63:モリビト
《――お前は、誰だ? 》
脳内に直接響いた、静かで、冷たい問いかけ。僕は、目の前に立つ人ならざる存在から、一歩も動けずにいた。古木のような肌。苔でできた髪。その間から、シロツメクサに似た小さな白い花がいくつも咲いている。そして、森の深淵を映したような、琥珀色の瞳。
(……森の、人……『モリビト』か)
目の前のモリビトは、じっと僕を見つめている。その瞳からは、何の感情も読み取れない。ただ、僕という異物が、この森にとって益か害かを見定めようとするような、純粋な観察の『声』だけが伝わってくる。
「僕は、カイ……旅の者だ」
声が、震えた。
(ダメだ、言葉が通じてる気がしない……)
彼は、僕の言葉に反応しない。言葉を理解しているのかさえ、分からなかった。代わりに、彼の《声》が、再び僕の心に流れ込んでくる。
《問い:なぜここにいる? 》
《問い:なぜ、古き樫に触れた? 》
《問い:お前の目的は、何か? 》
それは、言葉というより、もっと純粋な「問い」の意思そのものだった。僕は、どう答えればいいのか迷った。下手に言い訳をすれば、警戒心を煽るだけかもしれない。僕は、正直に伝えることにした。言葉ではなく、僕自身の『声』で。
僕は目を閉じ、先ほどまでの出来事を、ありのまま心に思い浮かべた。ツノゴケジカの苦痛。ヨロイクマの狂乱。そして、この大樹から聞こえてきた、悲痛な叫び。僕が感じた共感と、何かをせずにはいられなかった衝動。僕の『声』に嘘がないこと、そして森を害するつもりなど微塵もないことを、ただひたすらに念じた。
(伝われ……!)
しばらくの沈黙。やがて、彼の琥珀色の瞳から、険しさがほんの少しだけ和らいだように感じられた。
《……お前の声に、偽りはない》
《だが、お前のしたことは、禁忌に触れる》
《来い。古き声の主が、お前を待っている》
彼はそう『声』で伝えると、僕に背を向け、森の奥へと静かに歩き始めた。僕は、彼の後をついていく以外の選択肢はなかった。
(コダマ、しっかり掴まっててくれよ)
彼に導かれ、僕たちはモリビトの隠れ里へとたどり着いた。そこは、僕が想像していたような、家が建ち並ぶ里ではなかった。森そのものが、彼らの住処だった。巨大な木々の幹には空洞があり、そこを住処としている者。太い枝と枝の間に、蔦を編んで作られた寝床で休む者。すべてが、森と一体化していた。
(すごい……。何の不協和音も聞こえない……)
そこは、僕が森に入ってから初めて感じる、完全な『調和』に満ちた場所だった。
里の中心には、ひときわ巨大な、天を突くような大樹が聳え立っている。僕を案内してきたモリビトは、その木の根元で足を止めた。
根元には、大樹と一体化するように、一人のモリビトが座していた。その体はほとんど古木そのもので、苔むした髪からは、いくつもの枝が伸びている。閉じられた瞼は、硬い樹皮のようだった。
僕を案内してきたモリビトが『声』で、僕の到着を伝えると、そのモリビトの瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
その瞬間、僕は息を呑んだ。彼の『声』が、津波のように僕の意識に流れ込んできたからだ。それは、一人の声じゃない。この森の、数千年の記憶そのものだった。木々の芽生え、獣たちの世代交代、悠久の時の流れ。あまりに巨大で、あまりに古い声に、僕はただ圧倒されるしかなかった。
(これが……『古き声の主』……!)
《……人の子よ》
古き声の主の『声』は、穏やかで、そして厳かだった。
《この森の永き嘆きの中に、一つの小さな問いかけが聞こえた。痛みに寄り添おうとする、澄んだ響き。……お前のことだな》
僕は、こくりと頷くことしかできなかった。
《お前が感じているこの森の狂乱は、古傷と新たな病の二つからなる。病の根は、古く、そして深い。この森の中心、記憶さえも失った場所に、それはある》
古き声の主は、そこで一度『声』を区切った。
《かつて、人の子らがおごそかに奏でようとした、大いなる調和の歌があった。彼らは、世界のすべての声を束ね、一つの完全な音楽を夢見た。だが、力及ばぬままに放たれた声は、調和ではなく、永遠に終わらぬ叫びとなったのだ。……それが、この森が永く抱えてきた古傷よ》
古き声の主の『声』に、深い哀しみの色が混じる。
《だが、我らはその傷と共に生きてきた。傷を広げぬよう、森の調和の力で、その叫びを奥深くに封じ込めてきた。……だというのに。ごく最近、何者かが、外から忌まわしい『無音の毒』を持ち込み、我らの森を汚した。その毒が古傷を化膿させ、新たな病となって、今、森全体を狂わせているのだ》
僕は、息を呑んだ。
(最近持ち込まれた、無音の毒……? アルメの鉱山で感じた、あの『沈黙』と似ているのか……?)
だから、ダリウスもこの異変を知らなかったんだ。
《そして、お前は、その叫びと毒の正体を、他の誰よりも正確に聞くことができる耳を持つ。お前は、ただの『聞き手』ではない。病の正体を見定めることもできる『傾聴する者』だ》
(『傾聴する者』…なんか…いいな。)
古き声の主は、僕をまっすぐに見つめた。
《だが、『傾聴する者』よ、聞くがいい。お前が大樹にしたことは、化膿した傷に素手で触れるに等しい愚行だ。お前の優しさは、病を癒すどころか、お前自身を毒に侵すことになる。お前の役割は医者ではない。病の正体を見極める、ただ一人の『傾聴する者』だ》
古き声の主は、僕に森を進むための条件として、「三つの約束」を課した。
《一つ。新たな病の源泉たる『無音の毒』と、古傷の源泉たる『遺跡の叫び』、その二つの声を、ただ『傾聴』せよ。決して、お前の力で『干渉』してはならない》
《一つ。人の知識を捨てよ。今の狂った森では、獣たちの『苦痛の声』こそが、道標となる》
《そして、一つ。二度と、その未熟な力で、他者を『癒そう』としてはならぬ。それは、傲慢だ》
(癒そうとするな、か……。でも、苦しんでいる『声』を聞いて、何もしないなんて……)
重い約束だった。でも、僕にはそれを受け入れる以外の道はなかった。
「……分かりました。約束します」
僕がそう答えると、古き声の主は満足げに頷いた。
《よろしい。ならば、この森がお前の道行きを助けよう》
《そこの若き者よ。この人の子の案内役を、お前に任せる。約束を違えぬよう、その目で見届けよ》
僕の隣に立つ、髪に白い花を咲かせたモリビトが、静かに一礼した。彼の琥珀色の瞳には、警戒心ではなく、純粋な好奇心の色が浮かんでいるように見えた。
こうして、僕と若いモリビトとの、奇妙な付き合いが始まることになった。目指すは、森の中心、すべての元凶である『遺跡』。僕は、ただの旅人から、この森の『病』の謎に挑む、『傾聴する者』としての役割を、知らず知らずのうちに背負い始めていた。




