第1章 3 「改めて語ろう」
昔々。
今から1000年以上も前のことです。
などと語り出せば、おそらく非難を受けるだろう。
誰からかと言えば、多分世界中の人から。
これは、そんな子供の寝物語のように始めるべき物語ではない。もっと厳かに、けれど決して小難しくなく。誰もが物心ついたころには、当たり前にその尊さを胸に刻んでいるような。そんな物語なのだからと。
それでも、敢えて私はこんな風に語り出したいのだ。
なぜならその物語は、遠い遠い昔、確かに現実に起こったことなのだから。
妄想の産物でも絵空事でもない。事実として存在した出来事。
この時の流れを遡れば、その根源に今も息づく揺るぎない歴史。
そして、もうひとつ。大切な事実がある。
私の人生は、この物語の上に成り立っているということだ。
この物語なくして、赤の歌巫女に仕える秘書官たる私、アンク・フィンスは存在しない――。
改めて語ろう。
昔々。
1000年以上前のこと。
これは、世界を救ってくれた神様のお話。
空白と呼ばれる時代があった。
空っぽで真っ白。空虚で白々しい世界。
それがどれだけがらんどうで、何の色もつかない無味乾燥なものかは知っている。
でも、どうしてそうなったのかはわからない。
誰も知らない。
戦争、疫病、天災……何らかの原因が確かにあって、それゆえにその時代では人が死んだのだ。
死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んだ。
その事実を覆い隠すために、更に人が死んだ。
更に更にその事実を覆い隠すために、更に更に更に人が死んだ。
そうしてどこまでもひたすらに塗り替え続けた結果――何もかもが壊れてしまった。
歴史も、文明も。
大陸も、海も。
言葉も、文字も。
人も。
世界も。
空白と呼ばれる時代は、初めからそうだったわけではない。絵筆を取って、大きな紙に描いては失敗したと塗り直し、また描いてはまた塗り直しを繰り返した結果、紙そのものがボロボロに崩れてしまったような。そんなぐちゃぐちゃの紙くずの成れの果てだったのだ。
そんな世界に、神様が現れた。
光の源たる東の郷――東源郷。
神は――女神はそこからやって来た。
全ての生物の長たる、1匹の一角獣を引き連れて。
女神の目に、世界はどう映ったことだろう。
生者よりも死者の方が圧倒的に多い世界。
どこまでも死に続けた成れの果て。
そんな空白の世界を――女神は心から哀れんだ。
その清らかな心を、世界への嘆きと悲しみで溢れさせた。
そうして女神がその美しい双眸から零した涙は、虹色の雨となって世界中に降り注いだ。
その瞬間――世界は空白への進行をぴたりと止めたのだ。
もはや原型など見る影もないのに、それでもなお塗り潰そうと絵筆を構えていた人々は、突然その手段を失った。血で汚れた絵筆はぽっきりと折れ、ただの棒と成り果て手から滑り落ちた。
呆然と立ち尽くす人々に、慈悲深き女神はこう言った。
哀れなあなたたちに、贈り物をしましょう。
最期に行き着く場所。
亡くしたものを悼む心。
この2つを授けます――。
次に、女神は3人の人間を選ぶと、己の血を分け与えてこう言った。
あなたたちには、私を支える義務を与えましょう。あなたたちの子孫は永遠に、この血と義務を引継ぎなさい。
その傍らに控えていた一角獣は、その選ばれた人間とそれぞれ最も強い絆を持つ者を3人選ぶと、己の角を削り与えてこう言った。
おまえたちには、この選ばれし者たちに仕える義務を与えよう。その削り取った角を目に替えて、私に干渉することを許す。
そして――女神は歌った。
その喉を震わせて紡ぎ出された歌声は、どこまでも澄み渡り、同時に数え切れないほどの色彩に満ちていた。
柔らかにたゆたう金。
空を貫く銀。
風に乗って舞う赤。
水面を撫でる青。
地を走る黄。
それらを優しく包み込む翠。
鮮やかに鳴り響く、女神の歌声。
どんな言葉をその調べに乗せているのか、人々にはわからない。
それは後にアズマコトバと呼ばれる、神々の住まう東源郷の言葉だった。
ただ、わからなくとも伝わる。
