70:五里霧中
霧の海の底で、寒さに震えて朝を迎えた。
焚き火はとうに消え、僕の骨身に染みるような冷気だけが、世界のすべてを支配している。視界は、昨日と変わらず、数歩先も見えない濃厚な乳白色に閉ざされていた。
「……よし、行こうか」
僕は、寒さでかじかむ手をこすり合わせ、立ち上がった。
このままじっとしていても、体力を消耗するだけだ。動かなければ。
僕は、再び『道の声』に全神経を集中させる。
幸い、声はまだ続いている。この霧の海の、さらに奥へと。
僕は、その声だけを道標に、再び一歩を踏み出した。
視界ゼロの迷宮を進むという、新たな試練の始まりだった。
《……かつて、静かな者たちが……足音も静かだった……》
声は、確かに僕を導いてくれる。
おかげで、道筋そのものから大きく外れてしまうことはない。
だが、僕の目は、その道を覆う無数の障害物を、見ることができなかった。
「うわっ!」
道の声が示す方角へ数歩進んだところで、僕は足元の何かにつまづき、派手に転んでしまった。手をついた先は、ぬかるんだ土。見えない何かに足を取られたのだ。手探りで確かめると、人の頭ほどの大きさの、苔むした石が転がっていた。
僕は、ため息をつきながら立ち上がる。こんなことが、何度も続いた。目の前にある倒木に気づかず、額をぶつける。数メートルの段差に気づかず、危うく滑り落ちそうになる。ぬかるみに足を取られ、膝まで泥に浸かる。
進む速度は、亀のように遅々としたものだった。
体中が、打撲と擦り傷だらけになっていく。
濃霧の湿気が、じわじわと体温を奪っていくのが分かった。
「……くそっ……!」
苛立ちが、口をついて出る。道は聴こえているのに、進めない。このもどかしさは、僕の精神を確実に削り取っていった。
どれくらい、そうして歩き続いただろうか。
昼も夜も分からない霧の中で、時間の感覚さえも麻痺していく。
そして、僕は気づいた。
寒さが、先ほどまでとは比べ物にならないほど、厳しくなっている。
吐く息は、すぐに真っ白な霜となって、僕の前髪を凍らせた。
指先の感覚がなくなり、足が、鉛のように重くなっていく。
これは、ただの夜の冷え込みじゃない。
昨夜、僕が口にした噂話が、脳裏をよぎる。
(……霜鳴り……)
谷全体が一瞬で凍てつくという、あの現象の前触れか。
まずい。このままでは、本当に凍え死んでしまう。
岩陰を探さなければ。火をおこさなければ。
そう思うのに、体が、言うことを聞かない。思考が、寒さで鈍っていく。
その時だった。
僕の懐で、何かが、そわそわと動き始めた。
コダマだ。
彼は、僕の外套の中から顔を出すと、僕の服をくい、くい、と必死に引っ張った。そして、道の声が示すのとは、全く違う方向を、その小さな手で指し示した。
「……コダマ……?」
どうしたんだ、と問いかける気力もなかった。
だが、彼は諦めない。僕の指を、その冷たい石の両手で握りしめ、必死に訴えかけてくる。
(……あっちへ、行け……と?)
理由は分からない。
でも、このままここにいても、待っているのは死だけだ。
僕は、最後の力を振り絞り、立ち上がった。そして、僕の小さな相棒が示す、霧の奥深くへと、引きずられるように足を進めた。
数歩、歩いたところで、僕は気づいた。
空気が、ほんの少しだけ、温かい。
そして、耳を澄ますと、微かに、水の流れるような音が聞こえる。
僕は、夢中でその方角へと向かった。
やがて、ごつごつした岩壁の奥に、湯気がもうもうと立ち上る、小さな洞窟を発見した。
中には、地中からこんこんと湧き出る、天然の温泉があった。
コダマは、地熱が発する岩石の、温かい『声』を感じ取ってくれたのだ。
「……助かった……」
僕は、震える手で濡れた外套を脱ぎ捨て、凍ったブーツをなんとか脱いだ。そして、ためらうことなく、湯気の立つ泉へと足を踏み入れる。
「……あぁ……」
骨の芯まで染み渡るような温かさが、全身を包み込んだ。じんじんと痺れていた手足の感覚が、ゆっくりと蘇ってくる。僕は、首までどっぷりと湯に浸かり、心の底から安堵のため息をついた。
泉の縁では、湯気の向こうにコダマがちょこんと座り、僕のことを見守ってくれている。
「コダマ、これが温泉ってやつなんだな。わざわざ行きたがる人がいるのも納得だよ。君もつかってみたらどうだい?」
僕のその言葉にコダマは、首をかしげ、僕と足元の湯を見比べていたが、いきなり立ち上がって湯に飛び込んだ。
僕は一瞬慌てたが、コダマは息をしなくても大丈夫だろうと思い直し、底に手を伸ばしてコダマを探した。やがていつもの感触を感じたのと同時に、その手をコダマが掴んだのがわかった。僕は手を引き寄せて、コダマを湯面まで持ち上げた。
「どうだった?」
コダマは湯に濡れた自分の腕を持ち上げてみたりしているが、気に入っているのかどうかよくわからない。いつも石や金属をを興味深く見ているような雰囲気で自分の体を見ているだけだった。
僕が底の浅い部分にコダマを置いてあげるとコダマは温泉によって変色している岩を観察したり触ったりして遊び始めた。
(そうか、君はやっぱりそういうのが好きなんだな…)
変わらないコダマを見て、僕はこの危険な場所に平穏に流れる時間を感じることができた。




