おまけ:改めまして
よく買い物に行く、背の高いショッピングモールが遠くに見えた。
背景は雲ひとつない綺麗な青空。上部だけ切り取って見れば、まるで空に浮いているようにさえ思えるのだろう。一度そんなくだらないことを考えてしまえば脳は現実逃避の一途を辿り始めてしまい、今日は休日だし家族連れで溢れているのだろうなあ、となればあのショッピングモールのオススメポイントである子どもの遊び場も賑わっているんだろうなあ、なんてところまで飛躍してしまった。そうして気が付けばショッピングモールは見えなくなっていて、車はいくつも高いビルが立ち並ぶ都会の森へと入り込んだ。
流れる景色が徐々に見慣れたものに変わり始めてから、さすがにじわじわと後悔が沸き上がってくる。
「ねえ恭ちゃん、やっぱり帰らない?」
窓の外へと投げていた視線を運転席へ向ければ、当然のことだがその目は私へ向くことなく、真剣な眼差しで正面を見据えていた。
私の意見なんて最初から通す気はないとでも言うように、車を止める気配は一切ない。
「なぜ?」
「だって今更じゃん。……もう二年も経ってるんだよ。私、その間ずっと連絡してないし……もうどうでもいいとか、なんで帰ってきたんだとか思われるかもじゃん。……ただでさえ理不尽に怒って出たのに……」
「キミは本当に阿呆だな。仮にご両親がキミを一切心配していないなら俺と連絡なんて取るはずないだろう。ご両親はずっと俺に熱心にキミの様子を聞いてきてたんだ。ちなみに、二年で二回訪れたキミの誕生日には、何故か俺に祝いの言葉をくれたな。あれはさすがに反応に困ったが」
その情報をあえて寄越したのは、やっぱり帰ろう、なんて思わせないよう罪悪感を生み出すためか。
ぐぬぬ、と言い返す言葉も見つからないまま飄々と運転する男の横顔を睨みつけても、憎らしいことにこの男は楽しそうに微笑むだけである。
「腹をくくれ。謝りたいんだろ?」
そう言われてしまえば、もう何も言い返すことなんて出来なかった。
――これは後に秘書の篠原さんから聞いた話なのだが、羽鳥恭一という男は寝起きがすこぶる悪いらしい。それはもう物音や揺さぶるなんてものではピクリとも動かないようで、だからこそ目覚まし時計をいくつもセットするということと、秘書さんからの鬼のモーニングコールで、毎朝なんとか起きていたようだ。もちろんそれだけでは起きない時もあり、篠原さんが垣田さんとエントランスホールのコンシェルジュ室でお茶を飲むという時も多かったという。というのを、つい昨日家にやってきた篠原さんが嬉しそうに語っていた。
『やっとまとまったんですね、ではこれからは朝のお役目を奥様にお願いできるんですね!』
あの時の笑顔は、おそらく数年は忘れないだろう。
ともあれ、それほどにひどい寝起きの恭ちゃんが、今朝は私を起こしに来た。これは信じられないことだ。だから何か用事があるのだろうと思ってはいたのだけど。
(……実家に行くぞ、なんて……)
心の準備を整える時間をもらえないまま、現在。
絶対に怒られると分かっているからこそ、帰ることが憂鬱でならない。
(人の気も知らないで……)
確かに謝りたいとは言った。いつか行かないといけない、とも。
だけどまさか言った翌日にこんなことになるなんて思うわけがない。なによりあの寝起き最悪の恭ちゃんがである。
(まあ仕方ないか……)
不安でいっぱいな心も、薬指にある指輪に触れると少しだけ気持ちが温かくなった気がした。
見える景色が家の近所になっていくにつれて、すでに何度も行ったイメトレがぐるぐるぐるぐると脳内に巡る。
まず玄関が開いてすぐに頭を下げて、誤解していたことを謝って、土下座になっても許してもらえるまでは謝って、結局恭ちゃんと結婚することに決めましたと報告をする。怒られても殴られても、甘んじて受けよう。
なんとなく手ぶらではダメな気がして、手土産も用意した。とはいえ地元の名産品であるために、両親にとっては見慣れたものである。
「着いたぞ」
「わかった、待って、あと一回だけイメトレするから」
「……静かになったと思ったらそんなことをしてたのか……」
はぁー、と、長くて深いため息が運転席から聞こえる。手際よくシートベルトを外したその運転手は、未だじっと動かない私を呆れたように見て、ありがた迷惑にも私のシートベルトまで外してしまった。
「ほら、行くぞ」
「……いや、あと一回」
「もう何回目だ。……ご両親と挨拶させてもらえないと、結婚できないんだが」
「ぐっ……」
言葉に詰まった私を横目にバタン、と車をおりたかと思うと、私の隣のドアが開いた。そこから急かすようにこちらを覗いているのは当然のごとく恭ちゃんである。
「……今のままでいいのか」
「……今のままでいいなんて思ってない。ちゃんと分かってるよ……」
よし、と一拍置いた後、ぐっと足に力を込めて、やっとのことで車からおりた。手土産の紙袋を手に持って、車内に忘れ物はないかと振り返る。普段は一切しないそんな動作をしている私に、恭ちゃんはさすがに待ちきれなくなったのか強引に腕を引っ張ってきた。
「キミのペースに合わせていたのでは日が暮れる」
「ちょ、離して! まだ心の準備、」
ずんずんと腕を引かれて大股について歩いていれば、門を通って続く父自慢の広い庭もあっという間で、三分とかからないうちに玄関にたどり着いた。
二年前、私が母の腕を振り払って飛び出した場所だ。
