第六節
・割とグロいかも。苦手な方は注意。
・勢いだけで書いてます。誤字があったらサーセン。
毎週火曜に更新予定。経過報告はブログで。
狐火クイックブースト http://ninetailsound.blog90.fc2.com
黒雲が重たく広がっている。今にも雨が降ってきそうな、そんな天気だった。
視線を落とし、周囲に目を向ける。それから溜息を吐いた。
家屋は悉く倒壊して、瓦礫の山と成り果てていた。地盤は変形して何メートルも隆起し、または陥没し、アスファルトを砕いていた。一枚の紙をぐしゃぐしゃに丸めれば、当然ながら凹凸が出来る。つまりはそういう事だ。未曾有の大地震か、それに匹敵する人知を超えた力がこの町を破壊したのだろう。人の気配は無い。全員何処かへ避難したのか、それとも崩落した建造物に圧殺されたか。
無人の廃墟。此処は……僕が住んでいた町だ。理屈じゃない、感覚で理解していた。
遠くで音が聞こえる。寄せては返す、波の音。壊滅状態にある町並みの向こう側で、黒々とした海が広がっている。夜の闇を溶かしたような、黒。禍々しさと共に、奇妙な懐かしさが胸を満たした。あるべき姿、あるべき形。かつての面影を微塵も残していないこの場所こそ、僕にとって真の故郷ではないのか。普段僕が生活しているあの町は、実は過去の産物に過ぎないのかも――そんな考えすら浮かんでくる。
荒廃した風景の中を歩く。何となく、自分の家がどうなっているか確かめておきたい気分だった。方角は分かる。落ちている瓦礫の様子から、現在地を特定する事が出来る。
(夏希は……、お父さんとお母さんは、無事かな。無事だといいな)
しかし。自宅へと辿り着く前に、僕は足を止める事になった。
ひび割れた地面に、一枚の大きな鏡が突き刺さっていた。額の無い、剥き出しの姿鏡だ。その表面には一点の曇りも無く、美しい。何もかもが壊れてしまったこの町の中で、その存在は極めて異質だった。
誰に命令されるでもなく、僕は鏡の前に立った。そうしなければならないような気がした。ぼろぼろの服を着た僕の姿が、鏡に映った。
「お前は誰だ」
――喋った。鏡に映る僕の像が、突然僕に向かって問い掛けてきたのだ。僕は口を開いてすらいないのに。
「お前は誰だ」
驚く僕の目を見ながら、鏡の中の彼は同じ問いを繰り返した。その声質は僕と全く同じ。でも以前夢で見た偽者とは違って、こいつには確かな意思がある。僕とは異なる意思を持って、僕に語り掛けている。
「僕は、僕だ」
多少の困惑を覚えながらも、僕は答えた。質問が抽象的過ぎて、これ以外に返しようがない。
「……私の訊き方がまずかったようだな。では、お前の名前を言ってみろ」
「名前だって?そんなの知ってどうするつもりだよ?」
鏡の中の僕は黙っていた。ただ、その高圧的な視線が「早くしろ」とでも言いたげに僕を見据えている。仕方無い、教えてやるか。
「僕は――」
……
…………あれ?
「ぼ、僕は……」
――おかしい。自分の名前が思い出せない。思い出そうとしても、そこだけすっぽりと記憶が抜けている。言葉に詰まって、僕は口をぱくぱくと開閉させた。
「思い出せないのではない」
こちらの思考を見透かしたかのように、鏡の中の僕が言った。
「名前が無いのだ、お前には。最初からそのようなものは無かった」
――名前が、無い?
