第3章 3 「長いっ!」
ポストがノロウイルスに感染した。
と思うほどの勢いで、そりゃもう吐き放題出し放題といった感じだった。
めいっぱい押し込まれた封筒は、それでも入り切らず差し込み口から滝のように溢れ返り、取り出し口である裏からも盛大に漏れていた。
乗り物酔いをしては吐いちゃう私だけれど、さすがにここまでじゃない。一体誰に似たのやら。
とポストの容態を気にしつつ、ひとまず家の鍵を開ける。
すぐ目の前がキッチンを兼ねた仕事場。その隅っこに申し訳程度の流し台。左手の奥にはトイレとお風呂。正面の奥へ進めばベッドひとつ収まるのがやっとの寝室。
床板は軋み、壁は薄汚れ、天井はツギハギだらけ。
家中を一回りするのに15秒もかからない、この小さい掘っ建て小屋が、私の住む家である。
シュビラ国を統治する聖庁の責任者が一角、エーランサー卿。
その娘であり、花葬島を維持する重要な役目を担う歌巫女、クリストローゼ・エーランサー。
そんな彼女の唯一無二たる秘書官を勤めるのが私、アンク・フィンスだ。
表舞台に決して立つことのない、陰たる存在。光を支えるためだけに必要とされる役割。
だからと言って、誰が信じるだろう。
そんな歌巫女の秘書官が、エーランサー卿の敷地の隅っこに建つ、庭師の道具置き場だった小屋を無理やり改築したところで、仕事場も兼ねて暮らしているなんて。
「……まぁ、信じるもなにもないか」
そもそも、世間一般には秘書官の存在自体があまり知られていないのだ。誰かの想像に登場する機会さえないのだから、暮らしぶりがどうだろうと誰も何も感じまい。
もはや食卓としての役割を完全放棄し、書類の城を築き上げているキッチンテーブルを眺めながら、私はようやく帽子を脱ぐ。
ポストの看病は、お湯を沸かしてからにしよう。
プラナス公爵家での血なまぐさいお茶会と、前座の件を踏まえた再度の打ち合わせは無事に終了。私とクリストローゼ様、そして専属護衛隊がようやく帰宅した頃には、日はすっかり落ちていた。
人を待たせるのは得意だけれど、自分が待つのは大嫌いなクリストローゼ様は、すっかりご機嫌斜めである。
ちなみに、帰宅といっても、私はこの小屋、クリストローゼ様はお屋敷、専属護衛隊は敷地内にある隊舎と、その先はバラバラだ。主人と家臣が同じ屋根の下に帰ることなどあり得ない。
そうそう、専属護衛隊といえば、私はどうしてもルシルナさんに言わなければならないことがあったため、先ほど隊舎前で別れる際彼女に声をかけた。
「ルシルナさん!」
「おぉ、アンク・フィンス。今日もお互い、良く働いたな!実に充実した労働時間だった」
「……どうして、止めなかったんですか?」
「うん?何がだ?」
「ピエリス様が、クリストローゼ様の性感帯を尋ねた時ですよ!護衛対象の貞操の危機ですよ⁉︎」
いきり立つ私を前に、ルシルナさんは落ち着き払っていた。ゆっくりと頷き、ひどく静かな目で私を見つめ返す。
「そうだ、わかっていた……。今世紀最大と言っても過言ではないほどの危機が、クリストローゼ様に迫っていたことは!」
「いや、そこまでではないと思いますが……」
「だがしかし!私はこうも考えたのだ。ここでクリストローゼ様の性感帯を知っておけば、後々の護衛に役立つのではないかと」
「役立ちますかそれ?」
「無論だ!よからぬ連中がクリストローゼ様に危害を加えようとした際、真っ先にそこをお守りすれば、大事に至ることはあるまい」
「性感帯より心臓を守りましょうよ」
「残念なことに、先ほどはクリストローゼ様の性感帯を知ることは叶わなかった。しかしクリストローゼ様は仰った!確かめてみる?とな!」
「え、ちょっと待って」
「あの言葉は、確かにピエリス様に向けられた言葉だ。しかし、ピエリス様に代わって私が確かめ、その詳細を報告すればどうだ。護衛の任務だけでなく、公爵家ご当主のお役にも立てるということだろう!」
「ル、ルシルナさん……?」
「今夜にでも夜這い……ではなく、クリストローゼ様の寝室にお邪魔させていただきその性感帯という性感帯を……」
こんなところにも貞操の危機が⁉︎ヤバイ私じゃルシルナさんに太刀打ちできない!百戦錬磨の護衛隊隊長が繰り出す本気の夜這いを阻止するなんて、どう考えても不可能だよ!
