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第2章 10 「――今更」

 目の前に広がる、凪いだ海。

 朝日をゆったりと抱く波は、はにかむように小さく揺れながら、寄せては返すを繰り返す。ようやく温もりを含み始めた海風が、桟橋に腰掛ける私の頬を穏やかに撫でた。

 昨年の12月のこと。思い出したくもないヨリリとの出会いを振り返って、私は深いため息をついた。

 なんというか……もう少し効率のいいやり方はあるはずなのに、どうしてか難しい方難しい方と流れているように感じる。確かに、ヨリリはひねくれ者で信用ならない奴だけれど、そして私はそれに振り回されるだけの愚か者だけど――もっとスマートな関係の築き方は、あるように思うのだ。

 コミュニケーションに正解があるなら教えて欲しい。


「誠実の対義語って、なんだか知ってる?アンク」


 ふいに、クリストローゼ様の言葉が蘇った。

 綺麗な金髪を、この朝陽にたゆたう波のように揺らして、赤い瞳でニヤニヤと笑う、私の仕える歌巫女。

 彼女は続ける。その可憐な唇で、そっと――正しさを、吐く。

「効率だよ。誠実の対義語は、効率。もっと言うなら、誠意を示すことの対義語は効率の良いこと、だね。よくあるでしょ?謝罪を求める時に、相手の態度に誠意が感じられない、とかなんとか。要するに、自分のためにもっと心を砕いて欲しいってことなんだよね。ひたむきに、ひたすらに、真心込めて、何度でも丁寧に、謝って欲しいわけ。でもさぁ、どれだけどんな風に謝ろうと、結局行き着く先は同じなんだよね。内容にもよるけど、結局解決の仕方って初めから決まってて、それはお金だったりなんだったりするんだけど――そこに行き着くまでのルートが違うってだけ。直行か回り道か。その回り道の部分に、誠意を感じる。つまりね、アンク。人間は非効率を好むんだよ。わざわざ、私のために、非効率なことをしてくれた。そこに価値を見出すから」

 彼女は嗤う。

 残酷に、無慈悲に、容赦無く――正しさを突きつける。

「誠実の本質は無駄なんだよ。アンク。覚えておいた方がいいよ」


「――サン、秘書官サン。おーい、無視かいの?」

 間の抜けた声にハッと顔を上げると、ヨリリがこちらを覗き込んでいた。

 間近に迫る、切れ長の目。

「ちょっ、近い!」

「んー?それで押し返しとるつもりかのう?見た目通り非力じゃのう秘書官サンは」

「う、うるさいなぁ!……はっ!この距離ならもしかして、目潰しし放題……⁉︎」

「何か恐ろしい呟きが聞こえた気がするが、気のせいかの?」

 プラナス港の桟橋の上で、私とヨリリの無意味な攻防はしばらく続いた。


「――で、何ですか?」

「ん?何がじゃ?」

「話しかけていたでしょう?私に」

「あー、いや、綺麗じゃなぁと思ってのう」

 桟橋に座り込んだまま、ヨリリは顎でひょいと海の向こうを指し示す。

 私たちの右斜め前方――ロータスと呼ばれる役人たちが、船から舟へ、遺灰を積み変えているその向こう。波の狭間に――


 サクラの木があった。


 青い海の中にそびえ立つ、サクラ並木。

 といっても、まだその蕾は硬く、花びらが開く気配はない。

 それでも、遠目にもわかるほど色づいた蕾たちは、その内に秘める薄紅色を、今にもほろりとこぼしそうだ。その鮮やかな高まりは、見る者の心を知らず知らずのうちに染め上げる。花開くその時を、今か今かと待ち焦がれるように、胸の内で期待が色濃くなっていく。

 太く逞しい幹は、静かな海にどっしりと腰を据えている。その足下で震える波が、風でそよぐ草むらに見えるほど、そのそびえ立つ様はごく自然だ。むしろ、広大すぎる海にあって、その存在感を確かに示すその堂々たる姿は、見る者に安心さえ抱かせる。

