第1章 2 「雨だけどね」
指先をなぞる、さらさらの金髪。
癖のない艶やかなそれは、カーテンの隙間から微かに射し込む日の光に照らされて、よりその美しさを際立たせる。
「今日の予定を確認しますね」
クリストローゼ様の長い金髪を櫛で梳きながら、私は彼女に話しかけた。
己が主人の鬼畜っぷりにホームシックになりかけた私だが、当然仕事を投げ出すわけにはいかない。
もっとも、今私がいるのは、花葬島へと続く橋の上だ。海の上を渡る長い長いこの橋は、馬車以外の方法で利用することを許されていない。と言っても、馬車以外の交通手段など徒歩以外にはないので、つまるところ、歩いて渡ることが許されていないのだ。
より正確に言えば、生きた人間がその足で橋を踏むことが許されていない。
なぜなら、花葬島は死者の魂が花咲く場所。
本来、生者がその地に赴くことは禁じられている。
死者の遺灰は全て、港からこの花葬島へ舟で運ばれる。舟は灯火の舟と呼ばれ、舵を取るのは、遺灰の運搬を専門に担うロータスという名の役人たちだ。
この花葬島へ来るということは、すなわち魂のみになったということ。
世界中の多くの人々にとって、ここは人生の最期に訪れる場所なのだ。
そして、どんなものにも例外なく例外があるように、この死後の世界へ赴く際にも例外はある。
それが、今まさに私が馬車に揺られて移動している、この橋だ。
生者が例外的に――あくまでも例外的に、花葬島に行く際に使われる橋である。
死者、すなわち肉体を失った魂のみが上陸を許される場所。死して後、その魂を花に代えて存在するものたちのための楽園。それが花葬島なのだ。そこへ続く橋に、肉体を持つ者が、その足を踏み入れること。それはもうどうしようもなく、死者への冒涜に値する。
本来ならば。
実際には、私たちを始めとした教会の関係者が多く花葬島を訪れ、また定住しているので、その倫理的な価値観は半ば形骸化していると言ってもいい。
けれども、形骸化してはいても、存在していないわけではない。ハリボテのような価値観でも、それは間違いなくハリボテとして、なおもそそり立ちその存在を主張し続けている。
そうして生まれたルールが、この橋だけはせめて、生者が生身で渡ることを禁じるという決まりなのだ。
従って、私がここでどんなにクリストローゼ様の所業に泣かされようが帰りたいと叫ぼうが、ぴょいと馬車を飛び降りることはできないのだ。
物理的に可能ではある。懲役15年もしくは罰金100万リオ、場合によってはその両方が課せられるけれど。
馬車ごと引き返してもらえることができれば、それが一番穏やかな解決策だけど、これはもっと不可能だ。
あくまでも例外的に、花葬島へ赴く生者。
その最たる存在を乗せているのだから。
「んー、今日はどこの社だったっけ?」
先ほどまでの非道ぶりは何処へやら、可愛らしく私の隣で足をぷらぷらさせている、このクリストローゼ・エーランサーのことである。
赤の歌巫女と呼ばれる彼女は、むしろ生者としてこの花葬島へ来ることこそを強く所望されている。歌巫女としての役割ゆえに。
「第十一春の宮です」
「あーあそこかぁ。式殿は普通のタイプだったよね?」
交渉の末、どうにか膝の上から降りてもらうことには成功した。
私のおっぱいの未来は守られた……はずである。今後の成長に大いに期待したい。
ただし。
条件がひとつ。
「今朝は髪を梳かしてもらわなかったのですか?」
「やってもらったよー。でも、アンクに梳かしてもらうの好きなんだもん」
狭い座席に並んで腰掛け、更に隣に座る人の髪を梳るというのは、これはこれで大変ではある。
けれど、膝を長々と占拠されるよりはずっとマシだ。むしろ、彼女の綺麗な髪は指先に心地よく、先ほどまでのささくれ立った心も、いつの間にか穏やかなものになっている。
……この程度のことで懐柔されてしまう自分がちょっと情けないけれど。
気を取り直して、私は仕事の話に意識を引き戻した。
「そうですね。一般的な形状です。ただ、第十一春の宮は、近くに川がありますので……」
「ほんと⁉︎」
クリストローゼ様がぱっと振り向いた。赤い瞳が喜びにきらきらと輝いている。
「ボク川好き!じゃあ今日の陣式はセキレイ?」
「はい、そのつもりです」
微笑んで答えると、彼女はそっかーそっかーと楽しげに前へ向き直った。足が先ほどより勢いよくぷらぷらと振られている。もはやぷらぷらどころかぶんぶんと形容した方がいいレベルである。
もう16歳でしょあなた……。はしゃぐのはいいけど、さすがに幼稚過ぎるような。
いや、確かに可愛いけど。
「クリストローゼ様、そんなに足を振るとドレスにシワが……」
と言いかけた矢先、彼女の靴がぽーんと勢いよく飛んで馬車の床に落ちた。
「お、明日は晴れだよアンク」
「こんなところで靴占いしないで下さい!」
そのために足振ってたの⁉︎今やらなくても良くない⁉︎
まぁ、クリストローゼ様のこういうところには、もう慣れっこではある。
私は腰を上げて彼女の靴を拾った。狭い車内では腰を伸ばして立ち上がれないので、姿勢としては前屈みの状態だ。
そしてそのまま跪いて、靴を履かせる。
真っ赤なエナメルの靴は、当然のようにオーダーメイドの一点物だ。
白い靴下に包まれた足をそっと手に取り、つま先から丁寧に靴の中へ。足の形を確かめるように、踵に向かって靴を添わせていく。
「まぁ、今日これからの花葬島の天気は、雨だけどね」
クリストローゼ様の声が、俯いた私の耳朶を打つ。
その表情は、見なくともわかる。
心の底から嬉しそうな、うっとりと夢見るような、そんな表情を、彼女は浮かべているだろう。
なぜわかるのかと言えば、それは至極簡単なこと。
私は知っているからだ。彼女が歌巫女としての仕事を、何より愛しているということを。
11年間の付き合いを通して、私が常に思い知らされてきた事実である。
ふいに馬車が速度を落とした。ゆったりと車内の振動が収まる。
「さぁ、今日も働こっか」
彼女の言葉に、私はいつものようにこう答える。
「かしこまりました。クリストローゼ様」