第2章 1 「君は何を犠牲にできる?」
拝啓 親愛なるアンク・フィンス様
君がこの手紙を読んでいる時、既に僕は生きてはいないだろう。
――って書き出しで始まる手紙ってあるけどさ、あれってものすごくムカつかない?なーにいきなり自己都合で、自分の死後を想定して語りだしちゃってんのって感じ。そんなことをしてる暇があったら、少しでも生き残れるよう、自分の口で伝えられるよう努力すべきだと思うんだよね。
それにさ。そんな書き出しで始まる手紙を、受け取る側の気持ち、想像してみてよ。重いよねぇ。重くて投げ出したくなるよねぇ。えっ、何その唐突な宣言、って思ってる間にも、容赦なく書き手の都合で手紙は進むわけだよ。例えある程度、書き手の死を想定できるような状況だったとしてもだよ?もう少し、読み手がそれを受け止められるだけの配慮が必要だと思うんだ。
でも、そんな一切合切の心情を、都合を無視して、彼は筆をとった。そうしなければ、果たせない何かがそこにはあったわけだ。
そう――目的が。
置かれている状況や直面している現実によって、誰にでもできることとできないことがあるっていうのに……それらを何もかも無視して。そして、一方的に自分の都合だけを押し付けて。そうせざるを得ないほどの、目的が、彼にはあったわけだね。
目的のある人は強いなぁと、僕はつくづく思うんだ。その目的のために、状況を整え、手段を精査し、一歩でも確実に前進するべくあらゆるものを犠牲にする。
つまり――目的のためなら手段を選ばない。
それこそが、強さだ。
ただし。
目的というものを考える前に、気をつけなければならないことがある。何だかわかるかい?アンクちゃん。
それはね――その目的が、本当に自分の求めるものなのかどうかを、見極めることさ。
うん?何だか急に抽象的で概念的な話になってきて、ちょっとイラっとしたかな?眉根にシワが寄ってるよ、アンクちゃん。せっかくの可愛い顔が台無しだよ?
まぁまぁ聞いてよ。わかりやすく例え話で説明するからさ。
そうだなぁ……。
例えば――アンクちゃんが、誰かに笑われたとしよう。
歌巫女の秘書官として、朝も昼も休みなく働いて、日々秘書官としての能力を研鑽しているっていうのに――その努力を、経験を、積み重ねてきた全てを、下らないと一笑されたとしよう。上から目線で偉そうに、何も知らないくせに、一方的に馬鹿にしてきたとしよう。
お前みたいな奴がいくら努力しても無駄なんだよ。
そもそもそんな程度のこと、努力って言えるのか?
お前の出来が悪いせいだろ?
……なんていう風にね。
ああ、もちろん例え話だよ?
でも――君は今、確かに気分を害している。そうだろう?アンクちゃん。何度例え話だと念を押されても、自分が嘲笑されているなんて話、決して気分のいいものじゃない。
そして、嘲笑されたアンクちゃんが、もしも、こう思ったとしたらどうだろう?
気分を、感情を害されたアンクちゃんが、こう願ったとしたらどうだろう?
私を馬鹿にした奴に、制裁を下したい――ってね。
勿論、アンクちゃんはそんなことはしない。
僕はそれを、よく知っているよ。
この例え話が、もし現実のものになったとして――君がどれほど他人に馬鹿にされ罵倒されたとしても、君がそいつらを手にかけることは、絶対にあり得ない。
なぜ、そう断言できるかって?
それはね、アンクちゃんの人間性を、僕が信じてるから――ではない。
そもそも僕は、人間性なんてものは信じちゃいないさ。
性善説も性悪説も標榜しない。
僕がそう断言できる理由はひとつ。
それが、アンクちゃんの目的に反するものだからだ。
馬鹿にされた、プライドが傷ついた、ムカついたなんて理由で、他人に制裁と言う名のただの暴力を振るっていたら、人生を棒に振っていたら……アンクちゃん、君は君の目的を果たせない。そうだろう?
そう、「今」降って湧いたものに振り回されていたら、自分が本当に求める目的は達成できない。
突発的な感情に起因する、「今」降って湧いたもの。わかりやすく言うなら、怒りや憎しみに端を発する衝動。或いは咄嗟の守りたいという思いや瞬間的な勝利への渇望だったりといったそれらは、強烈に人を突き動かす原動力になりうる。
でもそれは、本当の目的の前には、あっさりと霧散してしまう程度のものなのさ。天秤にかけるまでもなく、ちょっと冷静に考えればいいだけのこと。どちらが自分にとって真に大切かは、すぐにわかる。
本当の目的。
目の前にある「今」しか見ていない状況の中には、それは存在しない。
物語の中でなら、それも許されるだろう。例えば、信頼する仲間たちと、怪我をした足で無理をしつつも、数々の困難を乗り越え手に入れた勝利という目的。これは、物語においては、むしろ賞賛され好まれるモチーフだ。
そうして勝利を掴んでしまえば、物語は終わる。
けれど、現実はどうだろう?
