第七節
・割とグロいかも。苦手な方は注意。
・勢いだけで書いてます。誤字があったらサーセン。
毎週火曜に更新予定。経過報告はブログで。
狐火クイックブースト http://ninetailsound.blog90.fc2.com
「兄ちゃん、あたしの事はもういいよ。置いてってよ」
「馬鹿言うな」
「でも、兄ちゃんの足手まといにはなりたくないし……」
「少し黙ってろよ。口開けてると土埃吸い込むから」
僕は夏希を背負って歩いていた。海は、危険だ。奴らは海からやってくる。だからそれとは反対側、つまり丘に向かっていた。向かう先が安全地帯だという保障は無い。それでも、今は僅かな可能性に縋るしかない。
十分程前。僕達は着の身着のまま、まともな備えも無しに家を飛び出した。深夜だというのに家の外が俄かに騒がしくなったのを不審に思い、窓から外の様子を窺ってみると――人が、死んでいたのだ。町の街灯に照らされて、全身をズタズタに引き裂かれて路上に転がっていた。まるで車に轢き殺された猫のように打ち捨てられた死体。それを避けるようにして、人々が何処かへ向かっているのが見えた。途端に空が眩い閃光を放ち、彼らに向かって輝く矢のような物が降り注いだ。聞こえたのは、悲鳴と轟音。見えたのは、崩れる町並みと赤い血飛沫。僕は即座に窓を閉めると、寝ていた夏希を叩き起こしたのだった。
「夏希、下は見るなよ。空でも見てろ。でなきゃ目を瞑ってて」
「う、うん」
血の匂いが酷い。足元に散らばる肉片を踏まないようにしながら、出来るだけ優しく声を掛ける。焦る気持ちを抑える。父親も母親もいない僕にとって、この妹だけが唯一の肉親なのだ。それに夏希は生まれつき身体が弱い。今までそうしてきたように、僕が守らなきゃいけないんだ。死なせたくないし、死なせる訳にはいかない。不安な気持ちにもさせたくない。今此処で僕がパニックに陥ってしまうと、それがそのまま夏希に伝わってしまう。だから、恐れや迷いといった感情を切り捨てる。切り捨てて、逃げながら現状を分析する。人の死を目の当たりにしても、それにうろたえる事無く前進する。もしも僕一人しかいなかったら、その場で泣き崩れていたのだろうが――
今の僕は独りじゃない。家族を守ろうという意志が、諦める事を許さなかった。
当然ながら、避難行動を取っているのは僕達だけではなかった。町中の人間が、この理不尽な災厄から逃れようとしていた。我先にと道を急いでいた。向かう方角は一定。「得体の知れない、恐ろしい何かが海からやってきて、迫撃砲のような物でこの町を攻撃している」……飛び交う叫びの中から得る事の出来た、まともな情報はそれくらいしか無かった。軍隊でも攻めてきたのかというと、そういう訳でもないようだ。ロボットを見たとか、複眼の妖怪を見たとか、無茶苦茶な噂まで流れている。人間、精神的に追い詰められると虚言を口走るものらしい。
とにかく僕達一般市民に出来る事といえば、巣を潰された蟻みたく逃げ惑う事くらい。僕は夏希を背負っている分、速度が出せない。逃げる彼らの後ろを付いていくのがやっとだった。
皆が皆、必死の形相をしている。日常に突如として現れた死から逃れようとしている。彼らを動かしているのは『生』への渇望。誰だって生きていたいのだ。口先では生きる事の虚しさを説いてみたって、本当は生きていたいのだ。それまで築いてきた各々の営みを脅かされても、思い描く未来が凄惨なものであっても。彼らは、僕達は、僕は生きていたいと願う。
だってさ、生き物はいつか死んじゃうんだよ?遅かれ早かれみんな死ぬの、平等にね。
――今。遠い日に聞いた言葉が、脳内を掠めた。いつの事だったか、誰の台詞だったのかも思い出せない。もしかすると、夢の中で――
