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第1章 1 「おっぱいが潰れちゃうんですけど」

 今夜は徹夜になりそうだ……。

 時刻はまだ午前9時を過ぎたところだというのに、私は半ば確信を持ってそう思っていた。

 確信が持ててもまるで嬉しくない。それどころか、心底うんざりする。

 今日が3月17日で、観桜会は3月31日……。あと14日、2週間しかないのだ。その間に出席者名簿の最終チェックに会場の設営状況確認、来賓の方々のために厩舎の設置を追加で依頼、 当日の段取りを舞台屋を交えて打ち合わせ、それを踏まえて主賓のピエリス様の挨拶について補佐官の方と調整、あとクリストローゼ様の衣装合わせに護衛隊への指示……。

 もううんざりを通り越してげんなりだった。明日の今頃は、それも通り越してぐったりだろう。

 とはいえ、誰に頼れるわけでも、任せられるわけでもない。私の仕事である以上、四の五の言わずにやるしかないのだ。

 それはわかっているのだけれど。

「時間ないなぁ……」

 つい、弱気な言葉が口をついてしまう。

「時間は自分で生み出すものだよ、アンク」

 そんな私の心中を一切推し量ることなく、彼女はあっさりとツッコミを入れた。

「誰にだって平等なものだよ、時間は。ボクにとっての1分も、アンクにとっての1分も。それを何のためにどう使うか。大切なのは、時間の量じゃなくて、どんなベクトルに照準を合わせるかだね。目的とそれに伴う優先順位を整理していけば、納得のいく時間の活用は可能なはずだよ」

 至極ごもっとも。

 非の打ち所がない、見事なツッコミだった。

 それでも、いやだからこそ。

 私はこめかみがヒクつくのを抑えられない。

「……クリストローゼ様」

「んー?」

「あなたがこの直前になって山ほど無茶な要求したから、今もうめちゃくちゃ忙しいってことわかってますか⁉︎歌の曲調を急に変更したり、それに合わせて舞台衣装も全部新しく用意し直したり、当日は馬車じゃなくて輿で行きたいとか言い出したり!発注とかの都合もあるんですから無茶言わないで下さい!関係各所に変更の依頼をするのがどれだけ大変だったか……」

 私の言葉に、彼女は笑う。

 目を細め、口を横に広げて。

 一見儚げにさえ見える、愛らしい顔立ちいっぱいに、どうしようもなく、ニヤニヤとしか形容のしようがない笑みを浮かべて、言う。

「そーなの?」

 …………。

 この鬼畜姫が。

 私は深い深いため息をついて、背もたれに寄りかかった。馬車の車輪から伝わる振動が、贅沢な革張りの座席から微かに伝わる。

 カーテンの隙間から見えた海は、今日も穏やかに凪いでいた。その紺碧の水面を撫でるように、白い帆を張った舟が数隻、するすると進んでいく。ほとんど波が立たないほど静かな海なのに、その白い舟たちは、何かに導かれるように帆に風を受け、迷うことなくまっすぐに海面を横切っていく。

 けれど、そんな鮮やかな青と白のコントラストも、私のこと陰鬱な気分を晴らしてはくれなかった。むしろ先ほどより気分が悪いくらいだ。頭痛もするが、それ以上にお腹が痛い。これはストレスからくる胃痛だろうか。いや、きりきりと刺すような痛みの胃痛とは種類が違うようだ。痛いというよりは重いというか……鈍痛と表現するのが適切だろう。具体的には、胃というより、下腹部、いやもう少し下がって……。

「……クリストローゼ様」

「んー?」

「そろそろ膝から降りてくれませんか?私の太ももが限界なんですが」

「えー。それはアンクの鍛え方が足らないからじゃない?」

「クリストローゼ様の椅子になるために鍛えた覚えはないんですけど⁉︎」

「今から始めたら?」

 なんとまぁナチュラルに鬼畜なんだろうこのお姫様。これが嫌味でなく、心底本気でそう思っての発言なのだから恐ろしい。気遣いだの思いやりだの、そういった人間関係の機微を一切合切無視した自己都合満載の本音を、ご丁寧にもニヤニヤ笑いにくるんで堂々と差し出すその様は、もう言葉もないほど、ふてぶてしい。