その言葉に込められた、深い深い慈悲の心は。
一角獣は、その歌声を身に纏って世界を駆け巡った。煌めく鬣から、逞しく空を蹴る蹄から、たなびく長い尾から、女神の歌を振りまきながら。
そうして世界に、女神の歌声が満ちた時。
それはどこらともなく溢れ出た。
耐え兼ねたように、待ち兼ねたように。
喜びに震え、悲しみを解き放つように。
世界を覆い尽くしていた無数の魂が、光となって現れたのだ。
歌声に導かれ、どこまでも死に尽くした世界を離れた魂は、ひとつの光の流れとなって、女神の下へ集まった。
そして女神は、歌声を響かせながら、自らをひとつの島へと変えた。
一角獣は、女神の歌声を身に纏いながら、自らを島に覆いかぶさる虹色の淡い膜へと変えた。
無数の魂は、女神の懐に抱きかかえられるように島へと降り立ち――
花になったのだ。
そこで、人々はようやく気づく。
女神が心から哀れんだのは、愚かな生者たちではない。
肉体を失い、絆を失い、それでもなお、何処へも行けずに彷徨い続ける、死者の魂を哀れんだのだ。
そして、その魂を救った。
自らの姿をひとつの島に変え、魂をそこに花咲かせることで、居場所を与えたのだ。
永遠に続く、死者のための楽園という居場所を。
これからも人は死ぬ。
けれど、もうあてもなく迷い続けることはない。
人々は、死した後に行き着く場所を得たのだ。
そして、人々はもうひとつのことに気がついた。
彼らがあの醜い絵筆を使い、最も塗りつぶしてしまったのは、自身の心だったということを。
怒り憎み拒絶し傷つけ――いつしか忘れてしまっていたのだ。
悼む心を。
亡くしたものへ思いを馳せることを。
女神は人々に、生き残った彼らに、2つの贈り物をした。
最期に行き着く場所。
亡くしたものを悼む心。
こうして――世界は救われた。
女神の名はカエキリア。
この世界を導く教え、カエキリア教の崇める唯一神。
彼女の歌声は今も、島の奥底から泉のように湧き出ている。
ただしそれは、今となってはその島にふく風や島を流れる川に姿を替えおり、生者の耳は、それらを歌声として聞くことはできない。
彼女の血を分け与えられた3人の末裔たちは、それぞれ独立した一族として、連綿とその血と義務を受け継いだ。
特に女神の血を色濃く受け継ぐものは、歌巫女と呼ばれ、女神と同じように、歌うことで死者の魂を救う力を持っていた。
花として咲く死者を救う方法。
それが、歌声で雨を降らせることだ。
一角獣が姿を変えた、虹色の島を覆う膜――蔀。
全ての生物の長たる一角獣が、己が主人たる女神のために選んだ在り方。
それは、その島のためだけの雲として、永遠に女神に寄り添い、彼女の慈悲たる恵みの雨をもたらすというものだった。
そして、かつて選ばれしものたちと最も強い絆を有したもの。女神を支える一族を、支える存在。
彼らは、一角獣から与えられた角の一部を砕いて粉にし、自らが仕える歌巫女の血と混ぜ合わせ、その液体で額に目を描いた。
あらゆる生物を従え、世界を音の速さで駆け巡る神獣、一角獣。
その最たる象徴である角を、目として額に宿したのだ。
人間である彼らには、一角獣と同じ行いはできない。生物の長として君臨することも、空を飛び世界を見渡すことも。
けれど、一角獣の力を借りるならば可能だった。花葬島のどこに雨を降らせるかを定めることも。歌巫女の声を生物の姿に変えて、蔀に届けることも。
彼らの力は、血によって受け継がれることはない。彼らに求められるのは、何よりも、歌巫女との絆。ゆえに、歌巫女が最も絆が強いと感じる人物がその都度選ばれ、歌巫女の承認により、力が与えられることとなった。
島をたゆたう女神の歌声と、それを支える歌巫女の歌声。
それが蔀へと届けられた時、島には光り輝く雨が降り注ぐ。
こうして――
花葬島は生まれた。
蔀は生まれた。
歌巫女は生まれた。
秘書官は生まれた。
これが、この世界に唯一存在する神話。神の物語。
それからおよそ1000年以上――私、アンク・フィンスは、第199代目赤の歌巫女、クリストローゼ・エーランサーの下、秘書官として今日も花葬島で労働に励む。