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第5章 1 「物語の主人公のようだと」

 誰かが言った。

 観客が演者を見るとき、演者もまた観客を見ているのだと。

 客席と舞台。本来明確に隔てられているはずの、いわば互いに別世界とも言うべき両者の関係性。けれどそこには、ふたつでひとつとさえ言える強い結びつきがある。

 合わせ鏡に映り込む己の目の中に映り込む己を、覗き込むかのような。


 ともあれ。

 今はこの、目の前の幕間劇(まくあいげき)に興じるとしよう。本来の演目の合間に設けられた、繋ぎとしての劇中劇に。

 私の出番を待つまでの、ほんの退屈しのぎだ。

 見ているとも見られているとも言えないけれど、ここが客席なのか舞台なのかも、定かではないけれど――兎にも角にも、目を開かなければ始まらない。

 幕は、上がらない。

 私の目の前には、2人の少女がいる。どこかで見たことのあるような、ないような、そんな2人の少女。

 今はただ、彼女たちのささやかな舞台を、楽しむことにしよう。




「貴女は自分を、物語の主人公のようだと思ったことはあって?」

 穏やかな午後の日差し溢れる窓辺。白い木枠にそっともたれるようにして、1人の少女が口を開いた。

「起承転結という名の波を孕んだ、あまりに劇的な世界。その中心たる軸に、自らが据えられていると感じたことはないかしら?自分という一人称で語られる、唯一無二の調べが存在しているのだと考えたことは?」

 彼女の視線は、手元の本へと向けられている。淡い日の光に照らされたページは、静かな光沢を彼女の指先に添えていた。けれど、それが捲られる気配はない。文字を追うこともなく、尋ねた相手を見ることもなく、彼女の視線は頑なに動かない。

「お姉さまは、そう思っておいでなの?」

 唐突にそんな問いを投げかけられても、もう1人の少女は、特に気分を害した様子でもない。窓際の少女とは対照的にまっすぐな眼差しで、相手を見つめている。そこに強い意志がある、というよりは、それが少女の性質なのだろう。愛らしさの中にある芯の強さが垣間見えるようだ。

「わたくしは、そういう考えが、嫌いなの」

 嫌いなのよ、と、お姉さまと呼ばれた窓際の少女は答える。潤んだ唇が吐いたその強い言葉は、穏やかだった窓辺の空気を震わせる。

「自分が主人公であるなら、自分以外の誰かが脇役。そうやって脇に追いやった誰かに、きっと足元をすくわれる。名もなき背景だと決めつけて、その脇を通り過ぎた時――主人公は、その誰かに背中から刺されたって、文句は言えないのだわ。そうして思い知るの。自分の思い上がりを。自分もまた、誰かの物語の背景に過ぎないことを」

 現実とはそういうものよ、と少女は答えを締めくくった。俯いた瞳はより一層頑なな光をたたえている。傷つくことを恐れ、冷たい石の中に己を閉ざそうとしているかのようだ。それは固く、けれど、今にも壊れてしまいそうなほどに、脆かった。

「いいえお姉さま。その展開も含めて、人生とは物語なのですわ」

 そんな少女の手に、もう1人の少女が優しく触れた。そのひだまりのような温もりに、窓際の少女ははっと顔を上げる。

「脇に配した誰か。それと混ざり合い続けることこそ、人の生きる道ですもの。例え、名もなき影に貫かれても――そこへ手を差し伸べる存在が現れないなんてこと、誰が否定できるのかしら。そうして現れた新しい脇役とともに、歩んでいくことができれば――きっとそれは、とても美しい物語になると思いませんか、お姉さま」

 窓の外で、木々が揺らめく気配がした。

 木漏れ日が鮮やかな色を纏って、部屋の中へ降り注ぐ。

 少女の手から、本が滑り落ちた。

「貴女は本当に美しい子ね、リオナ」

 日の光に溶かされたかのように、窓際の少女の眼差しは潤んでいた。先ほどまでの固く閉ざした気配は完全に拭い去られ、今はまっすぐに、リオナと呼ばれたもう1人の少女へと注がれている。

