おまけ:羽鳥恭一の恋愛事情②
妹尾架南という女性は、まったくもって理解不能である。
俺の目の前で、三角座りをして眠っている彼女を見下ろして、もう何度目なのかとため息を吐き出す。
彼女はどうしてか、部屋の隅っこで眠る癖があった。それは昼寝している時のみの現象で、これが一度目ではない。もう何度目かである。
一度目は、こんなところでは風邪をひくと注意をしたのだが、適当な返事があっただけだった。
二度目は、ベッドがあるのだからあちらで寝れば良いと言ったのだが、これにも曖昧な返事があっただけだった。
そしてとうとう三度目に、どうしてそんなところで眠るのかと彼女に聞いてみた。すると彼女はキョトンとして、何を言ってるんだとでも言いたげに首を傾げる。
「だって、人の家って落ち着かないもん。隅っこはどこの家でも一緒でしょ」
あっけらかんと言われたそれは、彼女がこの家に根付いていないということに等しい発言だった。
飄々とそんなことを言って出て行く、名残惜しさもなく振り返りもしない背中をどうしてか動けないまま見送るしかできなくて、しこりが落ちたかのような胸を押さえて小首を傾げる。
(俺は今、胸が、痛いのか)
どうして今、自分は傷ついたのか。
どうして今、自分は動けなかったのか。
(……女性は難しいな……)
きっと女性の気持ちを分かっていない自分のせいなのだと、その時はそう思っていた。
*
『そうか。架南は元気か。安心したよ。いつもすまないね、羽鳥くん』
週に一度行われる、妹尾家への電話報告。決まった曜日の決まった時間に電話をするのがなんとなくの習慣になっていて、和弘氏も忙しい中にも関わらずその時間だけは必ず時間を空けてくれている。
そしてもう報告も数え切れないほどになったからなのか、電話先から聞こえてくる和弘氏の声は落ち着いていて、彼女が飛び出してきた直後の電話の時の弱いものとは真逆の穏やかさがあった。
「いいえ。私の方こそすみません、説得すべきなのでしょうが……その、タイミングがはかれなくて……」
『いいや、いいんだ。あの子が少し難しい子なのは知っているからね。元気であればいい。……本当に迷惑をかけているね。もう一年が経ったか。いい加減、振込をさせてもらえないかね』
「……私は、婚約者と同棲しているだけですので、それはいただけませんよ」
『まったくキミは、そうするためにあの子を婚約者と言ってくれているくせに……キミがこの先、本当に娘の結婚相手になってくれることを願っているよ』
私の勝手な願望だがねと、それを最後に電話が終わった。
彼女が確実に眠っている時間に電話をしている。それでも聞かれたらまずいため、いつも彼女が絶対に近づかない俺の部屋でと決めていた。
(そうか。もう一年が経ったのか……)
彼女はこの一年、何も変わった様子はない。
俺をそういった対象として見ることもなく、俺がどうして寝室まで用意したのかを聞かれることもなく。
聞かれたらすべてを答えようと思っていたのだが、拍子抜けというよりも、彼女の危機管理能力がどうなっているのかが気になるところである。
いや、さすがは箱入り娘というべきか。二年前のあの日、ぶつかったのが俺で良かったと、もう何度思ったことだろう。
安堵しつつリビングへと向かうと、冷蔵庫の前にあったその姿につい呼吸が止まりそうになってしまった。
普段この時間には起きていない彼女が居た。
聞かれてはいないだろうか――いや、聞かれた方が良いに決まっている。そうすれば、彼女が家に帰ることができるのだから。
「あ、おっはよー。恭ちゃん」
眠たそうな目をして牛乳を仰いでいる彼女はの様子は、いつもとなんら変わりない。
その様子に聞かれていないのだと察して、ホッと一つ息を吐いた。
「おはよう。よく眠れたか」
「うん。まあねー。……あれ? 仕事終わったの?」
「……まったく。今何時だと思っているんだ」
「え、何時?」
