72:沈黙の僧院
目の前にある重い木の門を、僕は見上げていた。ここが、あのサイラスたちが『沈黙の石』を集めていた、その総本山。僕がずっと…ある意味、憧れていた場所。
懐のコダマをそっと撫でる。大丈夫。僕はもう、逃げるためにここに来たんじゃない。故郷を出た時の僕とは違う。『声』から逃げて、耳を塞いで、独りぼっちで生きていくのは、もうやめたんだ。
この、うるさすぎる力。人の、苦しい『声』。それにただ溺れて、苦しむんじゃなく。ちゃんと「向き合って」、受け止めて、「耐えられる」強さが欲しかった。この僧院なら、そのヒントが…心の持ちようが、学べるんじゃないか。僕は、そう信じてここに来たんだ。
覚悟を決めて、門をくぐる。一歩、足を踏み入れた、瞬間。
……しん、とした。
『声』が、消えた。
風のささやきも、石畳が記憶している人々の足音も、遠くで鳴いているはずの鳥の『声』も。何もかもが、ぴたりと止まった。まるで、世界から音だけが抜き取られたみたいだ。
これは…森で遭遇した、あの「沈黙の石」とは違う。あの時は、魂を直接削られるような、不快で暴力的な「圧力」があった。でも、ここは違う。圧力は、ない。不快じゃない。
ただ…「無い」んだ。何もかもが。分厚い、分厚いガラスで世界と隔てられたような、完璧な「無音」。
僕は、とっさに懐を押さえた。コダマが、僕の服の裏地を、きゅ、と掴んだ。恐怖じゃない。戸惑いだ。いつも聞こえているはずの世界の響きが何も聞こえなくて、不安がっている。
「大丈夫だよ、コダマ…」
僕自身に言い聞かせるように、呟いた。
「静か」だ。僕が望んでいた、静けさだ。でも、これは「不自然」だ。生きている世界が、こんなに静かなはずがない。感覚が、一つごっそり奪われたみたいで、ひどく落ち着かなかった。
「巡礼者の方ですね。こちらへ」
『声』のない僧侶に案内され、静まり返った石の回廊を歩く。すれ違う修行僧たちは、みな穏やかな顔をしている。彼らの内側からも、『声』は聞こえてこない。この結界が、すべてを遮断しているんだ。
(……いや)
違う。すれ違う何人かの僧侶から、かすかな「澱」のようなものを感じた。結界が抑え込んでいる、感情の残り香。完全に「無」になっているわけじゃない。みんな、この静寂の下で、何かを抱えている。
中庭に出た。そこで、一人の男とすれ違った。痩せた頬に、深い疲労の色が浮かんでいる。
(……うわっ)
僕は、思わず足を止めかけた。めまいがする。吐きそうだ。
この、完璧な「無音」の結界の中だっていうのに。彼の内側からだけ、『声』が突き破って漏れ出してくる。
《…なんでだ…》《…どうして、俺だけが…》《…足りない…あれじゃ足りない…》《…俺のせいだ…そうだ、俺が…》《…あいつが…憎い…!》《…怖い…怖い…怖い…!》《…間に合わない…もう嫌だ…!》《…消したい…消えない…!》《…助けて…誰か…》《…やめろ…!》
支離滅裂な苦痛の叫び。怒りと、恐怖と、後悔と、自己嫌悪。ぐちゃぐちゃになった感情が、悲鳴を上げて、出口を求めて嵐みたいに荒れ狂って彼を内側から引き裂こうとしている。
男が、僕の視線に気づいた。虚ろな目が、僕を捉える。
「あなたも…救いを求めて?」
弱々しい、かすれた声だった。
「……静かな場所を、探してはいます」
僕は、どうにかそれだけ答えるのが精一杯だった。
男は、何かにすがるように、かすかに笑った。
「大丈夫。ここでは、誰もが救われますから…」
男はそう呟くと、ふらふらとした足取りで歩き去った。僕は、その後ろ姿を呆然と見送った。
…救われる? あれが? あの、嵐みたいな苦しみを抱えたまま? それとも、あの苦しみ「ごと」…救われるっていうのか?
嫌な予感が、僕の背筋を冷たく這い上がった。
案内された一室で、僕は指導僧と向き合っていた。部屋には、僕と、その僧侶の二人きり。僧侶は、穏やかな、でも何も映していないような目で僕を見ている。彼の『声』は、この結界のせいか、それとも彼自身のせいか、完全に「空っぽ」だった。外からこの僧院を見たときに感じた、存在感はあるけどそこには何も無いような、おかしな感覚を覚えた。
「…あなたが、旅の方ですね」
静かな声だった。
「カイ、と申します。僕は…」
「あなたが何を求め、何に苦しんでいるかは、存じています」
僧侶は、僕の言葉を遮った。その声には、何の抑揚もなかった。
「あなたは『聞こえすぎる』。違いますか」
「……はい」
「その苦しみから、解放されたいのですね」
「解放…とは、少し違います」
僕は、必死に言葉を探した。この人に、ちゃんと伝えないといけない。この、何を考えているか分からない人に、僕の覚悟を。
「僕は、聞こえすぎるこの力が辛い。人の苦しい『声』を聞くのは、本当に苦しい…ですが…」
僕は、膝の上で拳を握りしめた。
「僕はそれを、無視したいわけじゃない。『雑音』だとも思いたくないんです。それを受け止めて、それでも平気でいられる…そういう『強さ』が欲しい。向き合う方法を知りたいんです」
沈黙が、落ちた。部屋の「無音」が、僕の言葉を吸い込んでいく。息が、詰まりそうだ。
やがて、指導僧は、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、こう言った。
「それは『雑音』です」
「え…?」
「あなたの苦しみも、他人の苦しみも、すべては心を乱す『雑音』にすぎません。真の救いとは、その『雑音』から解放されること」
指導僧は、僕の目をまっすぐに見て、続けた。その「空っぽ」の目が、僕を見ているようで見てはいない。そもそも僕の話を聞いていたのかもわからない。
「感情を『消す』こと。心を『無』にすることです」
…無に、する。
心臓が、冷たい水に浸されたみたいに、どくん、と重い音を立てた。僕が求めていたものと、何かが決定的に違っていた。『向き合う』でも、『耐える』でもない。『消す』…?
焦りが、疑念に変わって、僕の胸をじわりと焦がし始めた。あの男の、すがるようだった目が、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。




