73:院長との問答
指導僧から突きつけられた言葉が、僕の頭の中で何度も繰り返される。
『感情を消すこと。心を無にすることです』
…冗談じゃない。僕が求めているのは、そんなものじゃない。僕は、あのうるさい『声』と『向き合う』ために来たんだ。『消す』ためなんかじゃない。
懐のコダマが、僕の不満に同調するように、カタ、と小さく震えた。「…だよな」思わず、小さな声が漏れた。
でも、僕はすぐには僧院を去らなかった。まだだ。まだ、諦めるわけにはいかない。
僕が話したのは、まだ「指導僧」の一人にすぎない。あの人の解釈が、極端なだけかもしれない。それに…この完璧な「無音」の結界を作り出すほどの場所だ。そのトップである「院長」という人なら。きっと、もっと深い哲学を…僕が知らない「向き合う」ための別の術を、知っているかもしれない。
僕には、まだ確かめないといけないことがあった。
なにより、気になることが一つ。ここに来た初日に見た、あの中庭の男。《…助けて…誰か…!》《…憎い…!》結界を突き破るほどの、あの苦痛の嵐。
もし、彼が本当にあの苦しみから救われるのなら。その方法が、僕の知らない何かだとしたら…。僕が、間違っている可能性だって、ある。
この僧院の本質を、この目で見極めるまでは。ここを動くわけにはいかない。
僕は、納得できない思いを胸の奥に押し込めたまま、修行と瞑想の日々を続けた。指導僧たちの『声』は、相変わらず空っぽだった。彼らの言葉は、まるで水面に落ちる石みたいに、何の感情も響かせずに『無』になることだけを説いていた。
…数日が、過ぎた。
僕が隠していたはずの疑念と迷い。
(…本当に、これでいいのか…?)
(…違う、何かがおかしい…)
そんな僕の内面の『声』は、この静寂の中では隠しようがなかったらしい。指導僧たちには、筒抜けだったようだ。
ついに、僕は呼び出された。僧院のトップである『院長』と、直接問答する機会が与えられた。
案内されたのは、僧院の最も奥にある、小さな部屋だった。そこは、他のどの場所よりも完璧な『無』に満ちていた。僧院の結界が『無音』だとしたら、ここは『真空』だ。音も、光も、空気さえも、すべてが吸い込まれて消えていくような。
部屋の中央に、院長が座っていた。穏やかな顔をしている。しわ深い目元は、優しそうにさえ見える。
だが、僕は息を飲んだ。『声』が、しない。指導僧たちの空っぽさとは、次元が違った。彼らが空っぽの器だとしたら、この人は『穴』だ。底が知れない。そこに居るという気配さえ、希薄だった。これが、生きている人間だとは、到底思えなかった。
「…カイ、といいましたね」
静かな声が、真空を震わせた。
「はい」
「あなたが、何に迷っているか…私には分かります」
院長の目は、僕の心を見透かしているようだった。
僕は、勇気を振り絞った。今、ここで、全部ぶつけるしかない。
「僕は、ここの教えに納得できません」
院長の眉が、かすかに動いた。
「僕は、人の『声』が聞こえすぎます。確かに、人の苦しい『声』を聞くのは、辛い。逃げ出したいと、ずっと思っていました」
「でも…旅を続けて、分かったこともあります」
「この力は、苦しいことばかりじゃない。森が病に苦しむ『声』も聞いたけど、同時に、生きようとする必死で、美しい『声』も聞いた」
「リラやミーナみたいに、誰かを想う温かい『声』も知った」
「『声』は、苦しみだけじゃない。その人が生きている、証なんです!」
一気に、言葉が溢れ出した。
「僕は、もう逃げたくない。僕は『傾聴する者』として、それら全部と向き合いたいんです」
「でも、僕はまだ未熟だ。人の強い苦しみに触れると、すぐに溺れそうになる」
「だから、ここに来たんです!」
僕は、院長をまっすぐに見据えた。
「『声』を『消す』方法じゃない。苦しい『声』からも目をそらさず、それを受け止めて、耐えられる『強さ』が欲しいんです! そのための技術を、教えを、僕は求めています!」
僕の叫びは、部屋の「無」に吸い込まれていく。何の反響も返ってこない。
長い、長い沈黙。やがて、院長は、静かに口を開いた。その声は、井戸の底から響いてくるみたいに、冷たかった。
「それこそが『迷い』です、カイ」
「え…」
「あなたは、まだ『個』という苦しみに執着している。苦しみも、喜びも、怒りも。あなたが美しいと感じた森の『声』も、温かいと感じた人の想いも」
院長は、まるで真理を説くように、淡々と続けた。
「すべては感情の『起伏』。その『起伏』こそが、人を苦しめる『雑音』そのものなのです」
「雑音…」
僕が「美しい」「温かい」と感じたものまで、全部。
「そうです。
あなたが聞いた、あの男の苦しみも。あなたが今感じている、その反発も。すべては等しく、価値のない『雑音』です。真の救済とは、その起伏から完全に解放されること。
苦しみも、喜びもない、完全な『無』の静寂に至ること。それ以外に、救いはありません」
…ダメだ。僕の、最後の期待が、音を立てて砕け散った。この人は、指導僧以上に「ズレてる」。話が、通じない。僕が『命』だと思っているものを、この人は『雑音』だと言い切った。
「…僕は」
声が、震えた。
「僕は、そんな救いを求めてここに来たんじゃありません。
『無』になるくらいなら、僕は、うるさい『声』の中で苦しむ方を選びます」
院長は、僕から目をそらした。まるで、もう興味を失ったかのように。
「…残念です。あなたには、素質があるかと思いましたが。
あなたもまた、『雑音』に溺れる一人にすぎませんでしたか」
問答は、終わった。完全に、決裂した。
ここは、僕が学ぶ場所じゃない。僕の求めているものとは正反対の場所だ。これは、生きているものを「死」へと導く、危険な毒だ。
(一刻も早く、ここから逃げ出さないと)
院長の目が、僕の背中に突き刺さる。僕は、その底知れない『穴』から逃れるように、部屋を後にした