「許してちょうだいね。貴女を、無数に散らばるだけの真珠としか思わなかったわたくしを。その小さな貝の中に、どれほど稀有な煌めきを宿していたかを、それが世界にたったひとつだということに気づくのが、こんなにも遅れてしまって――本当に、ごめんなさい、リオナ」

「マーサお姉さま……」

 胸に溢れる想いを込めるかのように、2人は互いの手を、しっかりと握り合う。

 揺れる木漏れ日の中、マーサと呼ばれた少女のエメラルド色の瞳から、大粒の涙がひとつ、零れ落ちた。




 パチ、パチ、パチ、パチ。

 私1人の、乾いた拍手がぼんやりと響いた。

 それに呼応するかのように、ふいに目の前に人影が現れる。

 確かに誰かがそこにいる、という気配を感じた。けれど姿形はどこにも見えず、ただ足元に、その人物の薄っぺらな影だけが伸びている。彼の虚像だけが、そこにある。

 まぁ、これは仕方のないことだろう。なにせ私は、その人物の影しか知らないのだ。白い紙につらつらと連なる、流麗な文字としてしか、彼を知らない。そこに記されているのは、確かに彼という存在の発露なのに、どうにも把握できず、分かり得ない――文字通りつかみどころのない、そんな影だ。

 ふいに、その影にぽっかりと口が開いた。


【アンクちゃん。

  今から大切なことを話すから、よく聞いて。

 君はこれから、舞台の上に立つことになる。

 そこは孤独で、逃げ場のない、失敗の決して許されない場所だ。

 台詞も衣装も演技も、何も決められてはいない。

 ただ、君と、観客がいるだけの世界。

 君の大切な人は、まだ間に合うかもしれないと言ったかもしれないけど――生憎、それは叶わない話だ。

 舞台は既に整ってしまった。君はどう足掻いても、そこに上がるしかない。

 そして君は語る。

 君の心の隙間に吹く風は、どんな音を立てるだろうね。それはどんな言葉になって君の口から流れ出し、どんな風に観客の耳に入り――どんな音を鳴らすのだろうね。

 君の言葉は。

 彼らの心の隙間で、どう響き合うのだろうね】


 ぞろぞろぞろぞろぞろぞろと。

 その口から這い出た言葉は私の足にへばり付きよじ登り、膝へ腿へ腹へ胸へ、そうして首にまでたどり着いたかと思うと幾重にも巻きつき絡まりがんじがらめ。

 影の吐き出す文字が、私の首を、締める。

 そうだ、幕間劇は終わったのだ。

 第2幕が、始まる。

 私の舞台が、幕を開ける。

 カーテンコールにはまだ早い。アンコールにはなお遠い。

 私の思いなどまるで気にも留めず、蠢きざわめきながら、文字は途切れることなく影の口から這い出てくる。


【僕は願わない。

 安穏も平穏も。

 緩やかで平坦な道のりを、君が生きることは、できないのだから。

 それは君の目的に由来する。

 そうだろう?アンクちゃん。

 だから、僕は願わない。

 普通も平凡も。

 代わりに、こう願うんだ。


 アンクちゃん。君が、その試練を乗り越えられますようにってね】


 もう、行かないと。

 舞台の上に、立たないと。

 首を絞め上げる文字を引きずるようにして、私は立ち上がる。

 そう、立ち上がるだけでいい。私がこの両脚で大地を踏みしめて立つだけで、そこは、舞台になる。

 マモナク ダイ 二 マクノ カイエンデス。

 重く垂れ下がっていた緞帳がするすると上っていく。待ちかねたように、スポットライトが私をはっきりと照らし出す。

 そして、目を開いて。

 振り向いた先には、客席。

 そこにあるのは、無数の、埋めつくさんばかりの、鏡鏡鏡鏡鏡鏡鏡鏡鏡鏡鏡鏡。

 映る私の瞳が見つめる中の私の瞳が見つめる中の私の瞳が――




「…………」

 それが、自分の寝室の天井だとわかるまでに、随分と時間がかかった。

 別段変わった点などどこにもないのに、突然視界が切り替わったことに頭がついていかなかった。目で見た物が何なのかを理解し、それを記憶と結びつけ、自分にとってどういう存在かを認識する――そんな、普段は無意識のうちに起こる思考回路の流れが、やけにぎこちなかった。