 そんなサクラの大木が、港に対して垂直方向にずらりと並んでいる。

 あれが、プラナス公爵家の花。

 ソメイヨシノである。

 この港で灯火(ともしび)の舟に積み込まれた遺灰は、あのサクラ並木をくぐり、花葬島(かそうじま)へと届けられるのだ。


 魂が花として生まれかわること。

 それが、この世界に生きる人々の、行き着く先。

 花の種類は家系ごとに決められており、決して大きな花だから偉い、などということはない。

 代々その決められた花を受け継ぎ、亡くしたものを悼み、いずれは自分もその花へと連なっていく。

 花葬島を舞台に連綿と続く、生きる花の鎖。

 その花の種類を指して、花紋と呼ぶ。

 プラナス家の花紋、ソメイヨシノも同様に、花葬島の春の宮に存在している。

 では、この海に生えたソメイヨシノはなんなのかといえば――港の管理者に対する、枢機卿家からの感謝の印である。

 その昔、聖庁ができたばかりの頃。3つの枢機卿家がどうにか花葬島にまつわる仕事の体制を整えようと奔走していた際、その持てる土地を彼らに快く貸してくれた公爵家。世界中の人々が、最期に行き着く場所へと、確実に送り届けられるために貢献した彼らを讃え――その花紋である花を、港と花葬島をつなぐ海に植えたのだ。

 永遠に咲き続ける花葬島の花と異なり、このソメイヨシノは春が来れば花開き、春が去れば散る運命にある。要するに、ごく自然な、いたって普通の花だ。史料によれば、花葬島にあるソメイヨシノを元に挿し木されたものとされているが、具体的にどんな方法をとったのかは、記録に残されていない。

 しかし、現にこうして、プラナス家の花は、死者を迎え入れるかのように今も存在している。

 もうすぐ――そう、あと2週間もしないうちに、その花弁を開かせて、薄紅色の灯火をその枝先に咲かせるだろう。


「――で、どこにあるんですか?観桜会の舞台は」

「秘書官サンは知らんのかい?大切なものは、目に見えないんじゃよ」

「……もっとマシな言い訳考えたらどうです?」

「いやー、本当のことじゃよ?秘書官サンのおっぱいも、大切なものだからこそ、目には見えないんじゃ」

「う、うるさいバカ!よく見なさいよ!ちゃんとあるでしょ!」

「どれどれ……」

「……やっぱり見るなぁぁぁぁ!」

 このジジイ語ヘラヘラ蛇男!人をおちょくるのも大概にしろ!こっちは真面目に聞いてるんだ!

 今日は3月18日。観桜会まで、あと13日しかない。

 それなのに、メインであるクリストローゼ様の舞台が影も形もないだなんて、これが焦らずにいられるわけがない。

「まぁまぁ、そう焦りなさんな、秘書官サン」

 私の気持ちなどまるで意に介した様子もなく、ヨリリはいつも通り、ヘラヘラと笑った。

「細工は流々仕上げを御覧じろ……ってのう。ワシもプロじゃ。伝説の舞台屋の名にかけて、必ず最高の舞台を用意してみせるわい」

 ……信用するしか、ないのだろう。

 その人間性を、ではなく、プロ意識を。

 もう観桜会は直前まで迫っている。今更他の舞台屋に依頼することなど不可能だし、そもそも他の舞台屋が皆匙を投げたからこそ、こうしてヨリリに頼っているのだ。ヨリリにしたって、赤の歌巫女の舞台演出に失敗したとなれば、それこそ伝説の舞台屋の名が泣く。

 私とヨリリは、まさに一蓮托生。

 のはずなのに、私はただ見守ることしかできない。その上、焦っているのは私だけ。

 どうしてこう、何もかもが上手く噛み合わないのだろう。

 ちらりと横目で彼を見やれば、桟橋の上で胡座を組み、何やら見慣れない果物の皮を剥き始めた。赤みがかった斑模様のそれは、手のひらにわずかに余る大きさだ。形は鶏卵に似ている。ごろりと大きなそれを、小さなナイフで巧みに剥いていく。中から現れたのは、目も覚めるようなオレンジ色の果肉だ。