有り得ない事だ。有り得ない事なのに、否定の言葉が出てこない。「くだらない」と一蹴する事が出来ない。
「……これは夢だ。夢だから、記憶が曖昧になってるだけだ。だって不自然じゃないか、そんなの」
言い訳じみた台詞が口をついて飛び出す。動揺を隠せない僕とは違って、鏡に映る僕は冷静だった。
「ならば思い返してみろ。お前は今までに一度でも、他者から名前で呼ばれた事があったか?確かに、人の社会に身を置いているお前が名を持たないのは不自然だ。だがお前は、今までその不自然さに疑問を持たなかった。お前だけではない、お前の周囲にいる人間は全員、その事に気付いてすらいなかった。名前の有無など意識していなかった。……ただ一人を除いて」
嫌だ。聞きたくない、知りたくない、考えたくない。
「今一度、問おう。お前は誰だ」
鏡の中にいる僕の姿がぐにゃり、と歪んだ。骨が突き出し、皮膚が硬質化し、髪が変色し、腕が、足が、目玉が増えていく。腹部が開いて臓器の一部が露出し、背中からは羽根のような器官が現れた。
見る間に彼は人の形を捨てて、異形の怪物となっていた。この世のものとは思えない、未知の生物だった。
「答エル事ガ出来マイ。オ前ハ知ラナイノダ、自分ガ何者ナノカヲ。オ前ノ世界ハ都合ノ良イ嘘デ満チテイル。オ前自身ガ、ソレヲ望ンデイル」
牙の伸びた口を動かして、彼は告げた。その声は低く掠れていて、聴く者を怯えさせるような力があった。
「今のあんたが――あんたみたいな化け物が、僕の本当の姿だっていうのか」
僕は怖くなっていた。彼の姿が、ではない。自分が本当に人間なのか、確信が持てなくなっていた。
鏡の中の僕は黙っていた。ただ、彼の幾つもある目は全て僕を見ていて、その眼差しには哀れみの感情が混ざっているように思えた。
突如、鏡に亀裂が入った。僕が驚く間も無く、それは音を立てて粉々になった。僕は独り、廃墟に取り残されてしまった。
慌てて割れた破片を一枚拾って覗き込んでみたが、そこには既に何も映っていなかった。何も、映っていなかった。
(僕は……)
「僕は、誰だ?」
手にしていた鏡の破片にぽた、と水滴が落ちる。雨が、静かに降り始めていた。
*** *** ***
冷たい雨の中、傘を差して歩く。いつものように海沿いのコースではなく、網の目状になっている細道を使っての帰宅。……雨の日の海は嫌いだ。見ていると心が荒んでいく感じがするから。だから、多少遠回りしてでも違う道を選んだ。
あの夢を見た後、僕は自分の身辺を徹底的に調べた。小学校の卒業アルバムも確認したし、保険証やらテストの名前欄やら、とにかく僕の名前が書いてある可能性のある場所を片っ端から探して回った。今さっき、学校で出席簿も確認した。信じられない事に、僕の名前は何処にも無かった。空白なのだ。後から消されたり、手を加えられた形跡も無い。初めから何も書かれていなかった。
今朝、僕は夏希に尋ねてみた。無論、僕の名前を、だ。僕の問いに対して夏希は不可解だと言わんばかりの顔つきをしていたが、僕の表情を見て何か理由があると悟ったらしい。彼女は僕の名を口にした。
「 だよ」
――口にした、筈なのだ。その瞬間だけ、僕は耳が聞こえなくなっていた。口の動きで読み取ろうとしたが、何故か目が霞んで何も見えなくなる。
そこで、今度は紙に書かせてみた。夏希がボールペンで僕の名前を綴っていく。……やはり、何も見えない。ペン先からインクが出ていない、という訳でもなさそうだが。
「病院行って、お医者さんに診てもらおうよ。兄ちゃん、どっか具合が悪いんだよ」
夏希が今にも泣きそうな顔で詰め寄ってきたので、僕は逃げ出すように学校へ向かったのだった。
その後も何人かのクラスメイト達に協力を仰いだが、結果は同じ。見えないし、聞こえない。
(どうして今まで気付かなかったんだろう)
気付く機会すら無かった、という事だろうか。僕自身、これまでに自分の名前を言ったり書いたりする機会は幾らでもあったのだ。言ったつもりでいたし、書いたつもりでいた。でも現実は違った。僕は、自分の名前を知らなかった。いや、多分『最初からそのようなものは無かった』。
驚嘆すべき事実を前にして、僕は思いの外冷静だった。ただ、虚しかった。今まで築き上げてきた自信や誇り、そういう僕を形作っていた矜持のようなものが瓦解してしまったような感じだ。
