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74:救済された男

院長の部屋を出た僕は速足で回廊を歩いていた。冷たい汗が、背筋を伝う。


背中に、あの『穴』の気配を感じる。

頭に焼き付いて離れない。院長の、あの「目」だ。

感情が一切ない、空っぽの瞳。いや、違う。あれは空っぽですらない。底が知れない、冷たい、暗い『穴』だ。見つめていると、魂ごと吸い込まれて、二度と戻ってこれなくなるような…『死』そのものにつながるような、根源的な恐怖。


あれは、生きている人間のものじゃない。


(でも、どうやって?)


疑問が僕の胸に去来した。『感情を消す』なんて、そんなことが本当に可能なのか? 口で言うのは、簡単だ。


人は長い時間をかけて修練を積むと、苦しみから解放されるという話は聞いたことがある。でもそれは、苦しみに「寄り添い」、向き合った末に「乗り越える」ことのはずだ。僕がリラやミーナと出会って、少しだけ知った温かさみたいに。


ここのやり方は、根本的に何かが違う気がする。あの院長の『穴』のような目は、修練で得られる強さとは、まったく異質だ。


それに、初日に出会った修行僧。《…憎い…!》《…助けて…!》あの、結界を突き破るほどの苦悩の嵐。あんなものを、どうやって『無』にするんだ? 


(修練じゃない)

直感が、警鐘を鳴らす。


(あの院長は、何か別の…もっと直接的な方法で…)

まるで、人の心を。目に見えない刃物で、無理やり切り取るような。そんな、恐ろしいイメージが頭をよぎった。


僕は、僧院の門に向かって歩いていた。一刻も早く、ここから出ないと。ここは、僕が居ていい場所じゃない。


門が見えてきた。だが、門番の僧侶が二人、僕の前に静かに立ちふさがった。『声』は、ない。


「通してください。僕は、ここを出ていきます」

「修行中の身で、門を出ることは許されません」

抑揚のない声が、僕の言葉を遮った。


「修行はもう終わりです。院長とも話しました」

「なおさらです。あなたには『迷い』がある。院長の許しがあるまで、ここを動くことはできません」


問答無用、ということか。ふと、気づく。回廊の柱の陰から、別の指導僧が、じっと僕を見ている。あっちの渡り廊下にも。感情のない、『空っぽ』の目で。


(…まずい)

心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。

(僕はもう、『迷いある者』として…囚われている)


焦りが、恐怖に変わっていく。どうやって、ここから逃げ出す? 懐で、コダマが僕の服を強く握った。僕の恐怖が、伝わっているんだ。


監視の目をやり過ごすふりをして、僕は中庭へ足を向けた。頭を冷やさないと。何か、方法があるはずだ。


そう思って、中庭に足を踏み入れた僕は…ある光景に、足を止めた。


…あ。


中庭の隅で、一人の男が、黙々と落ち葉を掃いていた。初日に出会った、あの修行僧だ。《…憎い…!》と、苦悩の嵐を撒き散らしていた、あの。


その姿に、僕は戦慄した。


男は、穏やかな顔をしていた。いや、穏やかすぎる顔だ。口元には、かすかな笑みさえ浮かんでいる。でも、その顔は、まるで能面のようだった。生きた人間の生気が、そこにはなかった。


あれほど荒れ狂っていた男の内面の『苦悩の嵐』は、嘘のように消え去っていた。


僕は、吸い寄せられるように、男に近づいた。心臓が、うるさい。確かめないと。


「あ、あの…」

僕の声に、男はゆっくりと動きを止め、振り返った。その目もまた、院長たちと同じ…『空っぽ』だった。

「こんにちは。…ええと、具合は、どうですか。楽に、なりましたか?」


男は、僕を認識しているのかさえ分からない目で、小さく首を傾げた。それから、本当に穏やかに、微笑んだ。


「はい」


その声に、ゾッとした。言葉は、発せられている。でも、そこに感情が一切乗っていなかった。喜びも、安らぎも、悲しみも、何も。まるで、誰かが作った人形が、あらかじめ録音された音を再生しているみたいだ。


「とても、静かです」

男は続けた。

「もう、何の苦しみもありません。何の『雑音』も」


喋ってる。生きてるはずだ。でも、僕の能力が、この人の『声』をまったく拾えない。違う。『声』が、無いんだ。魂が、そこには無かった。


(…これが、『救い』か)


戦慄が、背骨を駆け上がった。僕の疑問(どうやって?)への答えが、今、目の前にあった。これは、修練の結果などではない。


(やられたんだ! あの苦しみを…感情ごと、『切除』されたんだ!)


僕は、修行僧たちの間で密かに話されていた場所を、思い出した。本堂の、一番奥。『救済室』と呼ばれる、「入ってはいけない」と言われる場所。


そこだけ、空気が違っていた。この僧院を覆う『無音の結界』とは、異質な。もっと、生々しくて、暴力的な気配。


…思い出した。あれは、森で遭遇した『沈黙の石』の圧力だ。魂を、直接削ってくる、あの不快な感覚。あの扉の奥から、かすかにそれが漏れ出していたんだ。


僕は、確信した。


(あの石は、結界のためだけじゃない…あそこだ。あそこで人の感情を切除するために、あの石を使っているんだ!)


監視の目は厳しい。門から堂々と出るのは不可能だ。このまま捕まれば、僕もあの地下室に連れて行かれ、感情を『切除』される。そうなれば、もう『僕』は終わる。


(逃げ出すには、どうすれば…?)

僕は必死に思考を巡らせる。


(あの地下室…あそこが、この僧院の心臓部だ)

(もし、あそこの沈黙の石の力を無力化できれば…?)

(監視している僧侶たちを動揺させられるかもしれない。この完璧な『無音』の結界も、破れるかもしれない!)


それは賭けだった。だが、このまま捕まるのを待つより、はるかにマシだ。

それに、もし捕まった時のために、あの場所の仕組みをこの目で見ておく必要があった。敵の武器を知らなければ、抵抗することすらできない。


(やるしかない)


僕は、監視している指導僧たちの視線からそっと身を隠し、脱出の唯一の活路を求めて、僧院で最も危険な場所である地下室へ向かうことを、決意した。


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