「朝の七時」
「……あー、じゃあ昨日の夕方五時くらいで時が止まってるみたい……」
なんとも無気力にそう答えた彼女は、気の抜けた様子であくびをすると、袖を握り締めて目元を擦っていた。
拾ったのが俺で良かったと思うのはこういう時である。これがそのあたりの男なら、彼女は何度危険な目にあっていたか分からない。今だって、身につけているのは肩が少しずれている大きめのパーカーにだぼっとしたスウェット――明らかに俺のものと思われるものだ――と、一部の男からしたら「誘っている」と思われかねない格好である。
「あ、これさあ着てみたら恭ちゃんのだった。ごめん」
視線に気付いたのか、自身の服装を見下ろした彼女はさして悪びれもなくポツリと言った。
――俺はいい。理性のない大人ではない。ただそれが無防備すぎるがために、他の男の前では絶対にやらないようにしてくれと思うだけである。
「いや……構わない」
「じゃあかりとく。……恭ちゃんって意外と脚長いんだね。見て、ほら」
前に出された右足は確かに、裾が余っているがために見えない。
裾が余っているのなら、なぜ折らないのだろうか。それで転んだりしたらどうするつもりなのだろう。
「折りなさい」
「えー、でも不便はないし」
「裾が汚れる」
「うーん」
「こら、逃げようとするな」
「だってめんど、ぅわ」
あからさまに逃げ出そうと歩きだす彼女を引き止めるように引っ張れば、思った通り彼女は余りに余った裾を踏んでズルリと滑る。
それに咄嗟に受け止める体勢で手を差し伸べると、意外にも従順に彼女は俺の手を掴み取った。
「お、っと……」
掴まれた手を引き寄せ、安定させるように抱き寄せた。重心が安定しない彼女は従順にも、そのまま俺に抱きついてくる。
「おお、ありがとう恭ちゃん。助かった」
「………………いや、」
柔らかな身体が押し付けられて、ぶかぶかのパーカーからは華奢な肩が覗く。図らずも、そこから見えた下着の肩紐から彼女の下着の色を知ってしまったのはまったくの不可抗力であり、不幸なことにその先を想像するには朝というにも関わらず俺の脳は覚醒しすぎていた。
「あれ、恭ちゃんタバコやめた?」
この状態で、ぎゅう、と強く近づいて俺の肩口に顔を押し付ける彼女の凶悪さに理性を奮い立たせながらも、ゆっくりとその身体を引き離す。
この娘はいったい俺をなんだと思っているのだろうか。いや、細かい事情を知らないがために俺のことを「婚約者」だなんて思っていないことは分かっているのだが、それでも「ただの男」相手にこれはあまりにも無防備すぎる。
「キミと出会った頃にやめたんだが……吸っていたのは気づいてたんだな」
「だって染み付いてたもん、匂い。鼻は良いの。ちなみに恭ちゃん、香水の匂いしてる時もあるけど……遊ぶのもほどほどにしないと、背中から刺されちゃうよ」
「………………覚えておく」
おやすみー、とぽてぽてと歩く彼女は、一度転んだにも関わらずやはり裾は折ろうとしなかった。
その様子に呆れながら、眠たげに部屋に戻る背中を見えなくなるまで見送り、頭痛でもしてきそうな頭を俯ける。
「まったく……」
意識されていないということは理解していた。彼女にとっての俺の存在は、良くて「兄」、悪くて「親」で、どう捉えても「恋人」なんてわけがない。それも分かっていたことだし、それでも良いと思っていたはずだった。
「……仕方ない……か」
痛む胸に苦笑をもらして、参ったという感情を込めて息を吐き出した。
きっともう、この腕にはどんな美女も抱けないのだろう。どんなに綺麗な女性であっても、きっと彼女と比べてしまう。そして彼女の代わりに抱いて、きっと自分に絶望するのだ。
(まったく不毛な恋だな……)
ふう、と深く長く息を吐き出して、この状態が長く続かないことを願った。
「あれがもう、一年と少し前か……」
