64:シロツメ
僕を案内してくれることになったモリビトと、新たな約束に従った森の歩き方を試す日々がはじまった。
隣を歩く彼は、言葉を話さない。だが、その琥珀色の瞳は好奇心に満ちていて、僕や、僕の肩にいるコダマのことを、じっと観察しているのが分かった。ただ、困ったことが一つあった。彼をどう呼べばいいのか、分からないのだ。
「あの……」
僕が呼びかけると、彼はぴたりと足を止め、不思議そうに首を傾げた。
「君の名前は?」
僕がそう尋ねると、彼は少しの間、瞬きを繰り返した後、心に直接『声』を送ってきた。
《……名前……? 》
その『声』は、純粋な疑問に満ちていた。
《我らは森。森は我ら。そこに、個を分かつ響きはない》
どうやら、彼らには個人名という文化がないらしい。森という大きな生命体の一部として、自分たちを認識しているのだろう。
でも、人間である僕にとっては、目の前にいる彼を「彼」や「君」と呼び続けるのは、どこか距離があるように感じられた。僕はこの、優しくて好奇心旺盛なモリビトと、もっとちゃんと向き合いたかった。
僕は、彼の苔でできた髪の間から、いくつも顔を覗かせている、シロツメクサによく似た小さな白い花に目をやった。
「そっか……。じゃあ、僕が君を呼ぶ時、シロツメって呼んでもいいかな? その、髪に咲いてる白い花みたいだから」
僕の提案に、彼の琥珀色の瞳が、ほんの少しだけ見開かれた。彼は自分の髪にそっと触れ、やて、かすかな肯定の『声』を返してきた。
《……シロツメ……。それが、お前の世界での、この個を指す響きか》
僕はこくりと頷いた。こうして、彼は僕にとって「シロツメ」になった。
新たな森の歩き方は、僕の神経をすり減らす作業の連続だった。
長老の教えに従い、僕は人の知識を捨て、森に満ちる無数の叫びだけを頼りに進む。
《痛イ…! アタマが、割レル…!》
《苦シイ…誰カ…助ケテ…!》
と呻くヨロイクマの苦悶。
《クルナ…ココは、ワタシの…!》
《消エロ…!》
と苛立つマガドリの縄張り意識。
僕は、その声の濁流の中から、比較的苦しみや苛立ちが薄い空間を道として選んで進むしかなかった。それは、安全な道を見つけるための唯一の方法であると同時に、僕の精神をじわじわと蝕んでいった。
三日目の朝。僕がこめかみを押さえて顔をしかめていると、隣を歩いていたシロツメが、ぴたりと足を止めた。
彼は僕の顔をじっと覗き込み、やがて、心配そうな『声』を送ってきた。
《……お前、疲れてる……頭、痛い……? 》
僕はこくりと頷いた。
すると彼は、何かを決心したように、僕の手を引いた。そして、身振り手振りと、単純な『声』のイメージで、僕に何かを伝えようとしてくる。
《キラキラ……いい匂い……飲むと……頭、すっきり……》
どうやら、僕のこの消耗を癒やすための、特別な薬草を取りに行こうと誘ってくれているらしい。
僕は、彼の優しさが素直に嬉しかった。
「ありがとう、シロツメ。行ってみるよ」
僕がそう言うと、彼は嬉しそうに頷き、僕たちを導くように森の奥へと歩き始めた。
彼が向かった先には、深い谷が口を開けていた。幅は十メートル以上あるだろう。向こう岸に渡る橋はない。
僕が途方に暮れていると、シロツメは谷の向こう岸に生える、ひときわ巨大な木に向かって、静かに『声』を送った。
それは、命令ではない。まるで、古い友人に頼み事をするような、穏やかで、敬意に満ちた『声』だった。
すると、信じられないことが起きた。
巨木が、まるで生き物のようにその枝をしならせ、太いツタを何本もこちら岸へと伸ばしてきたのだ。蔦は絡み合い、あっという間に、頑丈な吊り橋を作り上げてしまった。
僕は、モリビトと森との深い絆を目の当たりにして、ただただ驚嘆するしかなかった。
(すごい! …僕も、『声』を聴くだけじゃなく送ることができれば、こんなことができるようになるんだろうか?)
谷を渡り、さらに進むと、今度は入り組んだ洞窟の入り口にたどり着いた。
シロツメが指し示す薬草は、この中にあるらしい。
しかし、洞窟の中は迷路のようになっていて、今度はシロツメが道を見失ってしまった。
(こういう時こそ、僕の耳の出番だ)
「大丈夫。僕に任せて」
僕は分岐に来るたびに足元から聴こえる『道の声』に、耳を合わせた。
《……迷った人の足音……立ち止まり、足踏み……》
《……小さな4つ足の走る音……》
《……迷いのない2つ足……》
僕は、自信を持った歩みの記憶を頼りに、シロツメの手を引いて洞窟の奥へと進む。
やがて、僕たちは開けた空間へとたどり着いた。
(ここで、正解か? …)
天井の岩の隙間から月の光が差し込み、その光を浴びて、青白い光を放つ可憐な草が一面に群生していた。
《キラキラ……》と、シロツメが嬉しそうな『声』を発する。
あれが、キラキラの薬草か。
僕がこれまでに知った植物の知識によれば、あれは『月雫草』という名前だったはずだ。
しかしその『月雫草』の群生地は滑りやすい急な斜面の上にあった。簡単には手が届かない。
「僕が足場になる。シロツメは、僕の肩に乗って、あれを採ってくれないか?」
僕の提案に、シロツメはこくりと頷いた。
僕が斜面にしっかりと足を張り、シロツメが僕の肩にそっと立つ。彼が手を伸ばし、あと数センチで月雫草に指が届く、その瞬間だった。
ブウウン
シロツメの髪に咲く花の蜜を吸いに来たのだろうか。一匹の羽虫が、僕の耳元で大きな羽音を立てた。
「わっ!?」
突然の音に反射的に首を振ったせいで、僕の体が、ぐらりと揺れる。
(あ、ヤバい……!)
その結果、僕も、僕の肩に乗っていたシロツメも、見事にバランスを崩し…二人して、苔の斜面を盛大に滑り落ち、その先にある泥水溜まりに、派手にダイブしてしまった。
全身、泥だらけ。
完璧な、失敗。
泥水の中から顔を出した僕とシロツメは、互いの無様な姿を見て、一瞬、きょとんとした。
そして、どちらからともなく、笑いがこみ上げてきた。
シロツメは声を立てて笑う文化を持たない。だが、その全身から発せられる『声』は、純粋な『歓喜』と『愉快』で満ち溢れていた。
僕もつられて、腹を抱えて大笑いした。
ひとしきり笑い合った後、僕が「さて、どうしようか」と呟くと、シロツメが僕の袖をくいと引いた。彼が指さす先を見ると、僕たちが滑り落ちた衝撃で斜面から数本こぼれ落ちた月雫草が、泥水の上にぷかぷかと浮かんでいた。
目的のものは、思いがけない形で手に入った。
失敗を共有し、一緒に笑い合ったことで、僕たちの間には、友情と言ってもいい仲間意識が生まれていた。
里に戻った僕たちの泥だらけの姿を見て、古き声の主は、咎めるどころか、どこか満足げな、そしてほんの少しだけ、羨ましそうな『声』を発したように感じた。