「――兄ちゃんっ!」
空が明るくなるのと同時に、夏希が叫んだ。即座に足を止めて身を屈める。瞬間、幾筋もの光が僕の前方に落ちて、爆音が轟いた。続いて、ブロック塀や家屋の崩れる音。濛々と立ち込める土煙の中、呪詛とも怒声ともつかぬ声が響き渡る。人の影が蠢く。まるで地獄絵図だ。少しでも先に進んでいたら、僕達も確実に巻き込まれていた。
僕は舌打ちをしつつ立ち上がった。コースを変更、崩れた塀を越えて他人の家の庭を突っ切り、門を抜けて大通りへ。そこには乗り捨てられた乗用車が何台も停まっていて、中には炎上している車さえあった。気付くと、あちこちで火災が発生している。炎に照らされて、空に浮かぶ雲が赤く染まっている。
「人が沢山死んでる。怖いよ……」
「大丈夫だ。大丈夫」
震える夏希を宥める。半ば自分に言い聞かせるように、「大丈夫」という言葉を何度も繰り返す。勿論、大丈夫な訳が無かった。周囲に生きている人間の気配は無い。僕達は明らかに逃げ遅れている。逃げ遅れた者の末路がどんなものかは、方々に飛び散っている彼らの破片を見れば容易に想像が付く。海のある方角から空に放たれるあの光が、徐々に近付いているのだ。接近を許せば、それだけ死のリスクは高まる。……それを考えただけで、動悸が早まる。掌が汗でじっとりと濡れる。
――落ち着け、僕。慌てるな。
「……夏希。ちょっとスピード上げるから、落っこちないようにしっかり掴まっとけ」
僕がそう言うと、夏希は遠慮がちにしがみ付いてきた。白くて細い腕が、僕の首に回される。仄かに石鹸の香りがした。
誰もいない大通りを足早に進んだ。互いに声を掛け合い、励まし合いながら進んだ。海から離れて丘を越えれば、きっと助かる。他の避難者達と合流・協力すれば、絶対にこの苦難を乗り越えられる。それは祈りにも似た、敬虔な想い。それは信仰にも似た、裏付けのない妄執。
五分くらい歩いた所で、再び空が爆ぜた。
(……っ?近い!)
着弾の衝撃と、アスファルトを砕く轟音。驚きながらも、構わず先を急ごうとして――踏み出した筈の右足が宙を掻き、僕は前のめりに倒れた。咄嗟に片手で受身を取ったので、辛うじて顔面から地面にダイブするのは回避出来た。遅れてやってくる激痛に、僕は堪らず呻き声を上げる。転んで身体を打ちつけたのも充分痛いが、それよりも。
「兄ちゃん!あ、足が……兄ちゃんの足がっ!」
僕の背中から降りた夏希が喚き立てる。右足、膝より下の感覚が無い。何かがどくどくと流れ出ているのが分かる。意識した瞬間、更なる激しい痛みが僕を襲った。苦痛に顔を歪ませながら、身体を捻って背後を確認すると――そこには、僕の右足が転がっていた。
全身から脂汗が噴き出す。心臓の鼓動と出血のリズムがリンクして、頭の中にガンガンと響く。眩暈がする。視界が歪む。
「大丈夫。これくらい、大丈夫……」
うわ言のように呟きながら、僕は手を伸ばして自分の右足を拾い上げた。ぽろぽろと涙を零す夏希の頭を、もう片方の手でそっと撫でる。
(早く。早く逃げなきゃ……)
少しでも早く、速く。たかが足一本、大した怪我ではない。まずは止血をして、それから――
頭上で空が白く光った。それはまるで太陽が炸裂したかのよう。目が潰れるかと思う程の、強烈な光。同時に耳を裂くような破裂音が空間を走って、視覚と聴覚が瞬時に奪われる。僕は傍に座っていた夏希を庇うように抱え込んだ。考えるより先に身体が動いていた。
無数の光線が僕の背中を打ち抜いた。その衝撃は凄まじく、自分の身体が浮き上がるような感覚を覚える。呼吸が止まる。周囲のアスファルトが一斉に吹き飛んで、砕けた断片が服を、皮を、肉を破る。全身が熱い。熱くて溶けてしまいそうだ。口の中に血の味が広がる。苦痛と恐怖に絶叫する、自分の声すらも聞き取れない。何も分からない、何も。