うっすらと感じていた恋情を認めて、そういった付き合いのあった女性からは一切手を引いた。それからはどんなに寂しかろうと昂ろうと、いつだって頭の中で彼女を犯しながら右手に相手をしてもらい、「右手が恋人」なんて今まで一度も陥ったことのない現実にぶち当たった。しかしそれも仕方がない。彼女を想いながら誰かを抱くなど、そんな不誠実なことは出来そうにもなかったのだ。
俺の腕の中で眠る彼女は、よほど疲れたのか目を開ける様子もない。そもそも彼女は眠りが深いのだろう。彼女はいつだってこの家で、何もせずに寝ていることが多かった。
起きないことを理解して、もっと近くに居たいとさらに強く抱きしめる。
無防備な彼女はこれまでにも肩や脚などをおおいに露出してきたが、一糸まとわぬ姿になると、当然ながら露出など比にならないほどの色香で俺を誘惑した。俺の想像力がいかに乏しかったのかを思い知らされた瞬間である。
初めてだと語った彼女に、昨夜は随分無理をさせた。
静かに寝息を立てる二度ほど彼女に擦り寄り、もう少し眠るかと目を閉じた。
きっかけになればという気持ちを込めて、彼女に贈るはずだった指輪と俺の指輪を置いていたことが功を奏したのは、つい先日の出来事である。
初恋の相手が俺と知ってもらえて、結婚までようやく話を持っていき、妹尾家側も「歓迎する」と喜んでくれて、これであとは彼女が俺のことを……、
「…………ん?」
思わず、眠ろうと思って閉じていた目を開ける。
(……待てよ、そういえば俺はまだ彼女から「好き」と言ってもらえて……)
そもそもだ。
この結婚は彼女にとって青天の霹靂だった様子だ。いくら初恋の人が結婚相手だったとはいえ、それを彼女自身が受け入れたとはいえ、イコール「彼女は俺のことを好きだ」ということにはならない。俺が詰め寄って顔を真っ赤にしたのだって俺への好意からではなく、彼女が異性への耐性が無かったということであれば納得も出来る。
つまりなんだ。
触れて良いと受け入れられたことに浮かれた俺は、彼女の気持ちよりも先に身体を手に入れてしまったということか。
(…………でも、だが、しかし……いや……)
落ち着け落ち着けと自身をなだめようとするほど、混乱が加速する。
結婚が決まってからも、これまでと一切変わらない彼女の態度。俺に対する適度な距離と、相変わらずの引きこもり。無防備なところも以前のまま、俺のことを意識していないようなことだって平気でやってのける。
「…………ぅ……恭ちゃん?」
腕の中でもぞりと身体を揺らした彼女に驚いて、つい勢いよく身体を引き剥がしてしまった。その勢いで覚醒したのか、ぼんやりしていた彼女はぱっちりと目を開けて、不思議そうに俺を見ていた。
箱入り娘だった彼女だ。好きでもない男に身体を許す行為がどういうことか、理解していないのかもしれない。いや、そうさせてしまったのは俺だ。俺が、彼女を誘ったのだから。
「……なに? どうしたの?」
「……――いや、すまない。調子は悪くないか?」
聞くと、自分の状況を思い出したのか、彼女の頬は真っ赤に染まる。そして、俺と彼女の距離が開いて丸見えになっていた身体を隠すように、彼女はぐいっと布団を引っ張って抱き寄せていた。
「……平気」
「そうか。よかった……えっと……仕事に行ってくるよ」
「あれ? 休みって言ってなかった?」
「……篠原から電話が入ったんだ。今日は一日一緒に居たかったんだが……」
「いいよ、仕事は仕方ない。行ってらっしゃい」
言葉を背中に受けて、シャワーを浴びるため部屋を出た。
今は彼女の側に居るのではなく、熱いシャワーを浴びて落ち着きたかった。気づいてしまった現実は、思った以上に俺自身を混乱させていたらしい。
(…………最悪な事実に、行き着いたのかもしれないな……)
彼女に触れられて喜んでいる気持ちと、彼女を騙したように触れてしまった罪悪感で押しつぶされそうになりながらも、ただただ頭から熱いお湯を浴びていた。




