第二節
・割とグロいかも。苦手な方は注意。
・勢いだけで書いてます。誤字があったらサーセン。
毎週火曜に更新予定。経過報告はブログで。
狐火クイックブースト http://ninetailsound.blog90.fc2.com
水の中にいる。
呼吸は出来る。冷たい水を肺に取り込み、吐き出す。息苦しさは感じないし、手足も自由に動く。ただ四肢に纏わり付く独特の感触だけが、僕が水中にいるという事実を突きつけていた。
周囲は暗く、辛うじて自分の身体が見える程度。見上げてみても、水面までどのくらい距離があるのか想像もつかない。……そもそも僕は沈んでいるのか、それとも浮かんでいるのか?頭は、爪先は、一体どの方向を向いているのか?それさえも定かではない。外界の光がほとんど届かない闇の只中を、為す術もなく漂っていた。
誰からも忘れられて、見捨てられて。音の無い世界に放り出されたまま孤独な一生を終える――それが今の僕だ。それは戯言であると同時に真実でもある。この場所には僕しかいない。人間が相対的な価値観でしか万物を計れないとするなら、ここにいる僕の思想と行動、それがそのまま宇宙の総意となる。そういった状況を幸福に感じるか、それとも苦痛に感じるか。僕なら間違いなく後者だ。ここには絶対の静寂と無限の暗さしかない。じっとしていると気が狂いそうになる。僕という存在が、僕の自我が、僕を僕たらしめている一切の概念が無慈悲に磨り潰されていく。
(早くこの場所を去ろう)
泳ぐ。手で掻くようにして水を押し上げ、足を振るようにして水を漕ぐ。何処へ向かっているのか分からないまま、ちゃんと泳げているのか分からないまま、身体を動かす。
泳ぐ。進めども進めども、映る景色に変化は無い。明るさが増す訳でもなし、かといって海底が視認出来る訳でもなし。せめて目印のような物があれば現在地を特定出来るのだが。僕はどれだけの距離を、どれだけの時間を掛けて移動したのだろうか。
泳ぐ。この行動は、場合によっては無意味で無価値で無様な悪足掻きに過ぎないのかもしれない。疲労と倦怠感に襲われ、次第に動きが鈍っていく。
泳ぐ。ふと、前方に小さな明かりが灯っているのが見えた。文字通り底無しの闇を照らすにはあまりにも小さな、それでも周囲に飲まれる事無く暖かな輝きを放つ光。僕は嬉しくなって、一心不乱にその場所を目指した。例えるなら、母の胎内から外界へと飛び出そうとする赤子にでもなったような気分だ。
光の中央、核の部分には一人の人物がいた。近寄って目を凝らす。
女の子だ。歳は多分、僕と大差ないだろう。ブロンドの長髪。露出の少ない法衣のような物を身に纏っているが、サイズが合わないのか元よりそういうデザインなのか、袖や裾が随分と余っている。……いや、それよりも。それよりも僕の記憶が確かならば、僕は彼女を知っている。いつか何処かで会ったのだ。いつだったか、何処だったかも思い出せないが、その出会いが僕にとって重要な意味を持っていた事は覚えている。
女の子は眠っているように見える。それとも死んでいるのだろうか。身じろぎ一つせず、光に包まれた状態で水中に浮かんでいる。それはとても幻想的な光景で、僕は思わず魅入ってしまった。
(声を掛けたら起きるかな?)
安直にそう思って、口を開いた。が、言葉を音にして紡げない。それもその筈、ここは水の中。ごぽごぽ、と空気の泡が出ていくだけである。仕方なく、彼女を揺り起こそうと腕を伸ばして――
うじゅる、うじゅる。
――伸ばした腕の表面を一匹の生物が這っているのに気付いた。ナメクジのような、ヒルのような、ウミウシのような。粘膜質の表皮に覆われたそれは毒々しい紫色をしていて、退化した目の代わりに無数の細かい触手を伸ばし、探るようにゆっくりと蠢いている。表皮からは粘性の分泌液が染み出ているらしく、そいつが腕の上で這い回った痕跡が蛍光色として残っている。
次の瞬間には、僕は反射的にそいつを引き剥がして足下へと投げ捨てていた。考えるより先に手が動いていた。
(何だよ……今の)
遅れてやって来た不快感と恐怖に脅かされ、跳ね上がる心拍数。紫色に光るぬめりをこそぎ落としながら、辛うじて残った理性を総動員して分析を始める。だが、当然のように何も分からない。
ひた。ひた。うじゅる、うじゅる。
――今度は確かな感触があった。肌に張り付き、吸い付く感触。しかも複数。すぐさま目を動かし、除外対象の数を確認する。左肩に一、右腕に三、視認出来ないが首に推定一、左足の甲に三、四……?