 すぐそばで遺灰が行き来してるっていうのに、よく食べる気になるなぁ……。

 と思って見ていると、視線に気がついたヨリリがヘラリと目尻を下げた。

「これはのう、アンラという南国の果物じゃ」

「アンラ?」

 別に聞いてない。

 と思いながらも、聞きなれない名前につい反応してしまう。

「マンゴーとも言うらしいが、ワシはアンラって呼び方の方が好きでのう。秘書官サンの名前と似とるじゃろ?」

 そう言って、笑って。

 私に似た名前だという果物を、彼はするすると剥いていく。

 化けの皮を履ぐように。

 丸裸にしようとする。

「……」

 なんのつもりだ。

 なにが言いたい。

 その言葉の、行動の裏に蠢くものを、私は読み取ろうとする。

 信じて用いることはあっても。

 信じて頼ることは、したくない――。

「ほれ」

 いきなり目の前に、鮮やかなオレンジ色の果肉が突き出された。ナイフの刃に乗せられたそれは、見るからにとろりと柔らかそうだ。朝日に照らされ、果汁に濡れた表面が光る。

 思わず手を伸ばして――

「なーにやっとるんじゃ」

「⁉︎」

 ひょいとナイフが引っ込められた。私の上半身はバランスを失いがくっと前につんのめる。

「どうして信頼してない相手のナイフに、素手で触ろうとするのかのう」

 切り分けた果物を自分の口に入れると、ヨリリはヘラヘラ笑いを引っ込めて、代わりにやれやれと言わんばかりに私を見下ろした。

「勧めてきたのはそっちでしょーが!」

「受け取るかどうかはそっちの自由じゃ」

 なんでこういちいち人を試すようなマネするかなぁ⁉︎どんだけ偉いんだお前は!

「ほれ」

 再び。

 ナイフの刃に果肉を乗せて、彼はあっさりと私に差し出してきた。

「……いい加減にしてくれませんか」

 怒ってもまるで怖くない、とクリストローゼ様に笑われれる私だけれど、別に怖がらせたいなんて思ってない。

 他人からどう見えようと、怒る時は怒るのだ。

 心も体も貧相で貧弱な私でも。

「あーあ……。ここは敢えて手を出すことで、余裕と度胸を示すところじゃろ?」

「そんなこと知りませんよ⁉︎」

 なにその正解はこちら!みたいな発言は⁉︎私の態度は不正確だって言いたいの⁉︎

「全くあなたって人はどうして――!」


 ぐにゅ。


 とろりと柔らかいものが、私の舌を押し返した。溢れ出る汁が舌先から歯の隙間へと伝わり口腔内を満たす。一瞬遅れて、濃厚な甘い香りが強く鼻腔を刺激した。口いっぱいに広がるとろとろの甘みに、頭の奥がくらりと揺れる。

「うまいじゃろ?」

 私の口元から指を引いて、その指先から果汁を滴らせて、ヨリリは――

「――!」

 笑った。

 いつもの貼り付けたようなヘラヘラ顏ではなく。

 心から嬉しそうに、楽しそうに。

 海風に長い前髪を揺らしながら、ただ笑ってそこにいた。


 ……ちくしょう。美味しい。


 目の前のこの男に何か言ってやりたいけど、この喉を落ちていく濃厚な甘さには逆らえない。私は黙って、ひとまず咀嚼に専念する。

「秘書官サンは、本当におバカじゃのう。あのジャ・ノーメでの機転は見事だったのに」

 指に付いた果汁を舐めとりながら、ヨリリがまた勝手なことをほざいた。

 人が黙っているのをいいことに……!

 勿体無いとは思いつつ、私は無理やりマンゴーを――アンラとは意地でも呼ばない――飲み込む。

「誰か、優秀なアドバイザーでもおるんかの?」

「……秘密です」

 例え秘密じゃなくても、あんな胡散臭い自称凄腕の情報屋のことは話したくない。口にするのも憚られる、そういう存在だ。

 ホオズキ街のあの店で、出された2つの飲み物。飲んでいいのは1杯だけという条件の下、私はクリストローゼ様へのお土産だった金魚と、店の飼い猫を利用して事なきを得たのだった。

 あの情報屋の手紙から、ヒントを貰って。

「そうそう、あの時の猫なんじゃがのう」

 いつの間にかマンゴーを食べ終えたヨリリは、海を見たまま言った。

 首輪に、長い長い赤い紐。

 金魚を喰らった、ジャ・ノーメの看板猫のことか。

「実はあいつ、目がほとんど見えんのじゃ」

「え……?」

 そんなはずない。

 だって、マスターが瓶の封を開けて、中身を移そうとした瞬間には、もうあの猫はカウンターの上にいたのだ。目が見えないのに、あんな芸当が可能なのか?