 まぁ、いくら私が彼女の秘書官だからといって、己が主人のために太ももカスタマイズまではできないし、したくないけれど。そこまで行っちゃったらもう社畜の鑑じゃない。

 馬車に乗ってからずっと、クリストローゼ様は座席ではなく、私の膝の上に座り続けている。もうかれこれ20分近い。幼い子供ならともかく、同じ16歳のクリストローゼ様を膝に座らせるのはさすがに無理があった。たしかに彼女の方が幾分小柄ではあるが、私は標準体型なのだ。もちろん椅子になるべく鍛えてもいないし、鍛える予定もない。社畜の鑑は断固拒否である。

「あーあ、なんか疲れたぁ」

 と呟いて、クリストローゼ様は私の胸に寄りかかった。いきなり眼前に迫った後頭部を、どうにか首を反らして避ける。彼女は膝から降りる気配は微塵もなかった。むしろ堂々と、私の太ももの占有権をその小さなお尻で主張する。ずしりと両脚にのしかかる、鈍い痛み……。

 それはこっちのセリフだぁぁぁぁ!

 という叫びを胸の内に無理やり押し込める。これ以上の口での応酬は、防戦一方どころか、既に私の敗北が決まり切っているため無駄なのだ。

 私はクリストローゼ様には勝てない。どんな些細なことにおいても。

 その理由は2つ。ひとつ目は、私が彼女の部下だからだ。執事よりも忠実にクリストローゼ様に仕え、護衛よりも密接にクリストローゼ様に尽くす。それが私の仕事である。この関係性以外を抜きにして、私と彼女が渡り合うことなどあり得ない。この絶対的な上下関係を持ってして、クリストローゼ様に勝つなど到底不可能なのだ。安易に抗うことさえ難しい。

 もっとも、抗う余地などないことがほとんどだ。何せ、彼女の言葉は、どうしようもないほどに、正しいのだから。先ほどまでのやり取りからも、残念ながらそれは明らかである。非の打ち所がない、完璧なツッコミ。そして、自分は上司であるということを深く理解した上での、あの態度。感情で立ち向かえば理性であしらわれ、理性で刃向かえば事実でかわされる。クリストローゼ様はいつだって、容赦なく、正しい。私はその事実を、今まで嫌という程突きつけられてきた。これこそが、私がクリストローゼ様に勝てないふたつ目の理由である。

 などと言えば、またニヤニヤと笑いなが

ら「そんなわけないでしょ。そうやって自分の弱さから逃げちゃダメなんだって」などと彼女はのたまうだろうから、やっぱり私は口を噤むしかない。

 とはいえ。

 これだけは言わねばなるまい。抗わなければなるまい。

 一応、私は16歳の女子である。成長における大事な時期だし、この一瞬が命取りになるかもしれないのだ。

 譲れない点は主張していかなければ。

「クリストローゼ様……」

「んー?」

「そんなに体重をかけて寄りかかったら私のおっぱいが潰れちゃうんですけど」

 彼女は、はたと顔を上げた。

 そっと首を傾げて、自分が今背もたれにしていたところを見遣る。

 赤い瞳を包む長いまつ毛が揺れた。

 そして。

「なに改めて私の胸潰しにきてるんですか⁉︎」

 さっきよりあからさまに寄りかかってきてるよね⁉︎ぐいぐい背中を私の胸に押し付けてきてるよね⁉︎もう押し付け過ぎてクリストローゼ様の後頭部まで顔面に食い込みそうな勢いなんだけど⁉︎

 太ももは重いし痛いしおっぱいは瀕死の重症だし顔はクリストローゼ様の後頭部にごりごりされるしもうなんなんだ!

「これ以上おっぱいが小さくなったらどうしてくれるんですか!」

「え、どうもしないけど?」

「他人事⁉」

「当たり前じゃん」

「自分だっておっぱい小さいくせに‼︎」

「いや、ボクのこのロリッとした可愛い顔立ちと、ロリロリッとした可愛い体型で、胸ばっかり大きかったら気持ち悪いでしょ。何言ってんの」

 もう帰りたい……。

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