最終話
「架南様、どちらに行かれるのですか?」
マンションの玄関ホールで、コンシェルジュさん――もとい垣田さんから声をかけられた。
前回はそんなことを聞かれなかったのに、今回は対応が違う。そんな些細な変化も、あの男が私の監視を強くしたためかと考えればさすがに緊張感が走る。
あの男は仕事に行った。今までと同じように、寝室の扉を叩き名前を呼ぶことで私を起こすと、「行ってくる」とだけ残して何事もなくいつもどおりに家を出た。
私には行くあてはない。それでも、今のうちに出ていかなければと思った。
あの男は昨日、四日家を開けた私に「お願いだから消えるな」というようなことを言った。携帯を持って欲しいというのも、預かっている娘に何かあってはいけないと思ってのことだろう。
断って正解だったと今にして思う。あのまま流されて携帯なんて所持していたら、ただ監視が強くなっただけである。
「架南様?」
「あ、ううん。ちょっとそこのコンビニに行くだけ」
「それでは私が行ってまいりますよ」
「いや、ほんとすぐそこだし、」
「申し訳ございません。羽鳥様より、架南様を引き止めるようにと申し付けられております。ご理解ください」
先日のことがよほど心配だったのですねと、まるで「愛妻家の旦那さんですね」とでも言っていそうなその表情から、目を逸らす。
「あ、垣田さん、私この間の静岡のお茶飲みたい」
話の転換に少し間を置いた垣田さんは、それでもすぐに笑顔を浮かべた。
「はい。それではこちらに、」
垣田さんの身体と視線が、私から外れた。
その瞬間、マンションの外へと駆け出した。
後ろから大きな声が追いかけてくる。それでも振り返ることなく走り続けた。
ずっと考えはまとまらなかった。
最初から全部仕組まれていたのだ。
私とあの男の出会いから、今に至るまで。言われたことも、出来事もすべて。何もかもが偽りで、どれもがシナリオ通りだった。
そう考えれば、ただの居候のためにしっかりと寝室を用意したことも頷ける。あんなにも良い待遇をしたのも、私の行動に一切口を挟まなかったのも、居心地を良くして出ていこうとしないよう精神的に縛り付けるためだったと考えれば、それが正解だと納得できた。
私は、お人好しで馬鹿だと思っていたあの男の仕事の利益になったのだろうか。私を口実に父と何らかの契約を交わして利益を得て、だからこそ、私の行動にも多少目を閉じて我が儘さえ許し続けてきたのだろうか。
(なにそれ……)
急に恥ずかしくなった。
あの男があまりにも私の言うことを聞くものだから、私のことを少なからずよく思ってくれていると、心のどこかで思っていた。
とんだ勘違いだ。あの男は「契約」で私の面倒を見ていたのに。
(馬鹿は私だ)
悔しくて恥ずかしくて、どこか遠くに行ってしまいたくて、行き先も分からない今やってきたばかりの電車に飛び乗った。
あの男は私を探すだろう。だけどそれは「契約」を継続させるためで、私が心配だからでも、私を良く思ってくれているからでもない。
(どうしよう……)
これから、どこに行こうか。
電車から流れる景色を見つめて、このまま知らない土地でひっそりと働くのもありなのかもしれないなと、なんとなくそんな突拍子もないことを思った。
*
八歳の頃、父の仕事の経営の都合で半年程地方で暮らしていた。
家族仲が良かったために父の単身ということにはならず、母は父を支えたいから当然と言わんばかりに、そして私を置いていくにはまだ小さくて心配だから、と言い張って結局家族で半年だけの大移動である。
父が選んだ一時的な住居は過ごしやすく、私はすぐに気に入った。ご近所さんもみんな優しくて良い人ばかりで、あの頃は行き先も決めず「冒険」と称してよく近辺を練り歩いたものだ。そうやって出歩く私を見つけては「架南ちゃんは今日も元気ね」なんて言ってくれるご近所さんとお話しするのが本当に楽しかった。
そんな楽しい毎日を過ごし、ひと月が経った頃だろうか。
公園でうなだれるようにベンチに座る女の人を見つけた。