増えている。明らかに増えている。僕が数えている僅かな間にも、次から次へと付着していく軟体生物。でも、一体何処から。両手で謎の生物を剥がしながら、目を凝らして闇の淵を覗いた。
答えはすぐに見つかった。周囲で闇が幾つも渦巻いているのだ。黒々とした小さな渦はやがて一つの形となり、紫の個体となって僕の身体まで泳いでくる。何匹も、何匹も、何匹も。それは禍々しさの極み。なまじ今いる場所が明るいせいで、その様子は鮮明な映像となって僕の目に映ってしまう。
今や渦の群れは完全に僕を囲んでいて、三百六十度、どの方向に逃げる事も叶わない。全身に纏わり付いてくる不気味な生物を手当たり次第に振り払っていくが、それを遥かに上回るスピードで新手が大挙して押し寄せてくる。瞬く間に、僕の身体は紫色で埋め尽くされてしまった。足の爪先から頭までに至る全ての箇所に張り付いたそれらがうねうねと動く感触に、嫌悪感で胃液が逆流しそうになる。ただ目の周りだけには隙間が出来ていて、渦巻く漆黒の向こう側で変わらず漂う少女を見る事だけは出来た。
(あの子の目を覚ませば、助かる)
どうしてそう思ったのかは自分でも分からない。分からないが、今の僕には彼女だけが一縷の希望だった。しかし、それを実現する手段は皆無。手足は重さを増し鉛のようになって、とても動けるような状態ではない。どうしたものかと考えあぐねていると――
うじゅる、うじゅる。……ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ。
激痛。皮膚と、その先にある筋繊維を食い破られる感覚に身悶える。目だけを動かして右肩を見ると――一匹だけ、僕の体内に侵入しようとしている奴がいた。肌を噛み千切り、肉を抉り、自身の身体を無理矢理潜り込ませようとしている。そして次の瞬間。
ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ……
「……っ?」
すぐには何が起こったのか理解出来なかった。身体中を這い回っていた何百、何千という数の生物達。それらが一斉に僕の身体を喰い始めたのだ。『地獄の苦しみ』という表現ですら生温い。全身のありとあらゆる部分が火で炙られるような痛みは、僕の心を易々と砕いた。
「あがっ、ああ、アアアアアアアアアアア!」
泣き叫ぶ。声にならない声が口から大量の空気となって溢れ、放出されていく。痛覚が限界値を超えて脳がショートし、でたらめな電気信号が送られる。思考停止。痙攣症状。心機能不全。生きたまま捕食される――もしくは寄生される――屈辱を感じる暇すら与えられない。怖いよ、痛いよ、痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ……
水中が赤一色に染まる。これは血だ。僕の血だ。誰か。誰か助けて。
ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ……
「アアアアアアアアア!ウアアアアアアアア!」
――殺せ。いっそ殺してくれ。殺せ殺せ、僕を殺せよさあ早く。
ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ……
ぶつん、と。頭の中で何かが千切れるような音がした。直後に五感がシャットダウンされ、僕は意識の井戸へと落ちていく。深く、深く。ああ、これで終わりだ。やっと楽になれる。やっと死――
――やっと、死ねる?