「これもクリストローゼ様のため!さぁ!さっそく準備を……」
「隊舎の前で18禁用語を連呼するなぁぁぁぁ!」
というセドリアスさんの仲裁、もとい鉄拳制裁が、ひとまずクリストローゼ様の貞操を守ってくれた。意外と頼れる副隊長さんだ。意外と。
しかし、本当の衝撃はこの後に待ち構えていた。
セドリアスさんに引きずられていくルシルナさんのポケットから、何かが落ちたのだ。何気無くそれを拾った私は――
「――!」
全身から血の気が引いた。さあっと手先の体温が失せ、首の後ろにじっとりと嫌な汗が吹き出る。目の前がぐらりと揺れて、喉元から生暖かい空気がせり上がる。
ルシルナさんが落としたのは、1冊の本だった。さほど厚くもなく小振りなその本には、どこか見覚えのある流麗な文字でこう書かれていた。
『真珠とエメラルド 著者 レイ・レイ』
――この身の毛がよだつ想定外の事件を回想しつつ、私は今、ずるずると食後のコーヒーを啜っている。
目の前には相変わらず、鉄壁の防御力を誇る要塞という名の書類の束が、これでもかと積み上がったままだ。ルシルナさんと別れて帰宅した後、どうにか片付けた方なのだけれど、ポストが吐いたり出したりした分が加わったので、結局プラマイゼロである。
現在、21時32分。適当に夕食を済ませつつ仕事をしていたら、いつの間にか夜になっていた。
私の夕食シーンについては割愛させていただこう。何しろ、食卓であるキッチンテーブルがこの有様なので、基本的に食事は立ったまま、仕事を片手に済ませてしまう。行儀が悪いことは重々承知しているけれど、私の師匠もそういう人だったので、もはや立ち食い、ながら食いは習慣みたいなものである。
ワーカホリック?知ったこっちゃない。
というわけで、今に至るのだけれど。
「あんな忌まわしいものを、ルシルナさんが持っているなんて……」
思わず呻きながら見やる先には、麻紐でがんじがらめに縛り付けたクッキーの空き箱がある。
ルシルナさんの落し物は、あの中に封印させてもらった。
いや、別にルシルナさんの性癖について苦言を呈するつもりはないのだ。クリストローゼ様が絡まなければに限るけれど、女の子同士の甘酸っぱい恋物語を好もうと、それを自らで実践しようとも、それは彼女の自由だ。
けれども。
「なんで選りに選って、あの自称大ベストセラー作家の本なのだよ……」
あれ、語尾がおかしい。
って問題はそこではなく。
私が内密に取引をしているあの情報屋、レイ・レイが、こんな形で私の人間関係に絡んでくることこそが問題なのだ。
まさか、ルシルナさんはあいつの作品に感化されたのだろうか?手紙なのにリアルタイムで的確に鬱陶しいやつだから、自作品にも何か仕掛けをしているかもしれない。うーん、これは危険だ。
「今のうちに、庭のどこかへ埋めるのだよ……」
「そんなことより、ボク、コーヒーのおかわりが欲しいんだけど」
「あ、申し訳ありませんクリストローゼさ……」
ま?