「可能なんじゃよ、あいつは。なにせ、ワシのじーさん――先代のヨリリの飼い猫だからのう。昔はよくじーさんの舞台で活躍したもんじゃ。でも今ではすっかり年老いて、ろくに目も見えん。それなのに、自分で獲ってきた物しか食わんし、すぐ馬車に引かれそうになったりでのう。それでも、命より自由が大切なんじゃろうな。外に出るのをやめないんじゃよ。そこで仕方なく、首輪に紐を付けたんじゃ」

 先ほどよりも、風が強い。

 頬を打つ潮の香り。

「あいつは頭のいいやつじゃ。あんなに長い紐を、どこにも絡ませることなくあちこち動き回る。そして、それをきちんと辿って帰ってくる。大した芸当じゃよ」

 そう言って――ヨリリは私を覗き込む。その切れ長の目は、もう笑っていない。

 少し波の高くなってきた海とは対照的に。

 どこまでも凪いだ、静かな瞳。


「秘書官サンは、自分を生かすはずのものに、巻かれて死んだりは、しないかのう」



【首輪が定めなら――それに繋がる手綱は、優しさだと僕は思うよ】



 どうして。

 誰も知らないはずなのに。


 目の前のこの男は、そして手紙のあの男は、こんな風に言うのだろう。

 まるで、私の首にも、見えない長い長い紐がつながれていることを、知っているかのように。

 定めという名の首輪。

 秘密という名の赤い手綱。

 それは、私を生かすための優しさなのか。

 それとも、飼い殺すための首吊り紐なのか。

 それを決めるのは、手綱を握る彼女だけ――


「さぁ?」

 私はふっと口元を緩ませて、目尻を下げた。

 散々見せつけられたから、余裕で真似できる。

 ヨリリお得意のヘラヘラ笑いを、私は顏いっぱいに浮かべてみせた。

「ご自分で確かめたらいかがです?」

 ひときわ強い風が吹いて、私の帽子が飛ばされる。

 前髪から覗くのは、赤黒い目の紋様。

 私は笑う。

 定めも、秘密も。

 もう私の一部なのだ。

 赤い海岸で泣いていたあの日から。

 だから、そんな質問は。

「――今更」

 そう1人呟いて、なおも私は笑うのだった。

 ヘラヘラと、さも相手をバカにしたかのように――笑う。

 目の前のこの笑顔のように。

「じゃ、そうさせてもらおうかの。今回の舞台は、秘書官サンのための舞台でもあるからのう」

 思わせぶりな台詞にも、振り回されたりはしない。

 少なくとも、今は。

 ヨリリのあの質問が――私を少しだけ、追い詰めてやろうとしたあの言葉が、逆に、思い出させてくれた。


 私には、私の舞台があることを。


 クリストローゼ様。

 誠実の本質は無駄だと貴女はおっしゃいましたが、私にはやっぱり、よくわかりません。

 山盛りの無駄の向こうにあるものが何かも、よくわかりません。

 でも――


「まずは仕事の方をなんとかして下さいね。あれだけ前金払ったんですから」

「あの金かぁ……えーっと……大切なものは、目に見えないんじゃよ、うん」

「まさかもう残ってないんですか⁉︎まだ何にもしてないじゃないですか!」

「いや、あるって!微乳に、じゃなくて微妙に」

「誰が微かな乳だぁぁぁぁ!」

 信頼なんて勿論のこと、信用さえもままならない。堂々と胸の内を探りに来る、蛇の目を持つこの男。

 嫌という程不正解ばかりを積み重ね、不毛なやり取りを繰り返し、回り道に回り道を重ねながら――私とヨリリは、こうして向き合い続けていく。

 ヨリリは己の舞台に私を引きずり込むために。

 私はそれに抗うために。

 笑ったり、怒ったりしながら。


 遺灰の運搬場所からこちらへ走ってくる人物が見えた。手には私の帽子を持っている。おそらく、先ほど門のところで話したロータスの青年だろう。右目の下に泣きぼくろのある彼だ。


 澄んだ青空を、カモメが一羽、すいと横切る。

 やれやれ。今日は最悪の1日になりそうだ。

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