第一節
・割とグロいかも。苦手な方は注意。
・勢いだけで書いてます。誤字があったらサーセン。
毎週火曜に更新予定。経過報告はブログで。
狐火クイックブースト http://ninetailsound.blog90.fc2.com
――音。これは、雨の音。
空から幾千、幾億もの水滴が降り注いで、アスファルトを打ち叩く。そう、アスファルトだ。僕は今、傘も差さずに一人立ち尽くしている。
薄く靄の掛かった、白い景色。雨煙で視界が遮られているせいで、周囲の様子は分からない。それどころか、そもそもここが何処なのかさえ、それさえも僕は知らない。「気付いたらここにいた」としか言いようがない。
ざあざあと音が響く。轟音だった。雨脚は強く、その一粒一粒が肌を抉るかのよう。雨宿りをしたいのは山々だったが、そもそも身を隠せるような物が近くにあるのだろうか。本当に何も見えないのだ。家屋も、木の一本すらも。確かなのは、足元に広がる灰色の地面だけ。
(最初から、何も無いんじゃないだろうか)
ふと、そんな幻想が頭を過ぎる。まるで世界の何処かから空間を一部だけ切り取って、そこに押し込められたような。そんな錯覚に陥る。馬鹿げている、と一笑に付したかった。が、一旦意識してしまうと段々それが真実であるかのように思えてくる。
もしかすると。この聴覚に訴え続ける雨音が、僕から正常な感覚を奪っているのかもしれない。どちらにしろ、こんな殺風景で不気味な場所に長居はしたくないな。
決心して、試しに一歩、二歩と足を動かしてみる。ぱしゃっ、ぱしゃっ、と靴底で水音が鳴る。そのまま十歩、二十歩。五十歩。百歩……
二百…………
三百………………
……何も無い。何も変わらない。湿り気を帯びた白と、無機質なグレーだけが延々と広がっている。
押し殺していた不安が、僕の中で恐怖へと変質していく。それは孤独に起因する感情なのか、不変に対する拒絶反応なのか。恥も体裁も捨てて逃げるように駆け出したい気分になったが、その行為が如何に本末転倒であるかは理解しているつもりだ。
だから、僕は考える。状況を打破出来る方法を考える。その方法とは少なくとも、今のように目的地すら不確かなまま先を急ぐ事ではない。むしろ闇雲に歩き回るのは危険かもしれない。
そう結論付けて速度を緩めた矢先。何かに躓いて、僕は転んだ。まともに受身を取る事も叶わず、身体をアスファルトへとしたたかに打ちつける。――ほら、やっぱり危険だった。
「痛っ……、何?」
呻きながら立ち上がり、振り向く。地面には僕が蹴飛ばしてしまった白い何かが無数に散らばっている。その一つを何気なく拾い上げて、思わず息を呑んだ。
骨。しかも、人骨。
僕が手にしていたのは白骨化した人間の頭蓋だった。大きさはサッカーボールと同じくらいで、思ったよりも重くない。雨に濡れて乳白色の光沢を放っている。足元に散乱する幾多の骨、その形状を注意深く調べてから、僕はこれらが複数の骸を寄せ集めた物ではなく、一人の人物の成れの果てなのだと推察した。
――どうして、こんな所に人の骨があるのだろうか。ここで誰かが死んだのか。いつ?どうやって?
先刻まで胸中に居座っていた漠然とした恐怖は鳴りを潜め、代わりに好奇心が膨らみ上がる。とはいえ決して他人の死を面白おかしく感じていた訳ではなく、ただただ関心を余所に移す事で気を紛らわせたかった。つまりは現実逃避である。
頭蓋骨を両手でくるくると回し、色々な角度から観察してみる。僕は生物学者でも考古学者でもないから、こんな風にしてみた所で有益な情報など手に入る筈もないのだが……とにかく、そうしていた。
(人の頭って、こうなってるんだ)
特に劣化した様子もなく綺麗な形をしたそれを、まじまじと眺める。掌で前頭部を撫でると、ひんやりとした感触が返ってきた。
触るな。
見るな。
――声。脳に重く響く、低い声。
はっとして、両手に掴んだままの頭蓋に視線を送る。一秒か、二秒か、それを注視する。
(今のは。まさか、こいつが……?)