 ひどく嫌な夢を見ていた、気がする。

 まだ春も浅いというのに、しっかりと汗をかいていた。首筋にまとわりつく湿気が気持ち悪い。

 タオルを取ろうとベッドから降りて――何かに躓く。

 ころころと転がったそれは、ヒビの入ったマグカップ。

 そのすぐ近くに、粉々に砕けた赤いガラスが散らばっていた。

 ベッドサイドには、エーランサー家の花紋が描かれた半紙。

 ああ、そっか。

 そうだった。

 ちゃんと覚えている。

 全て覚えている。

 差し伸べられた手も、それを遮った金色の髪も、喉の奥をどろりと落ちる甘さも。本当の脅迫も、本当の目的も。

 夢の方はもうさっぱり思い出せないけど、これだけは言える。自信を持って断言できる。

 どんな夢より、この現実の方が、よっぽど酷い。


 壁に貼った月間スケジュールで今日が休日だと確認し、私はほっと胸をなで下ろす。

 私に無理やり毒を飲ませたクリストローゼ様や、傷つけてしまったセドリアスさんに会いたくない――というわけではなく、単に今の時刻が、午前10時を回っているからだ。

 もし今日が休日でなければ、間違いなく大寝坊である。

 幸い、普段の仕事である恵式(めぐみしき)も、観桜会関係の仕事も、今日はスケジュールが空いていた。この繁忙期に奇跡的に取れた、貴重極まりないお休みだ。午前がほとんど潰れてしまったのは痛いけれど、だからこそ、残された時間は有効に使わなければ。

「まずは買い出し、かな」

 空っぽの戸棚を眺めて、私はため息をつく。ヨリリとの飲み会で、うっかり5000リオも使ってしまったため、当分は備蓄してある食料で凌ごうと思ったのに……。

 あれは、使ったというか、ドブに捨てたというか。

 まぁ過ぎたことだ。

 外出、となるとその前にお風呂かな。昨日入れなかったし。でもお風呂入るなら風呂掃除が先かなぁ。でもそうすると買い出しに行くのが遅くなるわけで、夕方だと混雑するし、昨日の件もあるし……。

 あれこれと考えながら、私は着替えを用意する。

 その時、何かに躓いた。

 床に転がるのは、ヒビの入ったマグカップ。

 そのそばには、飛び散った赤いガラスの破片。

 ベッドサイドには、赤く浮き出たヒガンバナの印――

 ああ、ちゃんと覚えている。何もかも、覚えている。

 私が何を犠牲にしたかを。私が何を切り捨てたかを。私が何を受け入れたのかを。

 もう、忘れたりしない。忘れることは、許されない。

 だから。

 私は、それら全てを、そのまま、そこに残して立ち去る。

 マグカップも、ガラスの欠片も、花紋の半紙も。

 傷ついた瞳も、嗤う声も、舌の痛みも。

 何もかもを、いつでも目の前に突きつけることができるように、そこに残して。




 とりあえずさっと汗を流してから、手早く身支度を整えて街に出た。朝の市場はとっくに終わってるけれど、顔なじみのお店なら、まだなんとか融通が利くかもしれない。

 石畳の道を足早に下る。ちょうど真上に昇った太陽が、薄い雲の向こうからぼんやりと温もりを投げかけていた。

「あれ、アンクちゃん!こんな時間に来るのは珍しいッスね」

 明るい声に顔を上げると、ディミトリさんが人懐こい笑顔で駆け寄ってくるところだった。

 スコットさんの牛乳屋でアルバイトとして働く彼とは、随分久しぶりに会う気がする。普段なら、スコットさんのお店で朝食を買ってから仕事に向かうのだけれど、そう言えばこのところ、観桜会の準備や花殺しの大罪の件で忙しくて、ろくに寄っていなかった。

