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69:崖の道

崖の縁から踏み出した最初の一歩は、僕の全神経を極限まで研ぎ澄ませた。

足裏に感じるのは、申し訳程度の岩の出っ張り。湿った霧と苔で、靴の裏がぬるりと滑る。眼下には、すべてを飲み込む乳白色の霧の海が広がっている。


「……行くぞ」


僕は小さく呟き、二歩、三歩と、崖に体を擦り付けるようにして降りていく。

これは、ただの崖下りじゃない。僕の能力を試す、新たな試練だった。

幸い、まだ谷の底までは距離があり、この高さなら霧も薄く、視界は効く。だが、どこに手をかけ、どこに足を置けば安全なのか、見た目だけでは判断がつかない。頼りになるのは、この岩肌から微かに聞こえてくる『道の声』が語る、無数の記憶の断片だけだ。


《……ここは、硬い……かつて、重い荷を背負った者の踵が、何度もここを踏みしめた……》

《……ここは、脆い……かつて、雨水が染み込み、一部が剥がれ落ちた……》


声は、僕に直接指示はしてくれない。ただ、過去の出来事を淡々と語るだけだ。僕は、その無数の声の中から、「踏まれても崩れなかった」という記憶を持つ場所を探し出し、そこだけを信じて手と足を伸ばす。

一時間ほど降りただろうか。

ゴウウウ、と。谷底から吹き上げてくる風が、急に強くなった。

体が煽られ、バランスを崩しそうになる。僕は必死に岩にしがみついた。


風の轟音が、僕の聴覚を支配する。

まずい。『道の声』が、風の音にかき消されて、聞こえづらくなっていく。


(集中しろ……もっと深く……)


僕は一度動きを止め、目を閉じた。

風の音を、ただの背景として聞き流す。僕が聞きたいのは、それじゃない。もっと古く、静かで、重い声。この岩肌が記憶している、僧侶たちの足跡。


《……ロープが、あった……その先の、金具に……》


声に導かれ、僕は手を伸ばす。指先に、冷たくて硬い金属の感触があった。錆びついた鉄の杭だ。

しかし、そこに結ばれていたはずのロープは、とうの昔に朽ち果てて、どこにもない。


ここからは、さらに危険になる。僕は、自分の外套からロープを取り出した。そして、その古い金具に、最新の注意を払いながら、結びつける。


ロープを頼りに、さらに下へ。

何度も、足元の岩が、ぱらぱらと崩れ落ちて深い霧の中へと消えていった。その度に、僕の背骨を下から上に冷たいものが走る。

そして、降下を続けるうちに、僕の体もまた、乳白色の霧の中へと飲み込まれていった。

ここからは、本当に視界が効かない。頼りになるのは、もう『道の声』だけだ。


一体、どれだけそうしていたのだろう。

手足の感覚はとうに麻痺し、思考も、ただ「次の一手」を考えることだけで精一杯になっていた。


不意に、足が何かにひっかかった。

いや、違う。

足裏に、柔らかな感触があった。

土だ。


僕は、ゆっくりと体重を移しもう一方の足も柔らかい地面に下ろした。いつの間にか、僕は谷底にたどり着いたようだ。周囲は、一寸先も見えない、濃厚な霧に包まれている。背後には霧の中に霞む岩壁があるが、しゃがんで見ると、それ以外の方向は土の地面が続いているようだった。


「……着いた……」


僕は、その場にへたり込みそうになるのを、なんとか堪えた。そして、慌てて背中の鞄を下ろす。「コダマ、大丈夫か? もう着いたぞ」鞄の中から、僕の小さな相棒がひょっこりと顔を出した。彼は僕の顔を見ると、カバンから這い出し、自分で地面に降り立った。そして、その小さな両手を上げて、「やったー!」とでも言うように、ぴょんぴょんとその場で跳ねた。その健気な姿に、僕の口元から、自然と笑みがこぼれた。


「ああ、やったんだ。僕たち、ちゃんと降りてこれたんだよ」


僕たちは二人で無事に谷底へたどり着けた喜びを分かち合った。


谷底は、崖の上よりもさらに冷たく、そして不気味なほど静かだった。

方向感覚は、完全に麻痺している。


「……このまま進むのは、無謀すぎるな」


僕は、今しがた降りてきたばかりの岩壁の元に戻ることにした。少しでも風を凌げる窪みを見つけ、今夜はここで野営する。だいぶ疲れているし、それが堅実だろう。


僕は荷物を下ろし、乾いた枝を探して小さな焚き火をおこす。湿った空気のせいで火はなかなかつかなかったが、何度か試すうちに、か細くも頼もしい炎が立ち上った。パチパチと薪がはぜる音が、この不気味な静寂の中で唯一の慰めだった。


僕は干し肉を炙りながら、膝の上に乗せたコダマに話しかけた。


「なあ、コダマ。ここが『霧降りの谷』だよ。旅人たちの間じゃ、あまり良くない噂しか聞かない場所なんだ」


コダマは、僕の指をきゅっと握る。


「『霧に呑まれた者は二度と戻らない』とか、『谷の奥には氷の魔物が棲んでいる』とか……。一番怖いのは、『霜鳴り』っていう現象の話だ。夜中に、谷全体が一瞬で凍りつくことがあるんだって。本当かどうか分からないけど、この寒さは、ただ事じゃないよな」


僕は、炎を見つめた。オレンジ色の光が、僕たちの周りの霧をわずかに照らし出している。


「でも、この谷を越えれば、沈黙の僧院はもうすぐのはずだ。魔獣の森も越えられたんだ。僕たちなら、きっと大丈夫だよな」


僕は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。コダマは、僕の言葉に応えるように、こくりと頷いた気がした。

霧の海の底、最初の夜が、静かに始まろうとしていた。


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