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オレンヂな日 ーあの人ー

作者: 吉江一樹
掲載日:2026/06/07

 薫は病院の集中治療室のベッドで意識を失っていた。その意識を失った心で薫は思っていた。星空の夜の次の朝は冷え込む。薫が薄く目を開けてみると、まっさらな小雪がその年初めて、キャンバスに絵を描いているようだった。空は灰色に近い様な銀色で覆われ、雲の切れ間から朝日がかすかに覗いているようだった。

 その朝日は、河面の波間に、白くちりばめられ、きらきらと鈍く輝いている。薫はあの時、そこで誰かの顔が見えたような、誰かの手に捕まれたような気がした。何時もの赤いダウンを着て、ハンチング帽をかぶった松崎に・・・。    

 でも彼は信じられない、かたくなに彼女は心を閉ざし、そして彼女は何もかもが分からなくなっていった・・・。

 

病室の古い丸い時計は止まっていた。


病室の前で立ち会っていた松崎に向かって医師が言った。

「時間がたてば意識は回復するでしょう」彼はホッとして、彼女のベットを離れ、病院を出て行った。


 そして彼女は長い時間眠っていたような気がした、とても長い時間眠っていたような気がした。いきなり心の中で幕が上がり、ベルが鳴った。何かが起こるような感覚に襲われた。  

 その日最初の真っ赤な日差しが、彼女の丸く大きな瞳に、圧倒的な強さで激しく突き刺したその時、心の中の全てが音を立てて流れ出して行く様だった。心の中の松崎の全てが流れ出していくようだった。彼女がようやく意識を取り戻した、目を覚ましたその時だった。


 目を覚ましたその時の薫には記憶がなかった。全ての記憶がなかった。自分が誰なのかも、なぜか彼女は分からなかった。

 記憶がないのだから彼女は知らなかった。当然知らないのは彼女だけ、何故なら記憶とは本人だけのもの、そこに残るべき記憶は事実として残るのだ。体調が回復し、彼女が久しぶりに会社に出た時、会社に松崎はいなかった。加藤が彼女に言った。

「やつは今回の、薫とのことを、すべて明らかにして会社を辞めた」


 薫にはその話が何の話か理解できなかったのだった。その事実が自分と何の関連があるのか理解できなかったのだった。誰もその事実に関して、彼女にそれ以上の説明はしなかった。出来なかったのだった。そしてそのまま時が過ぎて行った。


   *


 秋も行きつくところまで深まり、並木の枯葉はすっかり落ちて色を失い、遠くの山々の頂もわずかに白かった。その向こうで秋の冷たい夕風にそよぐ、白い雲に映えたオレンヂの夕陽がなだらかに揺れている。そんな景色の中に、駆け足で近づく冬の始まりを観ていた薫の心の中は孤独だった。

 

 そして薫は何となく部屋を出ると何時もの道を歩き始めた。

 

 目的などあるはずもなく、歩いているというのでもなく、昨日をただ彷徨っている様な感覚に包まれながら、心の中に何かしら贖罪の念すら覚え、薫は誰もいない路を一人で歩いていた。

 

 目的がないのだから当然することなど無く、冷たい秋風に心を曝し、一人で彼女は歩いていた。歩いていただけだから散歩だったのかもしれない。少し行った所で、枯葉が落ちて寒そうに並んでいる裸の並木を見つけ、立ちどまり、彼女は悲しげにその並木を見つめた。

 

 その時、彼女の頭上を、まるくオレンヂ色に沈みかけた陽を横切ってかあかあと鳴きながら、黒いカラスが一羽で飛んで行った。その黒いカラスを苦々し気に見上げた彼女は、何故なのか悔しそうに枯葉の積もった茶色い路面に視線を移して再び歩き始めた。

 

 交差点を超えたところで犬を引いた知らないお年寄りが、

「こんにちは」薫に向かいにこやかに頭を下げた。知らない人だったので、彼女は何も言わずに通り過ぎた。

 

 近くの公園では子供達がうつむいたまま、お互いに話すこともなく、動き回ることもなく、何かを見つめながら黙ってベンチに座っていた。黙ったままうつむいて、足元の何かを見つめてベンチに座っていた。誰も乗らない赤茶色に錆付いたブランコも、無口な秋風に吹かれ何も言わずにぶらんぶらんとただ重たく揺れていた。

 

 暮れかけたオレンヂの秋の陽は、地平線にほぼ平行に、細く長く走っていた。その落ちかけた陽の光は同じ間隔、同じ高さで建っているアパートメントの団地を弱々しく照らしだし、その影が細く長く団地の路面へと悲しげに伸びていた。それを見た薫の心の中には、アパートメントの中で暮らしている人々の愛のない生き様が、まざまざと浮かびあがってくるようだった。

 

 すると薫はこれから訪れる冬を、久しぶりに一人で過ごす自分にふと気が付き、そんな彼女の心は言われもせぬ寂寥感に満たされてきた。その寂寥感に満たされた心は、まるで鋭い冬風に曝されている様に冷たかった。

 

 そんな寂しい想いを拭おうと彼女は久し振りにちょっとお洒落をして、街中へ出かけてみることにした。着替えて部屋を出た薫は、どうせバスは遅れてくるだろうと思っていたのだが、バスが時間通りにきたので、慌ててしまった。いつも混んでいて遅れるはずのバスがなぜか空いていたのだった。部屋を出て、交差点を曲がった瞬間にバスが見え、遅れそうになった彼女は、走ってそのバスに乗り込み、街に出かけていった。

 

 街までは5分もかからなかった。いつもは立っていたが、その日は彼女は窓側の席に座った。少し憂鬱そうに肘をついてぼんやりと窓の外を眺めていたが、その眼には何も映っていなかった。彼女の心はその時、まるで色の無い森の中にある様だった。街中でも結局、目的も何もなく薫にとってまるで迷路のなかを彷徨ようだった。その迷路の中では、疲れたようすの大勢の人々が、寂しげに、みんな何かを諦め切った表情で、少し斜め下を見つめながら彼女を追い越し、すれ違い、漂っていた。  

 

 ふと顔を上げて西の空を見ると、街中ではやっぱり暮れかけたオレンヂの秋の陽がビルディングの窓に踊るようにはじけ、広く開けた街中を輝くように鮮やかに照らし出していた。今日の薫は、わざと地味に、暗く装ってみたのだが、彼女にはその暗さが美しく思っていた。それは知的な臭いの漂う、女性らしい清潔な装い、彼女には今までどうしてもたどり着けない、手に入らない美しさに思えていた。


 そんなこと思っている時、すれ違いざま、何となく眼があった、赤のダウンを着てハンチング帽をかぶった、その30代半ばの男が、なにげに彼女に微笑んだ。

 

 松崎だった。全くの偶然だった。偶然以外そこには何もなかったはずだった。

 そのまま彼は俯き、すれ違って行った。彼は仕事もなく、行くところもなく街を彷徨っていたのだ。

 

 薫は思わず振り向いた。振り向き、追い駆けた。    

 人ごみにまぎれ消えて行った彼を追いかけた。

 赤いダウンを着て、ハンチング帽をかぶった彼を探し、追い続けた。

 会いたかった。彼と会いたかった。ただそれだけだった。

 優しい微笑みに見つめられ、暖かいぬくもりを感じていたかった。


 いつまでも追い続けた。命がけで追い続けた。

 しかしその後ろ姿は人ごみに紛れて消えていった。

 でも彼女は追い続けていた・・・・・。


                          終わり

このような稚拙な文章、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。よろしければ星をいただければと思います・・・。

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