表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/76

68:霧降りの谷

目の前に広がる、巨大な大地の裂け目。

この生命感の希薄さは、かつて旅した嘆きの荒野を思い出させた。けれど、あそこが乾ききった完全な死の世界だったのに対し、ここには違いがあった。背後からは、僕が通り抜けてきたばかりの森のざわめきが聞こえてくる。崖下から吹き上げてくる風は、霧の湿気をたっぷりと含んで冷たい。そして、遥か眼下の霧の上を、獲物を探しているのだろうか、数羽の鳥がゆっくりと旋回しているのが見えた。

生命が皆無なわけではない。だが、この谷を支配しているのは、途方もない時間と、無機質な自然の力が作り出した、圧倒的な沈黙だった。


「さて、どうしたものかな……」


僕は呟き、崖の縁に沿って、東へと歩き始めた。まずは、斥候の基本に忠実に。降りられる場所を、自分の足で探す。だが、歩いても歩いても、景色はほとんど変わらなかった。時々縁から下を覗き込むが、垂直に切り立った崖と、底が見えない霧の海が、延々と続いている。


僕は何度も立ち止まり、目を閉じて『風の声』に耳を澄ませた。森の中ではあれほど雄弁だった風も、この谷では口を閉ざしていた。聞こえてくるのは、ただ、ゴウオウオウ、と。谷を吹き抜ける風が、巨大な岩壁にぶつかって反響する、分厚い轟音だけ。そこには、獣の気配も、草木の囁きも、何一つ含まれていない。この谷の風は集団で動く兵隊みたいで、自由気ままな話をしてくれない。


半日ほど歩き続いただろうか。焦りと、わずかな絶望が、僕の心に影を落とし始めていた。このまま道が見つからなければ、谷を避けて回り込むしかない……

(それは、たぶん何日も、下手すると何週間もかかる遠回りなんだよなあ)


諦めかけた、その時だった。

僕の耳が、微かな『声』を捉えた。

それは、風の轟音の合間を縫うようにして聞こえてくる、懐かしい響き。


(……道の、声?)


まさか、と思った。

こんな、道なんてどこにもない崖の縁から、なぜ。

僕は、声が聞こえてくる方へと、慎重に近づいていった。

そこは、他と何の哲もない、ただの崖っぷちに見えた。だが、確かに『声』が聞こえる。


《……私を黙らせる何かを背負った者たちが通った……》


《……鉄の杭が打ち込まれ、肌を裂いた……》


僕は、崖の縁ギリギリまで寄り、恐る恐る下を覗き込んだ。

そして、息を呑んだ。

一見、ただの垂直な崖にしか見えない。だが、注意深く観察すると、そこには確かに『道』の痕跡があった。

人がかろうじて足を置けるだけの、わずかな出っ張りが、斜め下へと続いている。そして、数メートル下には、錆びた鉄製の金具が、岩の裂け目に深く打ち込まれていた。そこには、ぼろぼろに朽ち果てたロープの残骸が、風に揺れている。


これだ。ここが、谷底へ降りるためのルート。そして、この道から聞こえてくる『声』の記憶。『沈黙の石』を背負った者たち……。間違いない。ここは、『沈黙の僧院』の僧侶たちが、かつて『沈黙の石』を魔獣の森へと運ぶために使った、秘密の道なんだ。


見つけた喜びも束の間、僕はその道の危険性に、ごくりと唾を飲んだ。これは、もはや道と呼べる代物じゃない。ほとんど、崖だ。一つのミスが、命取りになる。


「コダマ、カバンの中にはいっていてくれ」


僕は、肩の上の相棒を掴んでカバンの中に入れた。コダマは僕を励ますように片腕を突き上げた。


僕は、深く息を吸い、覚悟を決めた。

そして、崖の縁から、最初の一歩を踏み出す。

頼りになるのは、自分の手足と、そして、この微かに聞こえる『道の声』だけだ。

僕の新たな旅は、文字通り、崖っぷちからのスタートとなった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