「お久しぶりです、ディミトリさん。今日は私、非番なんですよ」

「そうなんスか!オレも午後からは休みなんスよ。人形作家の工房も休みなんで、久しぶりに友達と遊ぼうかなって」

 ニッと白い歯を覗かせて笑うディミトリさんを見て、彼が私と同じ16歳だということをふと思い出す。

 友達と遊ぶ、か。

 普通の16歳って、何をして遊ぶんだろう。どんな友達と、どんな話をして――どんな夢を見るんだろう。

「アンクちゃん?どうかしたッスか?」

 突然黙り込んだ私を、ディミトリさんが不思議そうに見つめる。

「あっ、いえ、なんでもないです」

 私は慌ててその場を取り繕った。

 まったく、何考えてるんだろう、私。

「そうだ!アンクちゃんも一緒に遊ばないッスか?オレの友達、みんないい奴ばっかなんで、アンクちゃんもすぐ仲良くなれるッスよ」

「え、でも……」

 お誘いは嬉しいけれど、今日は休日なりの忙しさがある。この後買い出しを済ませて、風呂掃除をして、明日の仕事の準備をしないと――

「いつも働いてばっかりじゃ疲れちゃうッスよ!たまには息抜きも大事じゃないッスか!」

 息抜き、か。

 そういえば、深呼吸ってのは吸って吐いてでワンセットだって、あのヘラヘラ笑う舞台屋が言ってたな。吸ってばかりじゃ、苦しいって。

 息抜きって、どうやってするんだったっけ。

「ほぉ……俺の妹を白昼堂々とナンパするとは……。いい度胸だな、ディミトリ」

「うげっ、店長……」

 いつの間にか、ディミトリさんの背後に長身の男性が立っていた。右手に可愛らしい牛のパペットを持ち、白黒の牛柄エプロンを付けている。そんな愛嬌のある外見をぶち壊す凶悪な目つきをしたこの男性が、牛乳屋の店長でありディミトリさんの上司、スコットさんだ。

「い、いいじゃないッスか!オレ今日の午後は非番ッスよ!女の子を遊びに誘って何が悪いんスか!だいたい、店長はアンクちゃんと昔から知り合いってだけで実の兄でもなんでもない……」

「えーい、モー太の尻尾アターック!」

 地響きの如きバリトンボイスとともに、スコットさんの左手が唸りを上げてディミトリさんの頬を抉った。そのまま彼は勢いよく吹き飛び石畳に叩きつけられる。

「いっだぁぁぁぁ!何するんスか⁉︎ていうかモー太くん関係ないッスよね⁉︎ただ普通に店長が殴ってるだけじゃないッスか⁉︎」

「そんなことないよっ!これはモー太の尻尾だよ、ペロリ☆」

「んな凶暴な尻尾ありえないッス!」

 右手に嵌めた牛のパペット、モー太くんの首をふりふりと動かしながら、無表情に応じるスコットさん。先ほど強烈な打撃を放った彼の左手は、モー太くんの尻尾らしい。

 だいぶ無理がある気もするんだけど……。

「アンク、久しぶりだな。元気にしていたか?」

 ディミトリさんの抗議などまるで気にも留めず、スコットさんは私に向き直った。穏やかな春風が、彼の牛柄のエプロンをわずかにはためかせる。

「あ、はい、元気ですよ。スコットさんは?」

 私の言葉を受けて、スコットさんの目が――微かに険しくなった。

 え?私、何か怒らせるようなこと、言ったかな?

「アンク、お前は今日、非番なんだってな」

「はい、そうですが……」

 普段の凶悪な目つきとは少し違う、見たことのない鋭さを宿したスコットさんの瞳。それが、射抜くようにまっすぐ私に向けられている。

「よし、じゃあ今から一緒に出かけるぞ、アンク」

「はい?」

「お前もだ。いつまで寝転がっているこの虫ケラが」

「はぁ⁉︎」

 私とディミトリさんは、思わず似たような声を上げる。それこそ唐突な誘いに、咄嗟にどう反応していいかわからない。

「あの、スコットさん、出かけるってどこに……?」

 すたすたと歩き始めてしまったスコットさんの背中に、思わずそう呼びかける。振り向いた彼は、淡い春の日差しの下、胸を張ってこう答えた。

「遊びに行くに決まっているだろう」

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