第八節
・割とグロいかも。苦手な方は注意。
・勢いだけで書いてます。誤字があったらサーセン。
毎週火曜に更新予定。経過報告はブログで。
狐火クイックブースト http://ninetailsound.blog90.fc2.com
夏希を失って、僕は孤独になった。寂しくて、辛くて、どうしようもなかった。誰でもいいから話し相手が欲しかった、一握りの温もりが欲しかった。
僕が近付くと、それだけで誰かが死んだ。僕が視線を注ぐと、それだけで生命が壊れた。僕が通った後には何一つ残らなかった。全身から瘴気を振り撒き、殺す。銃弾で貫かれても、爆弾で吹き飛ばされても、すぐに再生する身体。あの日を境に、僕は生きとし生ける者達にとっての天敵となっていた。怨嗟に晒され、この世界そのものから拒絶された。程なくして僕は、この世に蔓延する災いの全て、その中心に自分がいる事を知った。
僕から夏希を奪ったあの光も、僕自身が招いた歪みの一つだった。僕の存在が夏希を死に至らしめたという訳だ。……滑稽じゃないか。守ると誓った人を、この手で殺したも同然だ。僕が生まれてこなければ、夏希は死ななかった。僕には後悔の余地すら与えられていない。後悔する事すら許されない。
(どうして、僕は死ねないのだろう)
思う。今の僕に『生』への渇望は無い。生きる事を放棄している僕が、生きる事を望む者達を排除している。矛盾と皮肉。道理を捻じ曲げ、理性を嘲笑う現実。
徐々に自分の中で感情が磨耗しているのが分かる。『人間らしさ』が欠如していくのが分かる。感情の有無に関わらず、望む望まないに関わらず、僕と、僕を取り巻く災厄によってあらゆる命が潰えた。新たに生まれるよりも更に多くを滅ぼした。この惑星は透明な死によって満たされた。
長い年月が経った。ある日、僕は自分の傍に一人の女の子が立っているのに気付いた。長い金髪の、人形のように美しい少女だった。彼女が普通の人間でない事はすぐに理解出来た。普通なら僕の近くにいるだけで全身の細胞が壊死してしまうだろうし、それに今となってはもう、人間なんて生き物は一人残らず死滅していただろうから。
その女の子は何も喋ろうとはしなかった。無言で僕の後ろに付き従い、時折悲しそうな目で僕を見ているだけだった。今の僕の、この禍々しい姿が恐ろしくないのだろうか?不思議な存在だった――好奇心という名の、感情。砂漠に落ちた、一滴の潤い。僕はまだ、完全に心を失った訳ではなかったようだ。
少し考えてから、僕は彼女に話し掛けてみる事にした。誰かと話をするなんて、何年……いや、何十年振りだろうか。
「アンタハ――」
言い掛けて、自らの声が醜く変質していたのに驚いた。僕の声は低く掠れていて、彼女を怯えさせやしないかと心配になった。
「……アンタハ、誰ダ?」
気を取り直し、再び尋ねる。可能な限り優しく、丁寧に言葉を放つ。
――思えばこの時から、僕は彼女の事が好きになっていたのだと思う。恋をしていたのだと思う。
*** *** ***
小鳥の囀りが聞こえる。窓をそっと開ける音が聞こえて、僕は目を覚ました。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
聞き慣れた声だった。僕は「今、何時?」と、口だけを動かした。
「朝の八時だよ、兄ちゃん。今日は晴れてるし、風も気持ちいいよ。もう梅雨明けしたんだってさ」
視界の端でカーテンが揺れている。仰向けに寝たままの姿勢でそれをぼんやりと眺めていると、夏希がひょいっ、と僕の顔を覗き込んだ。
「具合、どう?」
「いつも通りだよ。手は動くけど、後は駄目」
「そっか。……お腹空いてる?ご飯食べる?トイレとか大丈夫?」
「いや、今はいい。後で頼むわ」
「ん。じゃあ、何かあったらケータイで呼んでね。あたし、下にいるからさ」
にこりと笑ってみせてから、夏希は――扉の横に立っていたゼダを素通りして――僕の部屋を出て行った。
「はろー、少年。久々」
目が合うと、ゼダは軽快な口振りで僕の枕元に近付いてきた。相変わらずの神出鬼没振りに、呆れを通り越して感心すら覚える。
「ちょっと見ない間に、随分酷い事になってるわね」
多分、この身体の事を言っているのだろう。僕は言葉で答える代わりに苦笑いを返した。
