71:霧の上に
温泉の温もりは、僕をこの場所から引き離しがたくしていた。
凍えるほどの寒さも、方向感覚を奪う霧もない、この小さな洞窟は、まるで楽園のようだった。
一晩ぐっすりと眠ったおかげで、崖下りの疲労も、霧の中で受けた無数の打撲の痛みも、だいぶ和らいでいる。
「……でも、ずっとここにいるわけには、いかないよな」
僕は、泉の縁で気持ちよさそうに湯気に当たっているコダマに話しかけた。
彼は僕の方を向くと、こくりと頷いた。
僕の旅の目的は、この谷を越えた先にある。
僕は名残惜しさを振り切るように温泉から上がると、焚き火で乾かしておいた服を急いで着込んだ。温まった体が、谷の冷気に触れて、急速に冷えていく。
準備を終え、僕は再び『道の声』に耳を澄ませた。
声は、まだ続いている。この霧の海の、さらに奥へと。
「よし、行こう、コダマ」
僕たちは、温かな休息地を後にした。
谷底の霧は、昨日と少しも変わっていなかった。一歩先も見えない乳白色の壁が、世界の全てだった。
僕は、昨日までの失敗を繰り返さないよう、より慎重に足を進めた。右手に拾った木の枝を持ち、前方の地面や障害物を探りながら、一歩、また一歩と、ゆっくり進む。
《……かつて、沈黙が歩いた……沈黙の言葉を呟いていた……》
『道の声』だけを頼りに、僕たちは霧の中を進み続けた。どれくらいの時間が経っただろうか。不意に、『道の声』の響きが変わった。これまで、僕の足元から水平に聞こえてきていた声が、少しずつ、上の方角から聞こえ始めたのだ。
(……登り坂?)
僕は、木の枝で前方の地面を探る。
確かに、道が緩やかな登りになっている。
谷の、反対側の斜面にたどり着いたんだ。
僕は、逸る気持ちを抑え、慎重に坂を登り始めた。
それは、昨日降りてきたような、切り立った崖ではなかった。両手を使ってよじ登らなければならないような急な岩場もあるが、ほとんどは自分の足で歩いて登れる、比較的緩やかな傾斜だ。
そして、登るにつれて、世界の様子が明らかに変わっていった。
あれほど濃かった霧が、少しずつ薄くなっていく。
頭上が、徐々に明るくなっていくのが分かった。
そして――。
不意に、頭上が、青に染まった。
顔を上げると、そこには突き抜けるような青空が広がっていた。
僕は、霧の海を、完全に抜け出したのだ。
振り返ると、僕の足元には、どこまでも続く乳白色の雲海が広がっている。あの冷たくまとわりついて体温を奪っていく白い霧が、今はただ、美しい絨毯のように横たわっていた。
(こうやってみると、やわらかいシーツみたいで気持ちよさそうなんだけどな…)
霧に包まれないその場所に立って、太陽の光を浴びていると、体の表面が温まってきたのを感じた。ここまで谷底から登ってきたので、体の内側はすでに温まっていたが、肌は霧で湿っていた。それが次第に乾いていくのがわかった。
まだ少し、階段状の岩壁と斜面が続いているが、もう縁が見えている。
(もうひと頑張りして、この谷を終わらせたら一休みしよう。)
僕は再び、『道の声』に従って前に進み始めた。
再び筋肉が、休みたいと叫び始めた頃、ようやく最後の一段をよじ登り、ついに谷の上へたどり着いた。
目の前には、緩やかな登り坂の高原が、遠くに壁のように広がる山々までつながっていた。山々は高く、上部には白い雪が見える。
その山々の手前に一つの巨大な建造物が、静かに聳え立っていた。灰色の石を組み上げて作られた、飾り気のない、巨大な僧院。その建物は、まるで周囲の山々の一部であるかのように、静かに、そして圧倒的な存在感を放ってそこに在った。
あれが、『沈黙の僧院』。
僕は、その建物に、意識を集中させた。聞こえてくる『声』は、何一つなかった。存在感があるはずなのにそこに意識を向けても何も無い。純粋で、研ぎ澄まされた、完全な『沈黙』。僕が、ずっと求めてきたはずの、静寂の世界。
長い旅の、終着点が、今、目の前にあった。