誰一人、僕を名前で呼んでくれない。それはつまり、誰も本当の僕を知らないという事ではないだろうか。僕という存在、僕という『個』は、風が吹けば掻き消えてしまうような危うさの上に成り立っている。人は言葉によってあらゆる概念、あらゆる事象を差別化・認識する。名前とは即ち、存在の証明。名を持たない僕は、路傍の塵芥に等しいといっても過言ではない。そんなの、死んでいるのと同じじゃないか。
下を向いて歩いていると、前方が妙に騒がしいのに気付いた。視線を上げると、知らない家の前に救急車が停まっていた。何気なくその横を通り過ぎようとして――立ち止まる。救急車の向かい側にゼダがいた。彼女はガードレールに腰掛けて、救急車をぼんやりと眺めていた。この雨の中を、傘も差さずにそうしていた。
近付いて声を掛けようとしたその時、僕は自分の目を疑った。ゼダは少しも濡れていなかった。髪も、肌も、服も、濡れていなかった。水に濡れない、少女。
――ああ、そうか。僕は少し前にも、これと似た光景を見た事がある。頭の中で、パズルのピースが合わさった。とはいえ、それはバラバラになっているピースの一つに過ぎない。
「ゼダ。こんな所で何やってんの」
気を取り直して呼んでやると、ゼダははっとなって僕を見た。
「……君か。こんにちは、今日も良い天気ね」
彼女は、僕の事を『君』と呼ぶ。彼女でさえ、僕の事を曖昧に認識している。
「何処がだよ。雨降ってるんですけど」
「え?……あ、本当だ。あははっ、気付かなかった」
気恥ずかしそうに笑うゼダの頭上に、僕の傘を宛がった。
「あら、別に平気よ。見ての通り、私ってば雨なんてへっちゃらなの」
ゼダは平然と言ってのける。自身の異常性を隠すのではなく、ひけらかすような物言いだった。僕は、ある程度割り切って考える事にした。そういう不可思議な人物なのだと思い込む事にした。
「だとしても、女の子を雨曝しにしておくのは気分が悪いんだよ」
「それじゃあ君が濡れちゃうじゃない」
「濡れるのは肩だけだし、別に問題無い」
「へえ。今日は随分と優しいのね」
隣に立つ僕に向かって、ゼダは小さく笑ってみせる。その笑顔にはいつものような覇気が無い。
「別に。それより、あの救急車をずっと見てたみたいだけど……あんたの知り合い?」
「いやー、そんな事は無いんだけどね。仕事で疲れたから休んでたら、たまたま居合わせちゃったのよ」
ゼダが話し終わらない内に、開け放たれた家の玄関から担架が運ばれてきた。病人か、それとも怪我人か。雨を防ぐ為に上からビニールシートが被せられていて、患者の顔は見えない。担架を運ぶ隊員二人の後ろから、中年の女性が姿を現した。家族なのだろう、車内に担ぎ込まれる人物を心配そうに見ている。
隊員達が乗り込むと、救急車はサイレンを鳴らしながらその場を走り去っていった。女性はそれを暫く見届けてから、家の中へと戻っていった。
「もう、手遅れなのに」
一部始終を見ていたゼダが、小さく呟いた。
「おい、あんまり不謹慎な事言うなよ」
僕の忠告に答える代わりに、ゼダはまじまじと僕を見つめた。
「な、何だよ」
「んー。何かさー、君ちょっと痩せたんじゃない?最初に会った頃と比べて、こう、ほっぺたがガリガリになってるような」
――それは、そうだろう。ここ数週間で、僕の体重は五キロ以上減っている。
「ゼダこそ、今日は元気無いじゃないか。いつもは鬱陶しいくらい力有り余ってる癖にさ」
「あらら、バレたか……って、鬱陶しいってどういう意味よ。このっ、このっ」
ゼダに脛をガシガシと蹴られる。どうもこうも、そのままの意味だが。
いつの間にか、通行人の一人が妙な物でも見るような目つきでこちらの様子を窺っていたのに気付く。僕が視線を返すと、目を逸らして足早に去っていった。もしかすると、彼には僕が独り言を喋っているように見えたのかもしれない。多分、きっと、そうなのだろう。今でも半信半疑だが、以前ゼダが言っていた事は本当だったらしい。僕以外の人間に、ゼダの姿は見えていない――それも、割り切って考える。
「ねえ。一つだけ、訊いてもいいかな」
唐突に、ゼダが口を開いた。
「何だよ、急に改まって」
「君はさ。どうして、人が生きようとするか分かる?どうして生に執着して、しがみ付こうとしているのか知ってる?」
「おいおい……」
これはまた、重い話題をチョイスしてくれたものだ。
呆れる僕に構わず、彼女は続けた。