……僕は死ぬのか。こんな所で。こんな死に方を。
(そんなの、嫌だ)
不意に何かが僕の手首を掴んだ。人の手だった。見上げると、そこには先刻まで眠っていた筈の女の子がいた。
その子は無残な姿となった僕を見つめていた。それから、口を動かしてこう言った。
「もう時間が無い。夢が終わる」
水中なのに、はっきりと声が聞こえた。静かな、憂いを交えた声色だった。謎掛けのような言葉。夢。これは夢なのか?僕は彼女に尋ねようとして――そこで、手首が千切れた。
自分の身体がゆっくりと沈んでいくのが分かる。泳ぐ気力も、泳ぐ為の足も残されていない。僕と女の子の距離は遠くなり、光が離れていく。今度こそ、これでおしまい。僕は暗黒の底へと落ちていく。深く、深く。
*** *** ***
「なあ、今から何人かで飯食いに行こうと思うんだけど、お前もどうよ?」
「悪い、パス。今日は何だか身体の調子がおかしくてさ。家で大人しくしてるよ」
「馬っ鹿、そういう時こそうまいモン食って元気付けるんだろうが」
「あんたと一緒にすんなっつーの。僕は繊細なんだから。……まあそういう訳で、また次回ね」
「あいよ。ゆっくり休んどけよー」
友人からの誘いを断ってから、靴を履き替えて学校を出た。
嘘は吐いていない。体調が優れないのは事実だった。まあ、正確に言うと今日に限った話ではないのだが。
ここ一週間ほどだろうか、立て続けに夢を見るようになったのは。それだけならよくある話かもしれないが、ネックなのは見る夢全てが悪夢だという点である。内容はどれも記憶に無いのだが、どうやら相当に酷い展開らしい。何せ目が覚めた時には絶叫しているか、滝のような汗をかいているか、号泣しているかの三択なのだ。そんな状態が毎日続けば睡眠の質も悪くなるし、ちゃんと眠れなければ嫌でも体調不良になる。
夢見が悪いと、就寝行為そのものに対してもついつい消極的、且つ否定的になってしまう。そこで生まれて初めて徹夜に挑戦してみたりもしたが、翌日の殆どを棒に振る結果に終わってしまった。眠らずに生きていく事など不可能。ならば如何にして夢を見ないようにするか、その方法を模索しなければならない。しなければならないのだが。
(うあー。眠……)
とてもじゃないが、考え事など出来そうにない。むしろ頭を働かせようとすると睡魔が襲って来て、これでは本末転倒である。
夢遊病者の如き足取りで、海岸沿いの堤防をのらりくらりと歩く。吹き付けてくる潮風はまだ冷たい。この一帯に海水浴客が溢れるのは当分先になるだろう。右手側に広がる海に視線を移すと、そこには押し寄せる波と戯れるサーファー達の姿。さぞかし寒いだろうに、ご苦労な事だ。
その時だった。僕の視界に一人の女の子が映る。パーカーにナイロンパンツ、スニーカーというラフな服装。歳は、見た感じ十六前後だろう。彼女は堤防の手すりに腰掛け、足をぶらつかせながら口笛を吹いていた。風が吹いて、短く切った金髪がさらさらと揺れる。水平線を見つめるその横顔に、思わず足を止めた。眠気が一瞬で吹き飛んでしまった。見惚れてしまった……のかもしれないが、それだけではなく。何処かで。何処かで会った事があるような。
気配を察したのだろう。女の子が横目で僕を見た。目が、合う。そのままでいるとあらぬ誤解を受けかねないので、咄嗟に視線を逸らした。
「ちょっと、君。ストップ」
何食わぬ顔で背後を通り過ぎようとして――襟首を掴まれた。驚いて彼女を見上げる。改めて間近で見ると、無茶苦茶かわいい子だった。
「聞きたいんだけどさ。もしかして、私が見えてたりする?」
――何を言ってるんだ、こいつ。
「は?ああ、うん。そりゃ勿論」
「……そう。おまけに声も聞こえる、と。そうなると意思疎通は完璧ね」
僕の顔を興味深そうに眺めながら、小さく頷いてみせる少女。確かこういうのを『電波』って言うんだっけ。いや、中二病?いずれにせよ、あまり関わりたくない。
「あの、悪いけど急いでるんで――」
「場所を変えた方がいいかな。よし、行くよ」
女の子は唐突に手すりから飛び降りると、なんと僕の襟首を掴んだまま走り始めた。
「ぐええっ、待っ……、首、絞まる……!」
「さーて、どの辺がいいかな~」
聞いちゃいない。彼女はその細腕一本で僕を引き摺りながら、横断歩道を渡って通りの向かい側へと移動する。そのまま路地に入り、材木屋の裏手、人気の無い倉庫内へ堂々と不法侵入を果たした。
「はい、到着。ここなら大丈夫でしょ」
言いながら、女の子は物か何かを扱うように僕を放り投げた。見た目とは裏腹に恐ろしいまでの怪力。僕は床を転がり、横積みになった木材の山に衝突した。