視線をふいと横にずらすと、当たり前のようにキッチンテーブルに腰掛ける金髪赤眼の少女がそこにいた。
「なんでいるんですか⁉︎」
「コーヒー飲みたかったから。ピエリスちゃん家の紅茶まずいし」
はーやーくー、とマイカップを抱えて催促するクリストローゼ様。お屋敷にも当然コーヒーは用意されているが、彼女は放っておけば何杯でも飲んでしまうので、1日2杯までと決められている。まぁ、そんな決まりなどまるっと無視して、クリストローゼ様はしょっちゅう我が家に来てはコーヒーを飲んでいく。行きつけの喫茶店みたいなものだ。
それにしても、カフェインジャンキーな歌巫女……イメージ悪いなぁ。
「クリストローゼ様、もう遅いんですから、あんまり飲んじゃダメですよ?」
「アンクって疲れてると語尾がおかしくなるよね」
聞いてたの⁉︎いつから居たんだ⁉︎
「そ、それは別に関係ないでしょう⁉︎」
「関係あるのだよ」
「やめて下さいっ!」
しょうがないじゃん口癖なんだから!疲れてるとぽろっと出ちゃうの!
やや乱暴にコーヒーを注ぐと、私はクリストローゼ様にカップを手渡した。ついでに自分の分もおかわりして、椅子に座り直す。
「クリストローゼ様、前座の件については、明日直接確認に行ってきます。ですので、朝はいつもより早めに出ますよ」
「やだ」
えぇー……。
どうやら、まだご機嫌斜めらしい。
前座の件や、散々待たされたことだけでなく、恵式などの本来のやりたい仕事以外のことをした疲れなどもあるのだろう。
燻って煙を上げている熾火のような目には、いつものニヤニヤ笑いは見受けられない。
「クリストローゼ様……」
「長いっ!」
唐突にそう叫んで、彼女はカップを置くとベッドのある奥の部屋へと走っていってしまった。
バタンと閉められたドアを見やり、私は何が長かったのかを考える。
それもほんの、一瞬だ。
カップを流し台に置くと、私も奥の部屋へと入る。彼女はこちらに背を向けて、枕を抱きかかえ蹲っていた。
その、小さな背中に。
「ローゼ」
呼びかけて、ベッドに膝をついた。その華奢な肩に腕を回す。触れるか触れないかくらいの柔らかさで、そっと。あやすように、優しく。
俯いた彼女の耳に頬を寄せて、その複雑な形を確かめようと擦り寄る。ピクリと肩が震えるが、逃げ出そうとはしない。代わりに、小さな声が耐えかねたように漏れた。
「なに?」
優しく尋ねても、彼女はなおも俯いたままだ。けれど、その頬が赤く染まっていることは、この距離なら十分確認できる。
熱を帯びたそこを、指先でそっと撫でる。火照った肌は吸い付くようになめらかで、指の腹を甘く刺激してくる。そのまま顎のラインをなぞり、唇へ。熟れた果実のように赤いそこは、ぷっくりとした弾力で私の指を押し返す。愛らしい形を確かめるように何度もなぞると、濡れた艶めきが、その小さな隙間から微かに漏れて、私の爪を汚した。
「んぅ……」
「ダメだよ」
堪らずに私の指を咥えようとした唇から、私はついと手を離す。その代わり、今までやんわりと触れていた腕に力を込めた。後ろからしっかりと抱きしめて、体をぴったりと寄り添わせる。
「ローゼ」
「……」
「まだ、怒ってるの?」
「……」
「ごめん、ローゼ。今日は嫌な思いをたくさんさせちゃったね。いい子だから、許して?」
耳元でそっと囁いて、すぐ横にある表情を盗み見る。彼女の長いまつ毛は微かに震え、瞳は蕩けるように甘く濡れていた。
「ごめんってば。ねぇ、ローゼ」
もう、彼女は怒っていない。
それは一目瞭然だ。
それでも私は彼女に――ローゼに許しを乞う。
彼女がそれを望むから。
ローゼのために、ローゼが気持ちいいことを、ローゼが良いと言うまで繰り返す。
腐りかけの果実のように、とろりとしたその甘えを、わがままを、私は自ら受け入れる。
愛しいあなたが望むなら。
喜んで捧げよう。
この言葉も愛撫も何もかも。
「ローゼ」
暗い夜の片隅で、私はなおも、囁き続ける。




