑想道場「一如庵」に向かって歩いていた。「一如庵」に着くと一年先輩の岡田も来ていた。

「あっ、岡田さん。今日は最悪だよ。更衣室で財布を置き忘れたら盗まれたよ」と望月が岡田に話かけた。すると、岡田が返答するよりも先に「ばかもん! そんなことで悟りが開けると思っておるのか! ちょっとこっちへ来い」と近くで聞いていた老師に怒鳴られ、個室に連れて行かれた。

「どうして怒られたのか解るか?」

「…………」望月は何となく解るような気もしたが、とっさに答える事ができなかった。

「問題点は三点ある。まず第一に『今日は最悪だよ』と言った事、第二に『盗まれたよ』と言った事、第三に財布が無くなった事をいつまでも引きずっている事だ」と老師は言うと今上げた三点の説明に入った。「第一の最悪と言った事は財布を無くさない現実などありはしないのに、財布を無くさない妄想をして、その妄想と財布を無くした現実を比較して最悪と言っておるのだ」と老師が言ったところで望月が口をはさんだ。

「もっと注意深く行動していれば、財布を無くさずに済んだのではないのですか?」

「そのような考え方をする人も多いかもしれんが、それは妄想なのだよ。現実に既に起こってしまった事は唯一絶対で完全無欠なのだよ」

「唯一絶対で完全無欠? どういう意味かさっぱりわかりません」

「唯一絶対で完全無欠とは、これ以外のことは絶対に起こらないという事と、本当は完全無欠なものをにせの自分であるエゴの都合で見るから不幸なことのように感じられるという事だ。だから、ありのままの現実を受け入れる事が悟りに近づく道なのだよ。妄想すると悟りとは反対の方向に行ってしまうから気を付けろ」と老師は第一の説明を終えると、続けて第二の説明に入った。「財布を盗まれたと言ったが、盗まれた現場を見たのか?」

「いいえ」

「見てもいないのにどうして盗まれたと決めつけておるのだ?」

「…………」望月は盗まれたに決まってると言いたかったが、たぶん言うべきではないと判断して何も言わなかった。

「ありのままをただ観ろと言っただろう。この場合は財布が無くなった事だけが事実なのだ。見てもしない事を勝手に考えた事はこれもまた妄想なのだよ」と老師は第二の説明を終えると、続けて第三の説明に入った。「禅の修行とは『今この瞬間』に完全に集中することだと言ったのを覚えておるか?」

「はい」

「財布を無くした瞬間にだけ無くしたと観て、次の瞬間には次の事に完全に集中しなければいけないのだよ。それをいつまでも引きずっておるから、頭の中が雑念と妄想でいっぱいになるのだ」と老師は第三の説明を終えた。

「この掛け軸を見よ」と言って老師は床の間に掛けてある墨蹟の掛け軸を指さして、更に続けた「『日々是好日』(にちにちこれこうにち)と書いてある。これは千年以上前の中国の僧である雲門文偃うんもんぶんえん禅師の 悟りの境地を表した言葉なのだ。単純に毎日が好ましい日という意味ではない。今という瞬間に完全に集中して、その日一日を精一杯生きるなら、例え財布を無くしても、とらわれたり、引きずったりしなくなり、毎日が好日となるという事なのだよ。こういう境地に至るには悟りを開いてエゴを落とす事が必要なのだ。エゴの視点でものを見ていてはこうはいかん。エゴが落ちて、ほとけの視点でものが見れるようになった時に初めて達成できるのだよ」と老師は言うと更に続けた。「こう言うと『日々是好日』のような境地は悟りが開けたときの事で、今は関係ないと思うかもしれんが、それではいかん。本来は唯一絶対で完全無欠である現実をエゴが損得や善悪といった色眼鏡で見ているからそう感じることを理解し、そのような妄想を起こさないように努めることが大事だ」

「すぐにはできないかもしれませんが、少しでも近づけるように精進致します」と望月は言うと低頭して退室した。

 老師の部屋から望月が出てきたのを見ていた岡田が声をかけた。「だいぶしぼられたのか?」

「いや、財布を無くしたおかげで、ありがたいお話が聞けてかえって良かったよ」と答えた望月は清々(すがすが)しい笑顔に満ちていた。

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