――暫くして。視覚と聴覚が甦った。全身に傷を負いながらも、僕は生きていた。奇跡的に、と言っても過言ではないだろう。あの光が直撃した筈なのに、無事だった。
「兄ちゃん、生きてる……?」
最初に聞いたのは夏希の声。粉塵が舞っているせいで、これだけ近くにいても顔が見えない。僕は曖昧に頷いてみせてから、自分が呼吸を止めたままでいたのを思い出した。慌てて息を吸い込み、咳込んでしまう。
「良かっ……無事で……」
夏希の声が妙に弱々しい。疑問に思った僕は彼女を抱き寄せようと、背に回していた腕に軽く力を込めた。すると、掌にぬるりとした生温かい感触が帰ってきた。
「まさか。……おいっ、夏希!」
靄が少しずつ晴れていく。夏希の姿が露わになる。
「あたしは、平、気。ちょっと寒いけど……」
片方の耳が千切れていた。片方の肩が削がれていた。腹部にぽっかりと穴が開いて、内臓が飛び出していた。血が溢れて、下半身を真っ赤に汚していた。これの……こんな状態の、何処が『平気』だっていうんだ。
「夏希。そんな、夏希……!」
「兄ちゃん、あたし……身体、もっと丈夫になった、ら――ぐ、ごふっ」
言い掛けて、夏希の身体が小さく跳ねた。ごぼり、と口から黒い血の塊を吐き出す。
「おい、喋るな!無理すんなよ!」
制止の言葉を掛けるが、夏希は首を横に振った。その拍子に、目に溜まっていた大粒の涙が左右に零れて、頬の上を流れた。
「元気に外、で、遊……。部活、とか。友達一杯……それで、もっと、兄――兄ちゃん……?其処に、いるの……?聞こえて、る?」
頬の涙を、口元の血をそっと拭ってやった。
「ああ、僕は此処にいるよ。ちゃんと聞こえてるよ」
僕は――出来るだけ陽気に振舞う。夏希の冷たくなった手を、両の掌でしっかりと握る。夏希は僕の手を自分の頬へと押し当てると、吐息を洩らした。
「はあ……。兄ちゃ……手、暖かい、なあ。兄ちゃんの手、好きぃ……」
手の甲に頬擦りをする夏希。僕はそれ以上見ていられなくて、彼女の痩せた身体を強く抱き締めた。生命の動く音が伝わってくる。吹けば消えてしまいそうな、脆弱な鼓動だった。
――最期に。耳元で、掠れた声で、夏希は僕に囁いた。
「あのね。嬉しい、気持ちが……一杯なの。ずっと、一緒に……いてくれ、て。ありが……と。兄ちゃ……、大…き、だよ……」
夏希の身体から力が抜けていく。僕は、心臓を鷲掴みにされたような思いがした。身体を離し、最愛の妹の顔を覗き込む。耐えられず、叫ぶ。
「おい……おいっ。……嘘だろ?夏希!夏希っ!」
夏希はもう、何も言わなかった。目を瞑って、幸せそうに微笑んでいた。
*** *** ***
「――ちゃん、兄ちゃん!しっかりしてよ、兄ちゃんってば!」
揺り起こされる。目を開けると、其処は僕の部屋だった。眼前には不安げに僕を見つめる夏希の顔があった。そうと分かった次の瞬間には既に――僕はベッドに仰向けに寝たまま、夏希の上半身を抱き寄せていた。
「ひゃあっ?ちょ、ちょ、ちょっと兄ちゃん?急に何?」
僕の行動に困惑したのか、夏希は目を白黒させる。だが、僕は夏希を離さなかった。放したくなかった。その細い両肩を、力一杯抱き締めた。
「夏希、夏希……っ!ああ、良かった。良かった、無事で……!」
「兄、ちゃん?泣いてるの?……あ。もしかして、また怖い夢見たの?」
咽び泣きながら何度も頷く僕を見て。夏希は、僕の背中を優しく抱き返した。
「大丈夫だよ兄ちゃん。あたしは、此処にいるよ。兄ちゃんが泣き止むまで、何処にも行かないよ」
「うん、うんっ……!」
夏希は、子供をあやす母親のような仕草で、ずっと僕を抱いていた。
