65:コダマの活躍
月雫草のおかげで、僕の精神的な消耗は嘘のように晴れていた。
シロツメとのささやかな冒険は、僕に斥候としての緊張とは違う、純粋な楽しみを思い出させてくれた。友情というにはまだ早いかもしれないが、僕たちの間には確かに、温かい何かが芽生え始めていた。
(泥だらけになったのも意味があったな…)
僕たちは、古き声の主が語った『遺跡』を目指し、本格的に森の最深部へと足を踏み入れた。
道中は、これまで以上に危険に満ちていた。森の『病』は最深部に近づくほど深刻で、狂乱した魔獣たちが、昼夜を問わず縄張りの外まで彷徨い出てきている。
《――アッチだ! アッチに獲物!》
《――殺す! 喰う!》
狂った魔獣の『声』を僕が感知し、シロツメが森の知識を活かして最適な隠れ場所を見つける。僕たちは互いの能力を補い合いながら、息を殺して脅威が通り過ぎるのを待った。そんな連携を、何度も繰り返した。
そして、ついに僕たちは、その異常の中心地へとたどり着いた。
ある地点を境に、森からあらゆる『声』が、ぷっつりと途絶えたのだ。
風の囁きも、土の記憶も、木々のざわめきさえも聞こえない。
それは、かつて僕が訪れた『声なき森』と全く同じ、『声』が完全に死んだ場所だった。
安らぎではない。すべての存在が、その意味を奪われたかのような、不気味で冒涜的な静寂。
《……っ!》
隣を歩いていたシロツメが、苦しげな『声』を上げて、その場に膝をついた。
彼の琥珀色の瞳から光が失せ、苔の髪は色褪せて見える。
《カイ……森の、声が……聞こえない……穴が、空いている……》
森の一部として存在する彼にとって、この場所は存在そのものを内側から削り取られるような、耐えがたい苦痛の空間なのだろう。
僕もまた、自分の内側から生命の『声』がじわじわと吸い取られていくような、あの不快な感覚に眉をひそめた。
「シロツメ、大丈夫か!?」
僕が駆け寄ると、彼は震える指で、前方を指さした。
「あれが、穴の正体だ」
彼が指さす先、一本の木々の根元に、黒く鈍い光を放つ、石がぽつんと置かれていた。
『沈黙の石』。
以前に見たものよりも大きいが、見間違えることはない。これこそが、古き声の主が言っていた「無音の毒」の正体。
だが、僕もシロツメも、それに近づくことができない。石が放つ無音の圧力は、僕の魂を直接握りつぶすような激しい苦痛となって襲いかかってくる。
どうすればいい?
途方に暮れる僕の肩の上で、コダマがカタカタと震え、僕のマントを必死に掴んだ。
だが、その震えは恐怖だけではないようだった。彼は、僕のマントを掴みながらも、その小さな手を、ゆっくりと沈黙の石の方へと伸ばしていた。
(……そうか、コダマは……)
彼は、生き物じゃない。生命の『声』を持たない、石の人形。
だから、この無音の毒が効かないんだ。
「シロツメ、いい考えがある」
僕たちは、少し離れた場所から作戦を実行することにした。
まずは、丈夫な長いツタを見つける。
その先に、僕が予備で持っていた革袋を結びつける。
その革袋を『沈黙』のそばに投げる。
僕はコダマに向き直る。
「コダマ、お願いだ。今投げた袋に、あの黒い石を入れてきてくれないか」
僕の言葉に、コダマはこくりと頷いた。
彼は僕の肩からそろりと降りると、一歩、また一歩と、沈黙の石へと近づいていく。
その健気で、あまりにも勇敢な後ろ姿を、僕とシロツメは祈るように見守っていた。
コダマが、重そうに石を持ち上げて袋に入れた。
僕たちは、石に近づきすぎないよう慎重に蔦を掴み、袋を引きずりながら次の石がある場所へ移動する。
袋をひきずって行く途中、木の根にがくんと引っかかった。
僕たちが顔を見合わせていると、コダマがてくてくと歩み寄り、小さな体で一生懸命に袋を押して、根の向こう側へと押し出してくれた。
(コダマ、君は頼りになるな)
それは、途方もなく時間のかかる、危険な作業だった。沈黙の石は、まるで遺跡を囲む結界のように、広範囲にわたって一つずつ、点々と設置されていたからだ。
そして、五つ目の石を回収し終えた、その時だった。
「《グオオオオオオオオッッ!》」
森全体を揺るがすような、巨大な咆哮。
それは、ただの苦痛の叫びではなかった。古傷の『不調和のノイズ』と、新たな病である『沈黙の石』の毒。その二つの歪んだエネルギーが混ざり合って生まれた、純粋な混沌の塊。
木々をなぎ倒し、僕たちの前に姿を現したのは、ヨロイクマよりもさらに巨大な、全身が黒い結晶体で覆われた、異形の魔獣だった。
遺跡の番人だ。
絶体絶命だった。
僕とシロツメは、その圧倒的な存在感を前に、動くことさえできない。
番人が、僕たちが集めた沈黙の石の袋に気づき、その禍々しい爪を振り上げた。
――その、瞬間。
何の気配もなかった。
何の『声』も聴こえなかった。
ただ、一陣の風が、僕たちの横を吹き抜けた。
閃光。
次の瞬間、番人の巨大な腕が、鮮やかな軌跡を描いて宙を舞った。
「な……!?」
僕たちの前に、いつの間にか、一人の女剣士が立っていた。
腰まで届く長い黒髪を一つに束ね、機能的な黒い旅装束に身を包んでいる。その手には、月光を浴びたかのように青白く輝く、細身の長剣が握られていた。
彼女の『声』は、僕には全く聞こえなかった。いや、違う。彼女は、自分の『声』を完全に制御し、一滴たりとも外に漏らしていないのだ。
彼女は番人の反撃を紙一重でかわすと、流れるような動きでその懐に潜り込み、一閃のもとに、その巨大な体を沈黙させた。
あまりに圧倒的な光景に、僕とシロツメは、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。




