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67:旅の目的

『古き声の主』に教えられた道は、これまで僕が歩いてきたどの道とも違っていた。

物理的な道があるわけじゃない。ただ、森の『声』が、僕を優しく導いてくれるのだ。


一歩、その道筋に足を踏み入れた瞬間、僕は息を呑んだ。

聞こえてきたのは、もう個別の声ではなかった。

木々の葉擦れの音が柔らかな旋律を奏で、風の囁きがそれに寄り添う。大地から立ち上る、か細い生命の息吹が、それらすべてを支える低音のように響く。

無数の声が、一つの巨大で、穏やかな音楽になっていた。

僕の耳に流れ込んできたのは、言葉じゃない。もっと純粋な、『歓迎』と『感謝』の響きそのものだった。


「ああ……」


思わず、声が漏れた。

これまで僕が聞いてきた声は、いつも苦痛か、混沌か、さもなければ無機質な情報の羅列だった。こんなにも温かく、優しい声に包まれたのは、生まれて初めてだった。

僕は足を止め、近くの木の幹に、そっと手を触れた。涙が、頬を伝うのが分かった。

森が、僕を受け入れてくれている。


『沈黙の石』がなくなったことで、森は本来の調和を取り戻しつつあった。狂乱した魔獣たちの苦痛の叫びはもう聞こえない。代わりに、木々のざわめきや、土の息吹、そして小さな生き物たちの生命の響きが、心地よい音楽のように僕を包み込んでいた。


「すごいな、コダマ。森が、僕たちに話しかけてくれてるみたいだ」

僕が肩の上の相棒に囁きかけると、彼は僕の外套の襟をきゅっと掴んだ。


僕の胸ポケットには、シロツメがくれた、小さな白い花が挿してある。

彼との出会いは、僕にとって、何物にも代えがたい宝物になった。

モリビトという、森と共にある人々。彼らは、僕が今まで出会った誰とも違った。言葉ではなく、『声』で心を通わせ、個ではなく、全体として調和して生きる。

彼らと過ごした時間は短かったけれど、僕の世界は確実に広がった。


そして、僕自身も変わった。

『傾聴する者』。

古き声の主は、僕をそう呼んだ。

それは、ただ『声』に苦しめられるだけの存在じゃない。世界の『病』の正体を、その苦しみの本質を、誰よりも深く理解できる役割。

呪いだと思っていたこの耳が、初めて僕に、果たすべき役割を与えてくれたんだ。


もちろん、あの遺跡から聞こえてきた、巨大な悲しみの奔流を前にすれば、僕はあまりにも無力だ。でも、不思議と絶望は感じなかった。


道中、僕は手頃な岩を見つけて腰を下ろし、一息つくことにした。森が奏でる穏やかな音楽は心地よかったけれど、魔獣の森で張り詰め続けていた神経は、まだ完全には解けていない。

僕が岩に座ると、肩の上からコダマがことりと降りて、僕の膝の上に乗ってきた。


「なあ、コダマ」

僕は、その小さな石の体を撫でながら、独り言のように呟いた。

「僕、このまま『沈黙の僧院』に行って、本当にいいのかな」


旅の目的が、分からなくなってきてしまった。

僕が旅に出たのは、この耳を治したかったからだ。人の憎しみや苦しみが聞こえすぎて、苦しくて。静かな場所を求めて、あの僧院を目指した。でも、この森で、僕は初めてこの耳に『傾聴する者』としての役割を見つけた。世界の『病』の声を聴き、その原因を探る。それは、呪いなんかじゃなく、僕にしかできないことなのかもしれない。だとしたら、もう僧院に行く必要なんて、ないんじゃないか? 


「……でも、そう簡単な話じゃないんだよな」


アルメの街で見た、あの『沈黙の石』。そして、この森を狂わせていた、あの石。

どちらも、きっと沈黙の僧院と関係があるはずだ。そして、どちらも、決して良い結果を生んではいなかった。静寂を求めるあまり、生命の『声』そのものを奪ってしまうなんて、それは僕が求める安らぎとは違う。その疑念は、アルメにいた頃からずっと僕の中にあった。


それでも、と僕は思う。人の憎しみや苦しみの声が、絶え間なく聞こえてくるのは、やっぱり苦しい。このまま生きていくのは、あまりにもつらい。その気持ちは、今も変わらないんだ。

モリビトの長老は僕を『傾聴する者』と呼んでくれたけど、いつでもそんな風にいられるほど、僕は強くない。あの遺跡の巨大な悲しみの奔流を前にした時、僕は自分の精神が砕け散る寸前だった。もっと強くならなくちゃ、いつか僕は、僕が聞く『声』に飲み込まれてしまう。


「沈黙の僧院に、僕が求める答えがあるのかは分からない。そもそも、何かを学べる場所なのかさえ……。でも」

僕は、膝の上のコダマを見つめた。

「今の僕より、強くなるための手がかりが、きっとあるはずだ。この耳を消すんじゃなくて、この耳と、どう向き合っていくべきなのか。それを、知ることができるかもしれない。そう思わないか? コダマ…」


旅の目的は、変わったのかもしれない。『呪いを解く旅』から、『自分を強くする方法を探す旅』へ。


コダマは、僕の言葉に答える代わりに、僕の人差し指を、その小さな両手でぎゅっと握りしめた。ひんやりとした石の感触。でも、不思議と温かい。それで、十分だった。



森の出口は、突然訪れた。

鬱蒼と茂っていた木々が、ふっと途切れる。僕は、最後の一本の幹を抜け、その先の光景に息を呑んだ。


目の前に広がっていたのは、森ではなかった。

あまりにも巨大な、大地の裂け目。

僕が立っているのは、その断崖絶壁の縁だった。


「……ここが『霧降りの谷』……」


眼下には、向こうの縁が見えない大きな谷が、左右に広がっている。

谷底は、分厚い霧で完全に覆われていた。まるで、乳白色の巨大な川が、ゆっくりと流れているかのようだ。時折、霧が風に煽られて渦を巻き、その隙間から、針葉樹の森や、氷河に削られたかのような鋭い岩肌が、一瞬だけ姿を現しては消える。

空気がひどく冷たい。崖の縁に生える草木には、白い霜がびっしりと降りていた。


壮大で、美しくて、そして、圧倒的なスケール。


僕は、崖の縁に沿って、ゆっくりと歩き始めた。

どこかに、この谷底へと降りる道があるはずだ。古びた石段か、あるいは崖に打ち込まれた杭か。


しかし、見渡す限り、道らしきものは見当たらない。ただ、垂直に切り立った崖が、延々と続いているだけ。


「さて、どうしたものかな……」


僕は呟き、眼下に広がる霧の海を見下ろした。あの霧の向こうに、僕が目指す沈黙の僧院がある。魔獣の森という、一つの大きな試練を乗り越えた僕たちを待っていたのは、またしても、想像を絶するほど巨大で、そして困難な道のりだった。


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