頭蓋は何も語らない。当たり前だ、語る為の舌が無いのだから。そもそも死者は口を利かない。
――幻聴、か。それもこれも、この雨のせいだ。邪念を払うように軽く頭を振ってから、頭蓋を元の位置――首の骨の先端――にそっと戻した。
その時だった。少し離れた場所で、ぱしゃっ、と音がした。
身を屈めていた僕は飛び上がるように背筋を伸ばし、音の鳴った方向を見た。少し先、五メートルほど前方に誰かがいる。人だ。僕以外にも人がいる。
女の子だ。歳は多分、僕と大差ないだろう。ブロンドの長髪。露出の少ない法衣のような物を身に纏っているが、サイズが合わないのか元よりそういうデザインなのか、袖や裾が随分と余っている。……いや、それよりも。それよりも僕の目が確かならば、彼女は全く濡れていないように見える。これだけの豪雨に晒されているというのに。
顔はよく見えない。もっと傍に寄らないと表情一つ窺えやしない。そう思い、僕は彼女に近付こうとして。そこで初めて、身動きが取れなくなっている事に気付いた。
近付くな。
――声。脳に重く響く、低い声。
近付くな。
――幻聴なんかじゃ、ない。これは。
近付くな。近付くな。近付くな。近付くな。
「う、あ……っ」
両足に腕が絡み付いている。皮膚が剥げ落ち、肉が削げ落ち、骨だけとなった二本の腕が。肩から先の部分だけが、まるで意思を持ったかのように僕を拘束している。――否。こいつには間違いなく意思がある。何らかの思惑を持って、僕を止めようとしている。
悲鳴を。悲鳴を上げたい。上げたいのに、声が出ない。喉からはひゅーっ、ひゅーっ、と空気が抜けていくばかり。
「畜生、離せよ……!」
どうにかそれだけの言葉を絞り出し、必死でもがく。だが腕の締め付けは強く、簡単には抜け出せそうにない。
再び水面を踏む音が聞こえ、視線を上げる。女の子はいつの間にか僕の眼前に立っていた。ここからならはっきりと見える。その子は硝子細工のようだった。その子は今まで僕が見てきた誰よりも美しく、しかしその面影には幼さを残していた。
「あんたは誰だ」とか、「ここは何処?」とか。少し前まではその辺りを聞き出すつもりだったが、今はそんな些末事を気にしている余裕など無い。僕は両腕を伸ばして少女に縋り付こうとした。助けを求めようとした。それを見て、彼女は首を横に振る。あと一歩の距離で手は宙を掴む。救いはもたらされない。「どうして」と訴えたかったが、口が強張って思うように動かない。
喋るな。その娘に関わるな。
(うるさいっ、黙れ!)
頭蓋が僕を見ていた。眼球を失った空虚な穴の底で、小さな火が揺らめいている。生え並んだ歯の隙間からは、聞く者を震え上がらせる恐ろしい声が洩れ出ている。
身の毛のよだつような感覚に耐えながら、僕は目の前にいる少女に懇願の眼差しを向け続けた。猫の手も借りたい、という心境とは少し違う。この子なら、この子だけが、きっと僕を救済してくれる。それは祈りにも似た、敬虔な想い。それは信仰にも似た、裏付けのない妄執。
女の子の唇が動いた。小さな口をぱくぱくと開閉させて――これは、何かを僕に伝えようとしているのだろうか。声が聞こえない。耳を澄ませれば澄ませる程、雨の音だけが煩わしく飛び込んでくる。
言葉が届かないのを悟ったのだろう。女の子は口を閉ざすと、少しだけ悲しそうな表情を覗かせた。
途端に視界が赤く染まった。がくり、と身体のバランスが崩れ、地面に倒れそうになる。足元を見ると、骸骨は僕の足を離していた。というより、周囲には骨の一片すら残っていなかった。助かった……のだろうか?