遂に僕は、寝たきりの状態になってしまっていた。身体に力が入らない……というより、身体の感覚そのものが無くなっていた。所謂「要介護」という奴だ。今まで色々な病院で検査を受けたものの成果が得られず、どの医者も一様に首を捻るばかりだった。現在は、容態に変化があるまで自宅療養、という形で収まっている。分かっていた事だ。僕を蝕んでいるのは、医学で解明出来るような代物ではない。右足から始まった喪失感が全身へと及ぶまで、然程時間は掛からなかった。
「良い子じゃない、夏希ちゃん。学校休んで君の面倒みてくれてるんでしょ?」
「別に放っておいてくれて構わないんだけどね」
息子の一大事だというのに、両親は不在。しかし夏希はそれを疑問に思っていない。それどころか、両親の話を一言も口にしない。完全に意識の外、彼らがいないのを前提に振る舞っている。僕が指摘しなければ、それを不自然に感じすらしないのだろう。
「聞いてた感じだと、食事も用を足すのも一人じゃ満足に出来ないみたいだけど?」
「……でもほら、兄の面子ってものがあるし」
「子供だなあ。男の子ってみんなこうなのかしら、素直に甘えとけばいいのに」
やれやれ、と溜息交じりにぼやくゼダ。どうあっても僕を子供扱いしないと気が済まないらしい。
「そんな嫌味を言う為に、わざわざ僕の家まで来たのかよ」
すぐには答えず、ゼダはベッドの脇に腰を掛けた。窓から風が入ってきて、ふわりと甘い香りが漂う。
「あのさ。私が最初に君に会った時に『時間は沢山ある』、って言ったの覚えてる?」
「ああ、そういえばそんな事言ってたな」
その発言に違和感を感じた事を、僕は記憶している。今では既に、その違和感の正体も掴めているが。
「嘘をついたつもりは無かったの。でも、私が思っていた以上に事態は悪化していた。だから、今日は私が隠してきた事を全部話そうと思ってね。こんな事を君に直接告げるのは気が引けるけど、もう時間が無いから教えてあげる」
「勿体振らずに早く言ってよ」
「分かってるわよ、急かさないで。辛いかもしれないけど、よく聞いてね。……君はもう、長くない」
宣告。その透き通るような声には淀みが無い。嘘や冗談ではない事くらい、すぐに分かる。
「……だろうなあ」
曖昧に相槌を打ってみせると、ゼダは上体を傾けて訝しげに僕の表情を窺った。
「冷静ね。普通、もっと驚いたり悲しんだりしない?」
「自分の身体だし、そのくらいは分かってたさ。心の準備も出来てたし。それに漠然とだけど、此処が――この世界が普通じゃないって事も理解してきた」
――僕の名前。僕の両親。他にもきっと、僕が察知していない幾つもの虚偽があるに違いない。此処はそういう世界。『都合ノ良イ嘘デ満チテイル』、そんな世界。
五秒近く、ゼダは僕の目を見ていた。一点の濁りも無い瞳で僕の目を見ていた。僕は目線を逸らさず、ゼダを見つめ返した。今の僕には真実を受け止める覚悟がある。それを知って欲しかった。
「この世界はね、本当の君が見ている夢なの」
ゼダはゆっくりと語り始めた。
「本当の君、つまりオリジナルは人間じゃないし、とても孤独なのよ。彼の周りにいた人達は全員いなくなってしまった。それで、彼はいつも夢を見る――幸せだった過去の日々への憧憬と、自身の願望が合い混ぜになった夢を、ね。それがこの世界であり、私達でもある」
(本当の僕の、願望……)
今更疑うような話ではなかった。この僕とは別の「僕」がいる事を、僕は知っていた。この世界で何か抗い難い意思が働いている事を、薄々勘付いてはいた。それだけじゃない。思い違いでなければ、僕はそいつと直接会った事すらある。
此処にいる、今を生きている自分が偽者であるという真実。でも、だから何だというのだ。僕は僕だ。一人の人間だ、平凡な中学生だ。僕がそう思っている限りそれは紛れもない事実であり、揺らぐ事は無い。ゼダが、僕にそれを教えてくれた。
与えられた情報を順番に組み立てながら、僕は更なる質問をぶつける。
「じゃあ、僕に両親がいないのは……」
「元からいなかったみたいね。でも『いる』という事にされている。オリジナルがそれを無意識的に望んだからね。君の名前に関してもそう。それと例えば、夏希ちゃんの事なんだけど。私の記憶が確かなら、本来は病弱でまともに動き回れなかった筈よ、あの子」
確かに。夢に出てきた夏希は、一人で歩く事もままならなかった。だとすれば。
「じゃあ、今ここにいる僕が夢の片割れに過ぎないとして……僕が最近見るようになった悪夢は何?やっぱり、あれが現実なの?」
