表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5


 「うひゃー、カステラ、カステラー」

 一昨日、引っ越してきたという隣人から挨拶にいただいたカステラを嬉しそうに食べる名波。長い髪の毛を耳に掛け、カステラを頬張る。本当は一昨日食べようと思っていたのだが、冷蔵庫の中の賞味期限切れ間近なものを食べて整理していたため、二日間カステラまでありつけなかったのだ。

 カステラを持ってきた相手は正直どんな人だったか覚えていない。カステラに夢中だったから。挨拶もカステラにした気がする。

 「うまし、うまし。クックック・・・」

 カステラを貪り食い、怪しげに笑う名波。全て食べ終わればゴミ箱へとゴミを捨てて、服についた食べ粕を叩き、床へと落とす。

 「んーアイデア、アイデアー」

 椅子から立ち上がり髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きながら部屋を歩き回る。

 二〇七号室住人、名波美由姫。彼女は今、巷の若者に人気のカリスマ画家、「竹原いつか」だ。何度も展覧会を開き、そのたびに来場数は一千人を大きく超える程で、画集を出せばすぐに売り切れがでる。名波の絵はピカソのような独特なものだった。喜び、怒り、哀しみ、楽しさを上手く表現している。ただ正体は、顔はもちろん性別さえも世間には明かしていない。彼女の魅力はそこでもあるのだと誰もがいう。正体を明かさないというのは、名波の完全な意思のもとだった。名波はただ絵を描く時間が欲しかっただけだという。有名になるのが嫌だ、なってどうする?、なった理由を一々聞かれるのが苦痛なだけ、私はただ絵が描ければいい、誰にも邪魔されず、たった一人で描ければいい。そう名波は語る。

 名波、「竹原いつか」が有名になったのは、趣味で自身のインターネットサイトに掲載していたことから始まった。名波のサイトは口コミで広まり「とてもすごい絵を描く人がいる」と世間の若者に伝わっていった。それを知ったある出版社から名波のもとへと声がかかった。「一度画集を出してみませんか?」名波はその声に面倒くささを感じながらもあまりのしつこさに承諾した。絵は全て名波から出版社へと郵便で運ばれているため、出版社自体も「竹原いつか」の正体を知らない。

 名波は今朝、引っ越してきた隣人にゴミ出しを手伝ってもらった。その時ようやく名前と雰囲気だけは把握した。そこで彼女は間宮に自分が「竹原いつか」だと大声で言ってしまった。その時は焦ったが今彼女は、そんなこと忘れたのか、気にする素振りもなくカステラを頬張り、アイデア、アイデアと呪文のように唱えていた。

 名波は今、三ヵ月後に開かれる自分の展覧会へ出展する新作を考えていた。残り三作品は造らなければ展覧会は開けない。頭を掻き、歩き回ってひたすら考える。時折、何か閃いたような顔をするが、首を傾げ再び歩き回る。

 「んー・・・」

 歩き回っているうちに腹が減ったのか冷蔵庫へと足を運ぶ。冷蔵庫の中から先端がチューブ型の蜂蜜を取り出し、それを口に含んだ。ストローのようになっているチューブからチュウチュウと蜂蜜を吸う。吸いながらも時折 「んー・・・」と唸る。名波は甘い物が大好きだ。甘い物が常に冷蔵庫に入っている。名波曰く、甘い物を食べると、いいアイディアが浮かぶらしい。

 「ぷはっ。仕方ない、外にでるかあ。」

 今回は甘い物の力を借りてもアイディアが浮かばないと諦めた名波は、チューブから口を離し、蜂蜜を冷蔵庫に戻す。甘い物でも思い浮かばない時、名波は外にでる。商店街や、川沿いを歩いていると時々アイディアが浮かぶ。

 名波は一度大きな伸びをして、下書き用のスケッチブックと鉛筆を持ち玄関へ向かう。

 名波の私服は基本、Tシャツにハーフパンツという格好だ。もちろんちゃんとした洋服も持っているが、名波はこの格好が一番落ち着くという。周りからの視線など名波には関係ないのだろう。

 今日の名波は、だるだるの青いTシャツを着ている為、首元ががら空きになり、黒いブラジャーの紐が丸見え、少しでも屈んだりお辞儀をしたりすれば全てが丸見えだ。下には、ゴムの緩んだ黒いハーフパンツが腰までずり下がり、時折、ブラジャーとお揃いの黒い下着の縁についた細かなフリルが見える。足元には蛍光色で彩られたとても派手なスニーカーを履いた。田舎の不良のような格好だがあくまでもこれが名波スタイルだ。この格好が画家「竹原いつか」を生んだのだ。格好だけではないが。