「痛ってえなあ……何なんだよ、あんた!意味分かんないよ!」
理不尽も甚だしい。流石に怒る権利くらいはある筈だ。口の中に入ってしまったおが屑を吐き出しながら、僕を見下ろす女の子に向かって声を荒げた。
「それはこっちの台詞。君は一体何者なの?制服着てるし、どっかの学生みたいだけど。高校生?」
「いや……中三だよ。地元の学校に通ってる。ていうか、あんたには関係ないだろ、そんなの」
柄にもなく食って掛かってしまう。だがそれも仕方無いだろう。心身疲労した状態で横暴な振る舞いをされれば、誰だって文句の一つでも言いたくなる。
「中学三年生って事は、十四か十五か。まだ子供ね」
「……確かに子供かもしれないけど。そりゃあんただって同じだろ」
馬鹿にされた感じがしたので言い返してやる。すると、女の子は鼻で笑った。
「そう見えるかもしれないけど、私は君よりずっと年上なの。お姉さんなの」
とてもそんな風には見えないが。
「はあ。つまり、年増?」
首を傾げる。女の子はニコリと笑ってみせると、足元に転がっていた何かを僕に向かって投げつけた。耳元でドスッ、という音。見ると、顔の真横に錐が刺さっていた。血の気が引いていく。
「危……あっぶねー!マジで何考えてるんだよあんた、僕を殺す気かよっ?」
「女性に向かって年齢を問うのは自殺行為。よーく覚えておいてね」
「先に言ったのはあんただろ!それ以前に、そんな理由で死にたくないから!」
「いいじゃない、今回は死ななかったんだから。一応狙いは外してあげたんだし、感謝してよね」
女の子は悪びれず平然と言ってのける――駄目だこいつ、本気で頭おかしい。
「付き合ってられるかよ。僕はもう帰る」
おが屑まみれの全身をはたきながら立ち上がる。とんだ時間の無駄だ。
「まあまあ、そう言わずに一つだけ聞かせてよ。今日の所はそれで解散でいいから」
……一つだけも何も、さっきから色々聞いているじゃないか。しかも『今日の所は』とか言わなかったか、今。
「だったら早くしてよ。こっちだって暇じゃないんだ」
軽く睨みつけるが、女の子はそれに動じた様子もなく。少しだけ言葉を選ぶような素振りを見せてから、口を開いた。
「じゃあ、質問。君さ、最近悪い夢見たりしてない?しかも毎日」
――何も言えなかった。ただ、目を丸くして彼女を見返した。
「お。その反応は図星って事だね?ふーむ、成程」
「……どうして知ってるんだ。僕が疲れた顔してるから、当てずっぽうで言ってみたの?それとも、実は占い師だとか?」
「ん~、どっちも違うというか、合っているというか。残念だけどそこは企業秘密。まあ口で説明した所で理解出来るほど、簡単な話じゃないんだけど」
「それはただの説明下手だろ」
ドスッ。二本目。
「さてと。用も済んだし、帰るかな」
ガクガクと怯える僕を尻目に、女の子は踵を返して倉庫を出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと待てよ。さっきから勝手過ぎるだろ、あんた。人に聞くだけ聞いといて、こっちの質問はうやむやにするとか……いくらなんでも酷くないか?」
我に返り、慌てて呼び止める。すると、彼女は肩越しに僕を一瞥した。
「今はまだ君がそれを知る必要は無い、って事だよ。時が来れば自ずと理解するかもしれないし、改めて私の口から教えなきゃならないかもしれない。いずれにせよ時間は沢山あるんだもの、慌てる事はないさ」
――矛盾。矛盾を感じた。『時間は沢山ある』という、彼女の言葉に。彼女がそういう物言いをする事に。何故だろう。
「時間があるなんて、そんな保障何処にもないだろ。あんたのそういう所が自分勝手だって言ってるんだ」
所在不明の違和感を持て余しながら、なおも抗議を続ける。女の子は前髪を掻き揚げてから、溜息を一つ。
「私の名前、ゼダっていうの。君とは長い付き合いになりそうだから教えておくね。『あんた』って呼ばれるの、好きじゃないし。ちゃんと覚えておいてくれないと、三本目、眉間にドスッといっちゃうから注意するように。……じゃあまた、近い内に会いましょう」
一方的に名乗ってから――足早に倉庫を去っていってしまった。途端に場が静まり返り、嵐が通り過ぎたような、否、それこそ悪い夢でも見ていたかのような気分になる。
(ゼダ、ねえ。髪の色といい、やっぱり外国人なのかな)
そう考えれば、あの傍若無人な言動にも納得がいく。その割には流暢な喋り口だったのが若干の気掛かりではあるが。
「……僕も、帰ろう」
これ以上考えても意味が無いように思える。というより、考えたくない。厄介事は一つで充分だ。
全身に圧し掛かる疲れを意識しながら、僕もまた倉庫を後にするのだった。