「ううん、そっちも夢だと思う。でも、より現実に近い夢ね。君が怖い夢や痛い夢、悲しい夢を見たのだとすれば、オリジナルも似たような思いをしてきたって事じゃないかしら。……本来、二つの夢は決して交わらないようになっていたの。オリジナルが見る、良い夢と悪い夢。それが何故か、良い夢の登場人物である君が悪い夢を見るようになってしまった。君という媒介を通して、夢の中で夢を見るようになってしまったのよ。その影響で君は――今此処で寝ている君の身体は壊れ始めた。君が消えれば、この世界は摩滅する。いずれ、オリジナルは永遠に続く悪夢に苦しむ事になる」
――世界の、摩滅。
「……何とかする方法はないのか?」
僕の問いに、ゼダは「無いわ」と即答した。
「現実世界で起こっている事に干渉する手段は存在しない」
僕は笑声を上げた。自身の無力さを笑った。
「そうかよ。こっちのあんたも、本物のあんたも、揃いも揃って容赦無いな」
「お。私の本体に会ったの?」
「うん。あんたと違って大人しくて、こう、守ってあげたくなる感じの――痛っ?痛い痛い痛いっ!」
手首を思い切り捻り上げられる。本当に容赦無いな、こいつ。
「悪かったわね、守ってあげたくなるどころか片手で熊を倒せそうな性格で」
「いや、そこまで言ってねえから!」
「一応教えておくけど、私の性格も君のオリジナルによって再構成されてるんだからね?君の思い描く通りの女の子になったんだから、ちょっとは喜んでくれたっていいじゃない。もう……」
ゼダは頬を膨らませながら、僕の手首を放した。
「そのオリジナルとやらがやった事を、僕に言われても困るっての。……大体あんた、何でそんなに色々知ってるんだよ?立場上は僕と同じなんだろ?」
手首を擦りながら尋ねると、ゼダは天井を仰ぎ見た。
「んー……、私は例外かな。この世界でただ一人のイレギュラー。夢の世界の住人であるのに変わりはないけれど、私には此処を監視する役目があるの。現実世界にいる君のオリジナルがこの世界の管理者だとすれば、私は現場監督というか、そんな感じ?その役目を遂行する為に私は、私の本体が持つ知識や記憶、特質、そして力の一部を共有している。リンクしているのよ、私達は。偽りの果実、永久の園の守人……それが、この私。違うのは性格くらいで、後は同じだと思ってくれて構わないわ」
――そうか。そういう意味だったのか。『永久の園』の『果実』。追放されるのは、僕。実に諧謔的である。
ゼダは続ける。段々と、声のトーンが下がっていく。
「私ね、本当は君の事をずっと前から知っていたの。君が悪夢を見始める、それよりもずっと前から。予定では君の精神が成熟してから、つまりもう少し大人になってから接触するつもりだったんだけど、予定が狂った。二つの夢が交差して、君という存在を脅かすようになった。正直言って焦ったわよ。だから、間接的なやり方ではこの世界を――君を守り切れないと判断して、君の前に現れた。それが結果的に、世界の崩壊を加速させてしまった。……私のせいで、終わるの」
ゼダは言葉を詰まらせ、俯いた。
「別に、あんたは悪くないだろ」
「……え?」
ゼダの震える手に、自分の手を重ねた。彼女の手は少しだけ冷たかった。僕は慎重に言葉を選びながら、口を動かした。
「早いか遅いかの違いだけで、その内こうなるのは変わらなかった。それなら、少しでも楽しく過ごせた方が良いに決まってる。僕は後悔してないよ。ゼダと会えて、後悔してない」
心の奥から、そう思う。それに僕は満足していた。何も知らないまま無念さに囚われて朽ち果てるよりも、絶望と諦めの中で息絶える方が楽だ。不可視の未来、欺瞞で彩られた可能性に踊らされるよりも幾分マシだ。
「慰めてくれるの?」
「別に。思ったままを言ってるだけだよ」
「……私より年下の癖に。生意気」
しなやかな動作で、彼女はベッドから立ち上がる。手の甲で目元をごしごしと拭ってから、言葉を続けた。
「とにかく……私が知っているのはこれで全部。前にも言った通り君の名前は――そもそもオリジナルが名前を持っていないから――当然私も知らないし、君の為に私がしてあげられる事は何も無い。……悔しいけどね。他に何か質問は?」
少し、考える。それから口を開いた。
「僕があんたと会えるのは、これが最後なのか?」
ゼダはきょとんとした表情で僕を見た。僕は真剣だった。