 思い出したように鏡の前で、長い髪の毛を二つに分けて、なるべく邪魔にならない位置に結んだ。外見からじゃとてもじゃないが二十四歳だとは誰も思わない。

 鉛筆と消しゴムをスウェットのポケットに突っ込むとスケッチブックを抱えて玄関を飛び出した。爪先をとんとんと地面に軽く叩き付け踵をしっかりと履き直す。振り返りスケッチブックを脇に抱えて家の鍵を閉める。ロックを確認した後、再びスケッチブックを両手で抱えてエレベーターへと向かう。

 「あら、名波さんこんにちは。」

 廊下ですれ違い様に挨拶をされる。三階に住んでいる三十代後半の女性だ。女性はショートボブを綺麗に整え、ジャケットにジーパン、できる女を気取るような格好だった。年齢の割にはいつもお洒落をしているため、若く見える。この女性はとにかく噂好きの情報屋だと名波は把握済みだった。

挨拶を受けた当の本人、名波美由姫は「うぃす」と右手を上げて気難しい顔をして女性をみた。

 「あら、なにかあった?気難しい顔しちゃって」

 女性は心配そうに、けれども情報屋の血が騒ぐのか、好奇の目をして名波の顔を覗く。いつもの名波なら悪戯っ子のような笑顔で挨拶するのだが、今日は名波にとっては悩む日。残り三ヶ月で三作品も完成させなければならないのだから。

 「んーあーいやー、なんもないっすよ。うん、なーんも」

 首を左右に傾げ、名波は右手をヒラヒラと振って無理矢理笑ってみせた。 自分が「竹原いつか」だなんて絶対に言えない。言えないわけではないが、言うとなると面倒くさい。特にこの女には、と名波は堅く口を噤んだ。

 なんとか情報屋から逃れた名波。エレベーターに乗り込み一階へのボタンを押した。軽く鼻歌交じりにエレベーターが止まるのを待つ。

 チンッと電子レンジのような音を立ててエレベーターが止まった。名波はスケッチブックを抱えて、小走りでエレベーターを降りる。マンションをでたなら右へと進む。この道をずっと真っ直ぐと進んでいくと川がある。そこが名波のお気に入りの場所だった。川には小さな橋があり、その下の草むらに座ってアイデアを浮かべる。これが名波の作品に困ったときのスタイルだった。

 「んー・・・」

 いつものように草むらへ腰を下ろし、色々な大きさや形の石ころが絨毯のように敷き詰められているその先の川の流れをみつめながら、鉛筆を歯で齧った。

 「あっ!」

 なにか思いついたらしく、名波は齧っていた鉛筆を持ち直しスケッチブックへと描き出した。名波が描き出したものは悲しそうな少女だった。悲しげな少女だがどこか嬉しそうな、そんな雰囲気の。下書きを描く名波はいつもの表情とは違う。何かに取り憑かれてしまったかのように、大きな瞳を曇らせてスケッチブックをみつめた。時折、目を伏せて何かを思い浮かべ、再び開きスラスラと描いていく。


 「できたっ!」

 外が薄暗くなり始めた頃、名波が立ち上がり、笑顔で絵を見つめた。完成した絵、鉛筆で描いた下書きだが、名波は満足げに何度も頷いた。名波の瞳に映る出来上がった絵。誰も信じられないと嘆く、1人の悲しげな少女が頭を抱えて涙を流し、けれど何処かに誰かを信じたいと心で願うような絵だった。そんな悲しい絵でさえ、笑顔で見つめる。それはきっと彼女の心を表した物だからだろう。

 

 彼女は昔から1人だった。無理矢理、笑顔を作って人と接していた。周りには人がいたが、常に心の中では独りぼっちだった。彼女はそれを悲しいと感じた。けれど笑顔を作ることを止めはしなかった。自分が笑顔になれば、そうすれば誰も離れていかない。そう信じ続けてずっと笑っていた。いじめられたり、悪口を叩かれたりはしなかった。少なからず彼女の知っている範囲では。二十四歳になった今でも彼女は笑い続けている。ただ、社会へ出ていない彼女にはもう友達がいなかった。けれど彼女は1人で、1人きりで絵を描き続けている。それだけが彼女の生き甲斐だから。そして、今の彼女は時間を大切にした。1人になることよりも、今は時間がなくなる事の方が余程恐いと思うようになっていた。人と接しない時間を、絵を描く時間に変える、それが彼女にとって一番楽しくて儚くて大切なものになっていた。


 しばらく絵を見つめた後、橋の下から抜け出して夕暮れの中スケッチブックを抱えて、家へと帰るため歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