近所に住むすごく綺麗なお姉さんだと、一番に思った。この人とだけは唯一話したことがなかった。ただ「綺麗な人が住んでいる」という認識だけはあり、話してみたいと思っていた。
だからこそ、お姉さんが一人で居る姿を見つけて、チャンスとばかりについ声をかけてしまった。
綺麗な顔をしているこのお姉さんは、いつもパンツスタイルだった。白いシャツにすらっとしたパンツを履いて、なにせぶりぶりした格好をしていなかったのはすごく印象に残っている。
「どうしたの?」
声をかければ、お姉さんは色の悪い顔を持ち上げて、力ないその瞳に私を映す。
初めて面と向かったその時には、ショートカットがすごく似合う人だな、なんてことがポッと頭に浮かんだ。
「……何でもないよ」
低い声だった。だけど、綺麗だと思えた。
「元気ない?」
「……そう、かもしれない。いや、そうかな……」
「わたしも元気ない。今日はお父さん帰ってこないから、つまんないの」
言いながらお姉さんの隣に腰掛ける。その仕草に一瞬動きを止めたお姉さんは、だけどすぐに笑ってくれた。
「キミ、二丁目に引っ越してきた妹尾さんの娘さんだよね」
「おねえさんは二件隣にいるよね? わたしも知ってるよ」
何故か訝しげな表情をしたお姉さんに、私も首を傾げる。だけどもっと話がしたくて、すぐに言葉を続けた。
「なんで元気ないの?」
「……キミにはまだちょっと難しいかなあ……」
「そんなことない! おはなしくらい聞けるもん! お仕事のこと?」
私には難しい話だからと言って、父もいつも私には仕事の話をしない。だからそうかなと思って言ってみれば正解だったのか、お姉さんは「うーん」と言葉を濁す。
「……うまくいかなくって。頑張らないといけない立場なんだけど……」
「ふぅん、難しいね」
「そうだね」
よしよし、と撫でてくれるその手が優しくて、私はすぐにお姉さんを大好きになった。
穏やかな雰囲気に、優しい言葉。それからもお姉さんは暇さえあればそこで私と遊んでくれて、気が付けば大好きという感情が「結婚をしたい」という「大好き」へとすり替わっていた。
だけど、幼いながらに分かっていた。同性をそうやって好きになることが、一般的な「普通」とは外れているのだと。だから最後まで口にすることは出来なくて、お別れの時にも「また遊ぼうね」とそれだけしか言えなかった。
あれが初恋だったと父に話したのは、私が十六の頃だった。あのお姉さん以外に好きになった女性は居ない。だから自分が女性しか好きになれないのかも分からない状態だったけれど、ある意味でカミングアウトともなったその時は、心の底から緊張したものだ。
「あの時私がよく遊んでた人居たでしょ? 実はあの人が、初恋だったりするんだけど……」
尻すぼみに声を枯らして、上目遣いに父の顔色を伺う。
だけど父はさすがと言うべきか、少しだけ驚いた顔をして、それでもすぐにめいっぱいの笑顔で私の頭を乱暴に撫でてくれた。
「そうかそうか。分かった。任せなさい」
否定されなかったことが嬉しくて、何年ぶりかに父を強く抱きしめたものだ。
(お姉さん、元気かな……)
なぜか死にそうな顔でうなだれていた綺麗な人。今、あの人に会いたいと、衝動的に思った。
行き先が決まれば早いもので、身一つで空港に来て、当日券をとって待合室でその時を待つ。
お姉さんはあの時社会人だったから、今は何歳になったのだろう。結局最後まで年齢も職業も分からないままだった。名前は一番最初に聞いた気がするけど、私が「お姉さん」としか呼ばなかったから、記憶に残ってすらいない。
会ったら、またあの時のように頭を撫でてくれるだろうか。大変だったねと眉を下げて笑って、穏やかに話を聞いてくれるだろうか。
思えばお姉さんは一度も「子どものくせに」とか「疲れてるから」とか、私を馬鹿にしたり邪険にしたりすることが一度もなかった。
「本当に、いうことを聞かない娘だな」
ピタリと、思考が止まる。
そんなはずはない、ここにこの男が居るはずが……と顔を上げて、四日家を開けた時にすら見せなかった怒りを顕にしているその男と、ばっちりと目があった。
どうしてここに、と言うが早いか、怒った男は力任せに私の腕を引いて、待合室から飛び出す。