「君が望むなら、いつだって会いに来るけど」
「だったら、ずっと傍にいてくれ。ずっと傍を離れないで」
「……」
「何だよ、その顔。何か言えよ」
「い、いや、うん。意外というか、うん。まさか君がそんな事を頼んでくるなんてね。お姉さんびっくり。あは、ははは……」
柄にも無く動揺しているらしい。ゼダはそわそわとして落ち着かない様子だった。今日の彼女は表情がころころと変化して面白い。
「気持ちの整理は出来ててもさ、やっぱり怖かったり、寂しかったりするんだよ。こんな僕でもね」
「……そう。消えて無くなるのは、嫌?」
「要するに死ぬって事だろう?どうだろう……うん、嫌なのかもしれないな。僕は此処が凄く気に入ってるんだ。夏希が、ゼダが、学校のみんながいるこの場所が。別れたくないし、手放したくない」
「そっか。まあ、当たり前よね。うんうん、そりゃそうだ」
ゼダは僕に微笑みを向けた。その裏にある悲しみを悟れない程、僕は鈍くない。彼女は自分が拒絶されたと思っているのだろうが、僕はそんなつもりで言ったんじゃない。だから言葉を繋げる。思いの丈を打ち明ける。
「何度でも言うけど、僕は後悔してないよ。それでこの前の――雨の時にあんたが訊いてきた――どうして人は生きようとするか、って話なんだけど。みんな、今を楽しみたいんだと思うんだ。どんなに怖くても、いずれ死は訪れる。だから、せめて今この一瞬だけでも楽しんでいたいんだ。それは絶対に、諦めから生まれる気持ちなんかじゃない。本能だとか遺伝子の記憶だとか、そんなつまらない強迫観念だけじゃない。自分でものを考えて、自分の心で笑って、自分の力で今を謳歌したいんだ。誰だってそう。僕だって、きっとそう。終わりが近付いているというのなら、せいぜい楽しんでおきたいんだよ。ゼダ、あんたと一緒にいたいんだ。……あんたの正体が何であれ、それは変わらない」
ゼダの目が大きく見開かれた。流石に驚きを隠せなかったようだ。
「君。まさか、私の――」
言い掛けたゼダを手で制した。それ以上は不要だった。言われなくても、僕は全部知っているつもりだ。それに僕はまだ、一番大切な事を彼女に伝えていない。今、伝えなければいけない。
「あんたが何者だろうと構わない。オリジナルだとか夢だとか、そんなの関係無い。僕は僕、ゼダはゼダ。それでいいんだ。例えあんたが誰だろうと……好きになっちゃったんだから、仕方無いじゃないか。僕は、あんたが好きなんだ」
「なっ……!」
……
…………沈黙。
「…………」
「…………」
(……………………あ、あれ?)
強引過ぎただろうか。嫌われてしまっただろうか。
不安になって、横目でそっと表情を盗み見る。ゼダは――傍目に見ても分かるくらい、顔を真っ赤に染めていた。
「あ……ちょ、待って!これ、これは違うのっ!だって、だって急にそんな事言われたら、その。あう、あう……」
僕の視線に気付いたゼダは両の掌で顔を覆いながら、何やら言い訳じみた台詞を喚いている。……照れている、らしい。いい機会なので普段の仕返しという意味も兼ねて冷やかしてやりたい所だが、顔が赤いのは自分も同じだと思うので止めておく。それに異性に告白したのは、これが生まれて初めてなのだ。相手をからかうような精神的余裕がある訳が無かった。
「あの、それでゼダ。返事――」
「う、うるさいっ!ちょっと待ってってば!」
ゼダは大げさに何度か深呼吸してみせてから、小声で「ああ、今の録音しとけばよかったわ」と、恐ろしい事を呟いた。
「……こほん。あ~、君ね、物事にはムードとかタイミングとか、そういうのがあるのよ?いきなりそんな、す、すす好きとか、そういう事言い出しちゃ駄目なんだから」
僕に向き直り、ゼダは平静を装って諭すように言った。だが口元がにやけているわ声が上擦っているわで、まるで説得力が無い。
「僕的にはムードもタイミングも完璧だったんだけど。それより返事を聞かせてよ。ゼダは僕の事、どう思ってるの?」
「どう、って……そんなの。き、決まってるじゃない。直接言わなきゃ、駄目?」
――この態度。脈有りと考えていいのだろうか。
「直接、ゼダの口から聞きたい」
我ながら驚くべき押しの強さである。一度吹っ切れてしまうと大胆になるという事か。
僕の言葉にゼダはうーうーと唸っていたが、突然自分の金髪をぐしぐしと掻き回したかと思うと――僕の鳩尾に正拳突きを放った。……何故?
