75:決別
監視の目を盗んで、本堂の奥へと忍び込んだ。「入ってはいけない」と言われていた、地下へ続く扉。そこだけ、僧院の『無音』の結界とは異質な空気が漏れ出ていた。僕が森で経験した、魂を直接削るような、あの暴力的な『沈黙の石』の圧力だ。
(…ここだ)
扉は重く、わずかに開いていた。僕は息を殺し、その隙間から中を覗き見た。
そこは、僧侶たちが「救済室」と呼ぶ場所だった。
部屋の中央。そこにあったのは、祭壇じゃない。不気味に黒光りする、巨大な「沈黙の石」。
魔獣の森で集めたものよりも大きいその石なのに、あの時のような圧力を感じない。複数の僧侶がそれを取り囲み、まるで祈るように、『声』のない詠唱を捧げている。その石の前には、拷問台のようなベッドが一つ。
そして、石の前にはベッドが一つ。 そこには、僕が知らない顔の修行僧が拘束されていた。 彼はベッドの上で虚ろな目で何かを呟いていた。
(やめろ…やめてくれ…)
彼の『声』が、僕の頭に直接響いてくる。 恐怖と、諦めと、わずかな抵抗。 …初日に出会った、あの中庭の男と同じだ。 あの男も、こうやって『救済』される直前は、こんな『声』を上げていたに違いない。
指導僧が、厳かに手を振り下ろした。それを合図に、僧侶たちの詠唱が強まり、中央の沈黙の石が、低い唸り声を上げた『無』の圧力が高まった。
瞬間。ベッドの男が、甲高い悲鳴を上げた。いや、口は動いていない。彼の魂が、叫んだんだ。
《ああああああ!》
《助けて! やめろ! 消える! 消え…》
おぞましい光景だった。彼の魂から、無理やり『声』が…感情や記憶が、光の帯のように引きずり出されていく。そして、その全てが、悲鳴を上げながら、中央の黒い石に吸い込まれていった。
男の『声』は、急速に『無』になっていく。苦痛が、恐怖が、そして彼という存在そのものが、消えていく。数秒後。彼の『声』は、完全に沈黙した。ベッドの上で、彼はもう、あの『空っぽ』な人形の一つになっていた。
(……うっ)
強烈な吐き気と目眩が、僕を襲った。石が放つ、生の『無の圧力』。魂が、根こそぎ消滅する瞬間に立ち会ってしまった恐怖。僕は、よろめき、壁に背中を打ち付けてしまった。
ドン、という鈍い音。
詠唱が、止まった。『救済室』の全ての目が、一斉に僕を捉えた。指導僧が、静かに振り返る。その『空っぽ』の目が、僕を射抜いた。
「…『迷いある者』が、紛れ込んでいましたね」
次の瞬間、僕は二人の僧侶に腕を掴まれ、部屋の中に引きずり込まれていた。
「離せ! やめろ!」
抵抗しても、まるで岩を相手にしているみたいだ。『声』のない僧侶たちの力は、人間離れしていた。
「ちょうど良い。あなたも、今、救済して差し上げましょう」
指導僧の、抑揚のない声が響く。僕は、あのベッドへと引きずられていく。
(ダメだ!)
(これをやられたら、僕は、僕じゃなくなる!)
脳裏を、これまでの全てが駆け巡った。コダマとの出会い。リラやミーナの温かい『声』。森で聞いた、苦しみながらも必死で生きようとしていた、あの美しい『声』。
(あれが全部、『雑音』だって?)
(僕の、コダマとの記憶も、全部『消す』だって?)
(冗談じゃない…!)
(そんなもののために、僕は、僕は…!)
恐怖が、喉を締め上げる。『声』が叫びとなり、僕の魂から絞り出された。
「《無になんて、なってたまるか!》」
僕の全身全霊の『拒絶』だった。
その叫びに、懐のコダマが、カッと焼け付くように熱を持った。まるで、僕の『声』に応えるみたいに。
瞬間。何かが、僕とコダマから、溢れ出した。
それは、音じゃなかった。僕の喉も、コダマの体も、震えてはいない。でも、僕には聞こえた。
それは、うるさいとか、静かとか、そういうものじゃなかった。ただ、ひたすらに「自分はここにいる」と叫ぶような。「消えてたまるか」と泣き叫ぶような。僕が今、心の底から叫んでいる『声』そのものみたいだった。いや、それよりもっと…熱くて、強くて、どうしようもなく「生きてる」と訴えかけてくる、強烈な「響き」だった。
その「響き」が、この「救済室」を満たした。空気を震わせ、あの黒い沈黙の石さえも圧倒するみたいに。
そして、信じられないことが起こった。
「ぐっ…ぁああ…!」
「あ…!」
僕を掴んでいた僧侶たちが、突然、もがき苦しみだした。まるで、強烈な光を目にしたみたいにひるみ、頭を抱えて後ずさる。『声』を失っていたはずの彼らが、確かに「苦痛の声」を上げていた。
この「響き」が、彼らにとって耐えられない何かなんだ。なぜかは分からない。でも、彼らは、僕らから溢れ出したこの『声』に、苦しんでいる…!
僕を掴んでいた腕の力が、ほんの一瞬、緩む。
(…今だ!)
僕は、その隙を見逃さなかった。全ての力を込めて拘束を振りほどくと、懐でまだ熱く輝いているコダマを抱きしめる。
「ありがとう、コダマ!」
振り返らない。僕は、彼らがもがき苦しんでいる『救済室』の扉を蹴破り、全力で駆け出していた。
背後から、すぐに『空っぽ』の僧侶たちが追ってくる気配がする。でも、もう迷いはなかった。
森で魔獣に追われた時と同じだ。逃げるのにも戦うのにも躊躇はない。
(あんなものを、「救い」と呼ばせてたまるか!)
僕は全ての妨害をあっけなく躱して、僧院の外へ出た。
そして走り続けた。
僕が求めていた「静寂」は、あんな「死」じゃない。僕は、初めて「静寂」への歪んだ憧れと完全に決別し、『声』と向き合っていくことを固く決意した。
【 第一部 完 】
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
第一部はここで終了です。
この後第二部の構想もあるのですが、もしかしたら書かれないかもしれません。
というのも、うっかり「このカイが転生者だったらどんな感じになるだろう?」
と思って書き始めた小説が、筆が進んでしまったためです。
ストーリーはこの『耳を合わせて』をなぞる形で進めているのですが、カイを転生者にしたことで、結構こちらにむけてしゃべってきます。
彼が語ってくる時の文体が軽いのと、『耳を合わせて』では語られなかった部分を彼が語ってくれるので、話がわかりやすくなっています。
今はそちらの話を進めていますので、『耳を合わせて』は一旦筆を止めています。
問題は、転生者の話が『耳を合わせて』に追いついた時。つまり第一部が終わった時です。
筆者はどちらを進めたいでしょうか?
それは読者の方々の評価も関連してきますが、なんとなく転生者バージョンを進めそうな気がしています。
その場合はこちらの話がお好きな方には申し訳ありません。
もし転生者バージョンを読んで気に入ってもらうことができれば幸いです。
転生者バージョンのタイトルは
『転生特典は世界がうるさくなる耳でした』
です。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
改めて、ここまで拙書を読んで頂き、誠にありがとうございました。