どれくらい経っただろうか。もしかすると、一時間近くそうしていたのかもしれない。僕は腕を解き、夏希を開放した。
「ん。落ち着いた?」
「ああ。……何というか、その、悪かった。取り乱しちゃって」
「本当だよー。あんなに力任せに締め付けられて、ちょっと痛かったんだからね?」
「いやマジ、すいませんでした。他言無用でお願いします」
冷静に振り返ってみると、かなり恥ずかしい。妹に泣き付く兄とか、どう考えても救いようがない。
「まあ良いけどさ。それより兄ちゃん、さっきまで何があったか覚えてる?」
その問いに、「いや、全然」と首を振る。ついさっきまでは、学校で帰る支度をしていた筈だったが。
「兄ちゃん、教室でいきなり倒れたんだよ。だからあたしが部活休んで、家まで運んだの。勿論あたし一人じゃ無理だから、兄ちゃんのクラスの先輩達にも手伝ってもらったんだけどね。目を覚ましてくれたから結果的にはオーケーだったけど、救急車呼ぼうかずっと迷ってたんだよ?」
そんな大事になっていたのか。
「無理して家まで運ばなくても、起きるまで保健室辺りに寝かせておいてくれれば良かったんじゃないの?」
「いや、でも。あたしが直接看病してあげた方が良いのかなー、って」
何故かモジモジと落ち着きの無い態度を取る夏希。
「はあ?何でだよ」
「だって兄ちゃん、寝言でずっと『夏希―、夏希―』って言ってたし……」
「……マジか」
寝言としては最悪の部類である。しかも運ぶのを手伝ってもらったという事は、クラスメイトにまで聞かれたという事だ。最悪過ぎる。僕もう学校行けない。
意気消沈する僕の横で、顔を赤くした夏希がポン、と手を叩いた。
「と、とにかくっ!明日は学校休みだし、絶対に病院行こうね?あたしも一緒に付いてってあげるからさ」
「……病院、ねえ」
夏希は理解出来ていない。僕のこれは、病院に行けば治るようなものでは無いのだ――
「ていうか部活あるだろ。今日休んだんだったら、明日はちゃんと顔出せよ。文化部ならともかく体育会系なんだし、サボってばっかりだと流石にまずいんじゃないか?」
「口答え禁止!兄ちゃんは頼りないから、あたしが兄ちゃんの面倒見るのっ!」
「かったるいなあ」
――でも。まあ、いいかな。
「はいはい、分かったよ。じゃあ明日は頼むよ」
悪態を吐きながらも了解してやると、夏希は満足げに頷いた。その笑顔を見て僕はふと、ある事に気付いた。
「……そういえば、お父さんとお母さんは?」
「んー?今日は二人共遅くなるって言ってたよ」
(……やっぱり、そうか)
確信。最初から、この世界にそんな人達はいなかったのだ。僕が名前を持っていないのと同じ。記憶に刷り込まれ、形式上『いる』と認識させられているだけで、実際には僕達に両親はいない、存在していない。その証拠に、僕は両親の顔を思い出せない。会話の中で出てくるだけで、実際に会った事なんて一度も無い。
「じゃあ、今日の晩飯頼める?僕はもう少しだけ休んでるから」
「はーい。出来たら呼びに来るからねー」
僕が病院に行くのを許諾した事がよほど嬉しかったのだろうか。夏希は足取りも軽く、僕の部屋を出て行った。
夏希の気配が完全に去ったのを確認してから、僕は行動を開始した。両親の所在とは別に、もう一つ気掛かりな事があった。
まずは掛け布団を捲る。すると、そこには当然のように二本の足があった。手を伸ばし、右足に触れてみる。
――何も、感じない。膝下から先の感覚が無い。試しに曲げたり伸ばしたりしてみようと力を込めてみたが、どうやっても動かない。神経が死んでいるのだ。
「夢が、終わる……」
ぽつりと呟く。それは意図せず、自然に口をついて出た言葉だった。ゼダによく似たあの少女が、深い水の中で僕に放った言葉。少しずつ、意味が分かってきた気がする。