「げふっ!……ちょ、何を……?」
「こ、これはお仕置きです。君が意地悪ばっかり言うのが悪い」
「んな事言われても……」
「……やり方がずるいのよ。馬鹿」
本人は照れ隠しのつもりかもしれないが、衰弱した人間に暴力を振るうのは如何なものか。
ゼダは拳を引くと、溜息を一つ。ようやく落ち着きが戻ってきたらしく、口振りにはいつもの力強さが表れる。
「私、今日はもう帰るわね。仕事が残ってるし、その、気持ちの整理とか付けたいし……。明日また来るから、返事はその時に」
「おいおい、それはいくらなんでも酷いんじゃないか?僕が勇気振り絞って告ったっていうのにさ」
「酷くないわ。いいじゃない、明日の楽しみが一つ出来たのよ?」
「……明日、僕が無事でいられる保障なんて無い」
「だったら、気合で生き延びなさい。男の子なんだから、それくらい簡単でしょ?」
「無茶を言うなあ」
実にゼダらしい発言だった。それが何だかおかしくて、僕は思わず笑ってしまう。するとゼダもそれに釣られて笑った。二人の笑い声が、朝日が差す部屋の中で響いた。暫くの間、そうしていた。
(楽しいな……)
――ああ。この時間がずっと続けばいいのに。
「……それじゃあ、また明日ね。仕事があるから二十四時間ずっと付いていてあげる訳にはいかないけど、それでもなるべく時間作って顔を出すようにするわ」
やがて、ゼダが口火を切った。
「明日は、どれくらいの時間に来れそう?」
「んー、今日と同じくらいか、遅くても昼には。……ふふっ、もしかして待ち切れないの?かわいいなあ、もう」
ゼダの手が、僕の頭を撫でた。優しい手つきだった。
「……そりゃそうだろ、こっちは生殺し状態なんだから。返事、忘れるなよ?」
「はいはい、分かってますって。聞いてて思わず恥ずかしくなっちゃうような返事を用意しておくわね。首を洗って待ってなさい」
「ああ、期待してるよ」
ゼダは僕から離れ、部屋の扉に手を掛けた。僕はそれを目で追った。彼女が振り返り、僕を見た。互いの視線が重なる。互いに何も言わず、長い間そうしていた。
「それじゃあ、また」
ゼダは柔らかな微笑みを浮かべた。それはとても綺麗で――僕は心から、この人を好きになれて良かったと思った。そう思えた。
「ああ。また、明日」
片手をひらひらと振って、彼女の笑顔に答える。ゼダは同じように手を振り返してから、僕の部屋を去った。
部屋は静寂で満たされた。窓から差し込む日差しが暖かくて、僕は眠気を覚えた。
「幸せ者だな、僕は」
晴れやかで清々しい気分だった。幸福の所在は寿命の長さではなく、各々が自身の生涯にどれだけ満足出来たかによって決まるのだと思う。僕はゼダと出会い、ゼダを好きになって、ゼダに想いを告げた。充分じゃないか。僕は今を精一杯生きた……それだけで、充分だ。独りよがりと言われればそれまでだが、幸せかどうかなんて主観でしか判断できないだろう。だから、これでいい。
その内に少しだけ空腹感を覚えた僕は、枕元に置いてあるケータイに手を伸ばそうとした。腕が重く、中々思うように動かない。億劫になって、諦めた。
(とりあえず寝よう。起きたら夏希を呼んで、食べ物を持ってきてもらおう)
まどろみの中で、僕は色々な事を思い描いた。過去の記憶と、未来への希望に思いを馳せた。そうしていると、不思議と優しい気持ちになれた。不思議な熱が胸へと注ぎ込まれて、僕の四肢へと行き渡った。次第に思考が鈍る。意識が白く染まっていく。
僕は静かに目を瞑った。
ゼダは二度と僕の前に現れなかった。
――さよなら、僕の愛した世界。