肖像画の婚約者は、笑わない
普段はほのぼの系が多いのですが、今回は少し肌寒くなるような話を書いてみました。夜、一人で読むのはおすすめしません(笑)
自室に飾られた肖像画を、セシリア・ランドは毎朝眺める習慣があった。
婚約者、アルヴィン・ヴォルグレイブの肖像画。柔らかな金の髪、穏やかな微笑み。半年前、婚約が調った際に贈られたものだった。
(――今日は、瞳の色が違って見えますわね)
いつもは澄んだ青のはずの瞳が、今朝はどこか灰みがかって見える。光の加減だろうか。セシリアは軽く首を傾げただけで、それ以上は気にしないことにした。
「お嬢様、そろそろお茶の支度が」
侍女の声に、セシリアは肖像画から視線を外した。
*
「今日は肌寒いですね」
庭園で顔を合わせたアルヴィンは、いつものように礼儀正しく挨拶をした。だが、その口数は以前よりも明らかに少なかった。
「アルヴィン様、以前お話しくださった、湖畔での思い出のお話――」
「……ああ、あれは」
アルヴィンは一瞬、言葉に詰まった。
「あれは、確か、夏の初めの頃でしたか」
「いいえ。真冬に、凍った湖に落ちかけたと、そうおっしゃっていましたわ」
「――そうでしたね。失礼、少し疲れているようです」
微笑む口元は変わらないのに、目だけがまったく笑っていない。セシリアは、その違和感に小さな棘が刺さったような心地がした。
*
夜、自室に戻ったセシリアは、再び肖像画を見上げた。
(――やはり、変ですわ)
絵の中のアルヴィンの口角が、記憶よりもわずかに下がっているように見える。まるで、絵自体が少しずつ、何かを表現しようとしているかのように。
侍女に思い切って尋ねてみた。
「ねえ、アルヴィン様は……近頃、お加減が優れないのかしら」
「さあ……わたくしどもには、詳しいことは」
侍女は視線を逸らした。それから、独り言のように小さく呟いた。
「坊ちゃまが本当にお倒れになったのは、去年の冬でしたから……」
「――今、何と?」
「い、いえ!何でもございません。忘れてくださいませ」
侍女は慌てたように一礼し、逃げるようにその場を去った。
残されたセシリアは、去年の冬、という言葉を、頭の中で何度も繰り返した。
(去年の、冬……去年の冬に、何があったというの)
*
数日後、侯爵邸を訪ねたセシリアは、思い切って侯爵夫人に尋ねた。
「アルヴィン様は、去年の冬に、何か――」
「まあ、そんな古い話。覚えておりませんわ」
夫人の笑顔は完璧だったが、扇を持つ手が、ほんのわずかに強張っているのをセシリアは見逃さなかった。
「アルヴィン様は今、どちらに?」
「――部屋で休んでおりますの。今日は、お会いにならない方がよろしいかと」
それ以上、何を尋ねても、夫人は同じ笑顔で話をすり替え続けた。
*
その夜、セシリアは眠れないまま、再び肖像画の前に立っていた。
月明かりの下、絵の中のアルヴィンと目が合う。
いや――目が、合った、ような気がした。
瞬きするはずのない絵の中の瞳が、確かにこちらを見つめ返している。セシリアは、息を止めた。
そして、絵の中のアルヴィンの口元が、ゆっくりと、初めて、はっきりとした笑みの形に動いた。
まるで、「ようやく気づいたか」とでも言うように。
セシリアは、震える手で燭台を持ち上げ、肖像画から一歩後ずさった。
翌朝、庭園でいつものように顔を合わせたアルヴィンは、今日もやはり、笑わなかった。
セシリアは、それ以上、何も尋ねないことにした。
どちらが本物のアルヴィンなのか。
その答えを、セシリアは、まだ知らない方がいいような気がしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
説明しすぎない、余韻の残る怪談を書いてみました。真相はあえて明言していませんが、想像していただけたら嬉しいです。