何一つ変わっていない。玄関のすぐ脇にあるカエルの置物も、母の趣味で溢れかえった色とりどりの綺麗な花も。
「恭ちゃん!」
勢いの止まらない男を引きとめようと声を上げたのだけど、ガラ、と引き戸を開けたのとほぼ同時だったために、声が届いたかは分からない。
何十人訪れても綺麗に靴が整頓できるであろう広い玄関は、砂や石などの汚れは一切見当たらない。それどころかきちんと靴も収納されているために、ただでさえ広い玄関がさらに広く見える。
ああ、几帳面な母らしい玄関だ。もともとあまり物を持ちたがらないためか、いつだってどの部屋も綺麗に保たれている。
そんなふうに思いを馳せたのは一瞬である。
一瞬の後、視線をあげた先に、二年ぶりに見る母が立っていた。
あの頃よりも、うんと疲れた顔をしていた。白髪も増えたのではないだろうか。二年前より随分痩せているし、いつもキラキラと笑っていたあの柔らかな表情は跡形もない。
何も言わない母に私も何も言えなくて、ただパクパクと口を動かしたのだけど、イメトレ通りに言葉がつらつらと出てこない。
(えっと……まずは、何をするんだっけ……)
そうだ。一つ一つ思い出そう。
まず私は、なによりも謝らなければならないのではなかったか。
「お、お母さん! ひどいことを言ってごめんなさい!」
思った以上に大きな声が出た。奥の部屋まで響いてしまったから、外にも聞こえたかもしれない。
だけどそんなことを気にすることもできない。
「ごめんなさい。この男が私の初恋の人だったって知らなかったの! でもひどいこと言った! 大好きなお父さんとお母さんに、私、ひどいことを言って、意味わからないこと言って、出て行って、ごめんなさい」
物音一つしない静寂に、呼吸も忘れそうになる。
もう二年も経った。しかもあんな別れ方をして、今更何しに来たんだと呆れられても仕方がない。
頭を上げるのが怖くて、腰を折った姿勢のままでそっと手土産を置いた。靴を履く場所に食べ物を置くのはマナー違反だけど、ここまでしか入れてもらえなさそうな雰囲気に、こうするしか渡す方法はない。
「……これ、二人が好きだって言ってた、お菓子……食べてね……」
絶対に泣かないと決めていたのに、言葉尻が震えてしまった。そうなればもう止まらないもので、鼻の頭がつんとしたかと思えば、見慣れたはずの足元がじわじわと滲む。
結局結婚することにしましたと、そんなことを言い出せる空気でもない。
イメトレは大失敗だ。現実はそう甘くはなかった。
(……でも、私が悪いから……)
私が悲しむのは、間違えている。
下を向いたまま鼻をすすっていると、母の足が大股に近寄ってくるのが見えた。何を言われるのだろうと無意識に身体が強張り、ぐっと一度目元を拭う。
「何を言ってるの! そんなことどうでもいいの!」
突然肩を掴まれて、視界が大きく揺らされた。
何が起きたのか。そんなことを考えている時にはすでに、力強い母の腕の中にいた。
「あんたが無事ならそれでいいの! お父さんもお母さんも、それだけでいいんだから! おかえり。二年間ずっと待ってたの。羽鳥さんから連絡はもらっていたけど、それでもずっと心配だったんだから!」
お父さんも言ってやって! と母が叫んで初めて、家に父が居たことを知る。
しかし父は出てこないまま、奥の部屋は静まるばかりである。
「もう帰ってこないと思ったんだから。二年も帰ってこないから、このままずっと家に帰ってこなくて、お母さんともお父さんとも会わないままどこかに行っちゃうんじゃないかって……! あんたは心配ばかりかけて!」
「ご……ごめん……」
だって。
あんなに、ひどいことを言ったのに。
母の腕を乱暴に振り払って、泣き縋る言葉も全部無視をして。
何一つ弁明を聞くことなく、怒りのままに家を飛び出した。
だから、
「本当に、本当の馬鹿娘がッ!」
母の肩に顔を埋めていた私の無防備な脳天に、しっかりと握りこまれた拳がゴツリと降ってきた。
その衝撃に、その言葉に、抱きしめられている状態で動き難いながらも痛む頭を押さえ、期待を込めて顔を上げる。
しわがれた低い声は聞き覚えがあって、でも私の知っている威厳のあるそれとは違って今は震えていて、私も視界がぼんやりとしていたけれど、顔を上げた先に居たのはやっぱりその人だった。
「お前が馬鹿だということは重々知っていたが、まさかここまでだったとは思わんかった! 本当に早とちりばかりを!」
「ご……めん、なさい……」
「馬鹿者が!」
「うん」
口をへの字にして溢れそうな涙を溜めている父は、それでも二年前のあの日のように情けない顔は晒したくないのか、母と私をまとめてぎゅっと抱きしめて顔を隠す。
「……ごめんなさい、お父さん、私、すごいひどいこと言った。お父さんは、最低なんかじゃないよ、ごめんなさい。私、この家の子どもでよかった。思ってもないこと言って、ごめんなさい」
言葉になって届いたのかもわからないくらいには嗚咽混じりで、だけど父も母も何度も何度も頷いてくれた。
そうしてしばらく、家族一同がわんわんと泣きながら地獄絵図みたいな光景を繰り広げたわけだけれど、最後にはみんな、この状況がおかしくなってなんとなく吹き出した。
何度も何度も謝ったけど、二人は何度も首を振って、それよりもたくさん笑ってくれた。
そして数え切れないくらいの「おかえり」をくれて、二年分だと強く抱きしめてくれた。