訝しく思いながら顔を上げる。そこには誰もいない。女の子は消え去っていた。代わりに、血のような赤が視界を埋め尽くしていた。赤。赤、赤。赤い雨。
――違和感。色だけじゃない。まず、雨の音が少しずつ遠のいている。変わらず猛烈な勢いで降り続けているのに、だ。
それに、この匂い。どこかで嗅いだ事のある、鉄臭い感じ。
空から注ぐ雫の一滴を掌で受け止め、指で転がしてみる。ぬるり、という感触。粘質がある。
ああ。これは血液だ。
僕はその場で嘔吐した。立ち込める生臭さと、視覚を狂わせる赤。全身を覆うぬめぬめした液体。その全てが生理的に受け付けられない。逃げる場所など無い。そんなものは最初から何処にも無かった。
胃の中にある物を一通り吐き出してから、僕は空を仰いだ。血が目に入らないように、額に手を翳しながら。そして、見た。多分、絶対に見てはいけなかったのだと思う。
空を埋め尽くしていたのは雨雲ではなく、肉塊。
内臓のような器官や、それを支える筋繊維。赤、茶、ピンクのグロテスクな物体。巨大なそれ――或いはそれら――は脈動し、一分の隙間も無く上空に広がり、蠢き、ぶくぶくと膨れ上がり、せめぎ合い、不規則に増殖し、時に破裂し――その表面からは夥しい量の血を滴らせていた。あれが血の雨を降らせている元凶なのだ。
僕は言葉を失った。力が抜けて、足下に形成されていた血溜まりの上に膝を突く。冷静な思考力は、最早完全に奪われていた。むしろこんな物を見せられて、正気でいる方が難しいだろう。
放心したまま暫く眺めていると、肉の塊が妙な動きをしているのに気付いた。それまでは無軌道な膨張と収縮を繰り返していたのが、規則的なものへと切り替わったのだ。やがて、肉塊は一つの纏まった形状を成した。
顔だ。これは赤子の顔。笑っている。僕を見下ろして、無邪気な笑顔を浮かべている。
それを見た瞬間、僕は――
*** *** ***
――僕は、椅子を蹴って立ち上がっていた。
クラスメイトの視線が一斉に僕へと注がれる。数学の先生と目が合う。状況把握に三秒。言い訳を考えるのに二秒。
「……あの、すいません。お腹の調子が悪くて」
僕がそう言い終わるタイミングを見計らったかのように、ぐう、と空腹を誇示する音が教室に響く。静寂に包まれていた空気が一転、笑い声が巻き起こる。
「おいおい、保健室に行っても腹が減ったのは治してくれないぞ」
「で、ですよね~……」
苦笑いする先生と照れる僕とのやり取りに、みんな大爆笑。
「まあ、あと十分ちょっとで昼休みだ。退屈かもしれんが、もうちょい我慢してくれ」
「はい。なんていうか、マジですいません……」
顔が真っ赤になるのを感じながら、萎むように席に着く。穴があるなら飛び込みたい。
「よし、じゃあ続けるぞ。ほらお前ら静かにしろー。教科書開けー」
騒がしくなった教室を先生が鎮めに掛かる。その声を聞きながら、僕は物思いに耽っていた。
夢を見ていた。どんな夢だったかは覚えていないが、大方碌なものではなかったのだろう。その証拠に、全身が汗まみれになっている。最近疲れている気がするし、そのせいだろうか。
僕も今年で中学三年生になった。今はまだ春だから安穏と構えていられるが、もう少ししたら高校受験に向けて動き出さなくてはならない。いや、クラスの何人かは既に準備を始めている。
どの高校に行けばいいか、将来は何がしたいか。進路の事なんて考えたくもないが、近い内に嫌でも思い煩わされる事になる。そういう曖昧模糊とした不安がプレッシャーとなり、ストレスとなり、意識の外で僕に悪影響を与えているのかもしれない。だから、変な夢を見る。悩みとは無縁の生活をしていたつもりだったが、結局は僕も人の子という訳だ。
小さく溜息を吐き、気分転換の為に窓の外を眺める。これぞ、窓際席の特権。
グラウンド脇に植えられた桜の花は既に散り、早くも緑の葉を付けている。もう少し経ったら梅雨の時期だ。僕からすれば、湿度が高くて憂鬱な季節でしかない。――そんな事を考えていると、窓に水滴が一つ、二つと降りかかってきた。
「雨、か」
誰にも聞こえないくらい小さな声で、呟く。何かを思い出せそうな気がしたが、何故か僕は外の風景から目を逸らしていた。