「離して! 戻りたくない!」
明らかに無理やり連れ出されている私を、周囲が何事かと呆気にとられたように見つめていた。そんな傍観するくらいなら助け出してくれてもいいじゃないかとは思うが、日本人の特性なのか、厄介事には関わりたくないのだろう。
しかしここは譲れない。
この男は両親と「契約」をして、利益のために私を利用する男である。
「離してよ!」
黒塗りの車に押し込められる直前、ドアを開ける時に手の力が緩んだのをいいことに、やっとその手を振りほどく。
握られていたそこは、少しだけ赤くなっていた。それほどの痛みは確かにあったけれど、目にするといっそう痛みが増す。
「いい加減怒るぞ」
「もう怒ってるじゃない。……私のことは放っておいてよ」
「行きたいところがあるなら連れて行ってやる、と昨日言ったはずだが?」
「なにそれ、馬鹿みたい。そうやって監視して満足?」
ぴくりと、私を射抜く瞳で見ているその男の眉が揺れた。
まるで、怒りが蓄積されたように。
「いくら積まれたの? あんた、私の親から私のお守り頼まれてるんでしょ? もうお役御免って言ってあげてるんだよ。契約は終わり。だから戻らないし、私のことは放っておいて」
一息で言い切って、くるりと踵を返す。
しかし手首を再びがっちりと掴まれて、離れることが出来なくなった。
「ちょっと!」
「自分の立場を理解していないことは、よく分かった」
唸るような声だ。私にひたすら甘かったあの男と同一人物なのかと疑ってしまう程の、地を這うような低音だ。
「話は帰って聞く」
「嫌だってば! 戻らない! 行きたいところがあるの!」
後部座席に押し込まれそうになって必死に足を踏ん張れば、不機嫌そうな顔をした男が一瞬口を閉ざす。
睨み合うその間で、この男は自分自身にいったい何を納得させたのか。気に食わないという空気を隠しもしないまま、私の腕を引いて再び空港へと歩みだす。
「どこだ」
「……な、なに、」
「どこに行きたかったんだ。俺も行く」
「はあ!? あんたが来たってどうにもこうにもならないよ。私の初恋の人に会いにいくんだから」
言い終わると同時、男の足がピタリと止まって、しばらく振り返りもしないまま。
少しの後にやっと振り返ったその男の目尻はどこか赤く、先ほどまでの怒りはどこに行ったのかとも思えるほどには甘い色を瞳に宿していた。
「キミは本当に……どこまでも俺を惑わせるな」
「はあ?」
「行く必要はない。家に帰ろう。少し疲れた」
「いや、話聞いてたの? 私は行きたいところが、」
「別にいいだろう、初恋の男はここに居るんだ」
私の手首を掴んでいた大きな手が、するりと手の甲を伝って降りる。そうして指先に行き着くと、くすぐるようにして緩やかに指が絡まった。
「ちょ、と……離して!」
頬が熱い。不意に与えられたその熱に、先ほど「勘違い」だと称したこの男からの対応が、もしかしたら勘違いではなかったのではないかとさえ思えてくる。
しかしそんなはずはない。あの指輪を見た時から私はただの「居候」で「邪魔者」だったのだと、嫌というほど見せつけられた。
だからこの男のこんな気まぐれに振り回されるなんて、本当に無駄でしかない。
「離してってば!」
どれだけ腕を振っても離れない。それでも先ほどのような痛みは感じないから、この男は加減して器用に握っているのだろう。
「ねえ!」
「うるさい。初恋の相手なら目の前に居るだろう。何が不満だ」
「はあ!? 意味わからないこと言わないでよ。私の初恋はすごく綺麗なお姉さんだったの」
「……あの頃、キミはずっと俺のことを『お姉さん』と呼んでいたが……まさか、本気だったのか」
あの頃。そう言われて、とある公園でうなだれていた線の細いお姉さんの姿を思い出した。ショートカットがよく似合う、声の低い、シャツとパンツというシンプルな格好をいつもしていた、穏やかなお姉さんだ。
「……え、いや……」
「俺のコンプレックスを堂々と刺激してくる子どもだと思っていたんだが……まさか本当に勘違いしていたとは」
この、目の前で呆れた顔をしている、身長も私の頭一つ分は高い男が……?