「今一つ理解出来ないのよね、私には。だってさ、生き物はいつか死んじゃうんだよ?遅かれ早かれみんな死ぬの、平等にね。結果が同じなら、努力して生きる意味なんて無いじゃない。お金儲けしたって、幸せになったって、最終的には同じなのに。みんな、頑張って生きようとしている。さっき救急車で運ばれた人も、そう。君はどう思う?」
「どう思う、って言われても……分かんないよ」
生きる意味を、考えた事が無い訳じゃない。興味が無い訳でもない。しかし、今この場で言葉にして纏めるのは難しい。
「そっか……そうよね。ごめんね、変な事訊いちゃって」
「いや。今度会う時までに答えられるようにしておく」
「ん、了解。楽しみにしておくわね」
ゼダはガードレールから飛び降りると、身体を左右に振った。
「さーて。君と話してちょっと元気出たし、仕事の続きでもしますか」
「……前から気になってたんだけど、ゼダって何の仕事してんの?」
僕の素朴な問いに、ゼダはビクリと身体を震わせた。怪しい。
「え、えっと。人には言えないような仕事、かな?」
「……それって」
「あ、違う違う!別にいやらしい仕事じゃないのよ。……今、ちょっとだけ想像したでしょ?」
「してないよ」
「想像したよね?」
「してません」
「やれやれ、これだから思春期の男の子は……」
「聞けよ」
他愛の無いやり取り。この程度の些細な会話すら、今の僕にとっては安らぎだった。何だかんだ言っても、結局は楽しんでいるのだと思う。でも、それだけじゃ足りない。どうしても明確にしておかなければならない事がある。
僕は薄々感じ取っていた。自分に残された時間が僅かしかない事を知っていた。だから――思い切って、ゼダに尋ねた。
「なあ、ゼダ。その、僕も質問があるんだ。……凄く変な質問だから、分からなかったら、聞かなかった事にしてくれて構わない」
「エッチなのは駄目よ?」
「そういうんじゃないってば。茶化さないで、真面目に聞けよ」
「はいはい。それで、何?」
僕は深く深呼吸してから、尋ねた。
「ゼダは、僕が誰なのか知ってる?」
一瞬。一瞬だけ、ゼダは驚いたような表情を浮かべた。が、すぐに笑顔へと戻ると、
「ふふっ。なーに、それ?どういう意味?」
と、からかうような視線を僕に向けた。
「僕の訊き方がまずかったみたい。じゃあ、僕の名前を言ってみてよ」
「君の、名前……あー。そういえば知らなかったわ、君の名前。というか考えてみれば当然よね、今の今まで訊いた事無いもの。お姉さん大失敗。うっかりしてたわ」
彼女の応対は、僕を失望させるには充分だった。
――やっぱり、駄目か。
「ああ。あんたの言う通り、僕はあんたに名前を教えていない。……教えたくても、無理なんだよ」
気付いた時には、声が震えていた。頬が濡れていた。
僕は独りだった。この町で、この国で、この惑星で、この宇宙で、孤立していた。全ての繋がりは、仮初――おぼろげに理解していた事実が、鋭利な刃となって僕を刺し通した。心が痛い。色々な感情が、涙と共に溢れて落ちた。
ゼダの表情から笑顔が消えた。両手が伸びて――僕を抱き締めた。持っていた傘が、地面に転がった。
「……知っちゃったんだ」
今までの彼女とは違う、優しい声だった。僕は力無く頷いた。
「私はね、君に沢山隠し事してるけど……君の名前は、本当に知らないの。これだけは本当。信じて」
「うん……」
「ごめんね」
沈黙。僕達は抱き合ったまま、互いに何も話そうとしなかった。雨の冷たさとゼダの温もりが同時に伝わってきて、不思議な感覚だった。知らなかった。誰かと触れ合っているだけで、こんなにも暖かな気持ちになれるなんて。
暫くして。ゼダは短く言った。
「君は、君だよ」
「え……?」
「さっきの質問の答え。君に名前が無かったとしても、この世界が嘘で塗り固められた作り物だったとしても……そんな事で、君は消えたりしない。君は今、此処にいる。君が確かに存在しているって、私が保証するわ。君が望んでさえいれば、君は血の通った人間でいられる――人間じゃないとしても、人間だと思い込みなさい――君は、君だ。それだけは、絶対に忘れないで」
ささくれ立った心の奥底に、ゼダの言葉が染み込んでいく。雪のように、ゆっくりと溶けていく。許された、と思った。慰められた、と思った。誰にも言えずにいた苦しみを、初めて分かち合えた気がした。
無様に泣きじゃくる僕の耳元で、ゼダはそっと囁いた。
「私は、永遠に君の味方よ。……君が望む限りは、ね」