どれだけ切望した勝利を得たところで、更にその先も現実は続いていく。間断なく、容赦なく。
念願のトロフィーを手に入れた翌日も、何事もなかったかのように朝は来て、お腹が空いて、唐突に大切な人から「君がこの手紙を読んでいる時、既に僕は生きてはいないだろう」なんて言葉で始まる手紙が届いたりもするのさ。そして十数年後にあの時の試合で痛めた足のせいで、就職できなかったりする。そうして貧しい暮らしの果てに、1人寂しく死んでいくことさえあり得る。
現実に脈絡はないんだから。
そう、だからこそ、本当に求める目的とは、「今」という点の中には存在しないし、そこに求めるべきじゃないんだ。
足元だけを見ていては、その道がどこに続いているかはわからないだろう?今いる場所が、どんな道幅のどんな状況に存在する道なのかを知っていないと――降って湧いた些細な出来事に足を取られ、容易に谷底に滑り落ちてしまう。そして、後悔することになる。なぜ深く考えもせず、目の前の衝動に駆られてしまったのかとね。
とどのつまり。
目的のある人は強い。
それが、本質的であればあるほど。
君にも、目的があるよね?アンクちゃん。
それは――君の本当の目的かな?
そのために、君は何を犠牲にできる?
まぁ、アンクちゃんの本当の目的が何なのかなんて、僕にはさっぱりわからないけどね。
だってアンクちゃん、教えてくれないし。
でも、その目的のために、君が僕みたいな凄腕の情報屋と取引をしようとしていることは知ってるよ。
だからこそ、こうして僕は君に手紙を書いているわけだ。
いやぁ、例え話が随分長くなっちゃったね。つい何かと冗長な語り口になってしまうのが、小説家たる僕の悪い癖だ。
あれ?よく見たら、アンクちゃん目の下のクマが酷いね。大丈夫かい?目的に犠牲は付き物だけれど、睡眠時間まで犠牲にするのは正直オススメしないなぁ。
ん?誰のせいで、こんなクマを作ってまで夜更けまで起きてる羽目になったか、わかってるのかって顔だね。うわぁすごいジト目っぷり。なかなかお目にかかれないくらい淀んだ目で僕を見てるねアンクちゃん。
うーん……はっ!もしかして、アンクちゃん!恋煩いなのかな⁉︎胸を熱く焦がす切ない思いで眠れないってことかな⁉︎
なぁんだ、それなら相談してよ!相手はどんな美少女なの?姉系?妹系?清楚?男前?どんなカップリングも、少女×少女の禁断の恋なら僕にお任せ……ってうわぁぁぁぁ⁉︎アンクちゃん⁉︎手紙握りしめてるよ!くっちゃくっちゃになってる!僕がアンクちゃんへの愛情をたっぷり込めたこの手紙がもうただの紙くずに成り果てそうだよ!そんなに憧れのお姉様系美少女のスカートから覗く細い太ももに興奮しちゃったんだねってごめんごめん冗談だよ⁉︎爪が!爪が食い込んでるから!
確かに僕は、乙女同士の繊細な恋心と肉体が交差し合う超話題の問題作にして大ヒット作『真珠とエメラルド』の作者だけど、さすがに情報屋としての取引相手で、そんな妄想をしたりはしないってば!ね?落ち着いて?
……そうそう、ひとまず椅子に座りなおして。コーヒーでも飲んだらどうだい?
え?どうして僕が、君の行動に沿った内容の文章を、こうしてこの手紙に書くことができるのかって?
そうだよね。この手紙がアンクちゃんの元に届くのは、僕がこの羽ペンを置いて、手紙を封筒に入れ配達を頼んだその数日後になるんだもんねぇ。
まぁ、その答えは簡単だよ。なぜなら……僕が小説家だからさ!
小説家とは、紙とは切っても切れない縁で結ばれているものだよ?この世で最も紙と密接に携わる職業だと言っても過言じゃない。そんな小説家たる僕――しかも、世紀の大ベストセラー作家たる僕なら、こうして手紙を通じて、アンクちゃんとリアルタイムでやり取りすることも可能なのさ。なんなら、今度から僕のことを、紙様って呼んでくれてもいいよ?なぜなら僕は、世紀の大ベストセラー作家……って、アンクちゃん?どうしてのいきなり僕の手紙を持ってトイレなんか来て……。え?トイレにはそれはそれは綺麗な紙様が住んでるんやで……って字が違うよ字が!いや、ちょ、ちょっと待って⁉︎握りしめた僕の手紙どうするの⁉︎流すの⁉︎トイレに流しちゃうの⁉︎詰まるよ絶対詰まっちゃうよ!せめて、この手紙でアンクちゃんのお尻を拭いてからにして……ってごめん冗談だよ!謝るから流さないでぇぇぇぇ!下水は!下水は嫌だぁぁぁぁ!
おや、もうすぐ夜が明ける時間帯だねぇ。空が白んできたよ。
いくら若くて無理が効くからって、あんまり夜更かしし過ぎちゃダメだよ!
それじゃあまたね、アンクちゃん。
もし美少女に恋したらすぐ僕に教えてね!
凄腕の情報屋にして、空前の大ヒット作『真珠とエメラルド』――ついに、憧れのマーサ先輩への思いを自覚したリオナ。でもマーサ先輩は幼なじみのサンドラ先輩と付き合っていて……。でもサンドラ先輩の心は、マーサ先輩から離れていくようで⁉︎急展開を迎える待望の第4巻、絶賛発売中!――を手掛ける世紀の大ベストセラー作家、レイ・レイより
追伸
そうそう、大切なことを伝え忘れてたよ。
大丈夫。それ以上可愛いアンクちゃんの顔に、クマを作らせるわけにはいかないからね。手短に済ませるよ。
目的を持つのは、君だけとは限らない。
誰かの目的と、君の目的が交差することも、ぶつかり合うこともあるだろう。
君の目的を阻むことが、誰かの目的だってことも、あるかもしれない。
用心してね、アンクちゃん。
それじゃあおやすみ!
君の大切な歌巫女様によろしく。