いや、振り返って考えてみれば、そういえばと思うこともある。
やたらと大きくて硬い手、骨ばっていた身体、ぺったんこだった胸、そもそも女性にしては低い声。だけどあの頃の私はまだ八歳で、思い出は美化されるということもあって、違和感なんて何一つ感じたことはなかった。
「お姉さん!? え、嘘でしょ!?」
「どうして嘘をつく必要がある。……ああ、そうか、なるほど、合点がいった。俺のことを女と思っていたのなら、あの日逃げられたのもそういうわけか。……はぁ。やっとスッキリした」
女性が初恋だったのだと思っていた。けれどそれは間違いで、私はこの男に淡い初恋を抱いていたらしい。
思い込みと記憶の美化はなんとも恐ろしい。真実を知った今でさえ、記憶の中のあの人は未だに「お姉さん」である。
「俺が三十の頃、娘が俺に初恋を抱いて忘れられないそうだ、とキミの父から話をされた。俺が心に決めた相手が居ないのであれば、娘が分別がつけれるようになった時に嫁にもらってやってくれ、とも」
「ま、さか……私よりうんと歳上で社長で実家が資産家の金持ちのおじさんって恭ちゃん!?」
「おじ……はぁ……」
だから父は怒っていたのだ。私のためのお見合いというのも嘘ではない。私がカミングアウトだと思っていたあの時に言われた「任せておけ」とは、いずれ結婚出来るようにするという意味だったのだろう。
もしかして。いや、もしかしなくても、私は父から見たらわけの分からないことで怒り出したわけの分からない娘なのではないだろうか。
「だ、だからあの時……あの、二年前家を出た日、外に居たの……」
「ああ。……お見合い相手の顔を見に来たら、その相手が泣きながら突進してきたんだ。さらには『結婚したくない』だの『そんなことするくらいなら死んでやる』だのと言っているじゃないか。ずっと疑問だったんだ、妹尾さんとキミの発言が極端に食い違っていたこと。……だがやっと今納得した。キミが俺の性別を間違えていたのなら合点がいく」
では、この男はずっと――二年間という決して短くはない間ずっと、お見合い相手である私の面倒を見ていた、というだけだったということか。
やたらと私に甘い男。出会った時のいやに優しい目にも納得がいく。話を最後まで聞いてくれたのも、お見合いの結果によっては結婚することになる相手だったからだろうか。
ああ、なんて無駄な時間を過ごしたのだろう。
私のことを思ってお見合い話を持ってきてくれた父に、酷いことを言ってしまった。それを知っていたから父に賛同していた母にも、ひどく乱暴に対応してしまった。
「……う、あ、でも、恭ちゃん指輪! 指輪持ってた! 忘れてたじゃん! 私に見せつけたかったんでしょ! もう誰かと結婚したんじゃないの!?」
責め立てるように言ってみれば、さらに呆れた瞳が返ってきた。そうして小さく「見つけていたんじゃないか」と意地悪に呟くと、ネクタイを少しだけ緩めて、人差し指にチェーンを絡めてそれを引っ張り出す。
ちゃり、と揺れたチェーンの先には、一対の指輪。間違いなく、あの時見つけた指輪だ。
「これだろう」
「そ、そう。それ、婚約指輪と結婚指輪なんでしょ?」
「……キミの目は節穴か?」
それを首から外し、呆れた男は私の手をとってそこに指輪を乗せる。指で指輪の裏側をさされて促されるままに確認すれば、そこにはよく見る愛の定型文の隣に「Kyoichi to Kanami」という名前が掘られていた。
「……つ、つまり……?」
「これは、キミに渡そうと用意した指輪だよ。結局俺が二つとも身につけているがな」
この指輪を見つけてその名前が掘られていることに気づいたら何か関係が変わるのではないかと思って、なんていうのが、この男の言い分だった。
私がこの男でもそういう行動をとっていたと思う。そろそろ何か変化をもたらさなければ、きっとあのまま十年なんて時さえも過ごしていたかもしれない。
「……な、なんだ……そう、だったの……」
じゃあ、私は今まで初恋のお姉さんと知らず知らずの内から同居していて、この男は私のことを「お見合い相手」として大切にしてくれていただけで、別によそに結婚した人がいるわけでもなくて、あの指輪だって私に贈ってくれるもので――。
「とりあえず、家に帰らないか、奥さん」
低い声で言われれば、ぶわっとお腹の底から熱が湧き上がる。
改めて突きつけられたこの男との関係に、心の奥底で何かが確かに喜んだ気がした。だけどそれに目を向けるのはなんだか今更照れくさい気がしたために、深く考えないようにと何度も自分に言い聞かせた。




