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62:森の病

どれだけの時間、がむしゃらに走り続けたのか、もう分からなかった。背後から聞こえていたヨロイクマの咆哮は、いつの間にか聞こえなくなっている。僕は匂いの強い香草の群生を走り抜け、匂いを消して、なんとか追跡を振り切ったようだった。


一度倒木に凭れて座り込むと、もう立ち上がる力は残っていなかった。あちこちの擦り傷がじんじんと痛む。息が大きな音を立てる。


僕は、完全に森で迷っていた。方角さえわかれば進むべき方向の検討はつくが、森はその入口とは比べ物にならないほど鬱蒼としている。木に登れば空を見て、太陽や月の場所から方角を知ることもできるのだろうが、それは縄張りを主張するマガドリたちに閉ざされている。八方塞がりだ。


(……どうすればいいんだ)


ふと、足元を見下ろすと、コダマがこちらを見上げていた。その両手でどんぐりを僕に向かって差し出している。


「…ありがとう…」


僕は、コダマからどんぐりを受け取った。食って元気を出せということだろうか? 


(確かに疲れてはいるんだけど、それより方角がわからないことの方が問題なんだよな)


「コダマ、どっちに向かえばいいと思う? 好きな方向を教えてくれ」


コダマは周りを見渡した後、一つの方向を指し示した。


「……そっちか。分かった、行ってみよう」


僕にはそれが何を指しているのかわからないし、コダマにもわかっていないかもしれないけど、とりあえずじっとしている以外の選択肢ができた。


何の確信もなく、引きずるような足取りで森を歩き続けた。


そろそろ野営の場所を決めなければならないと思い始めた時、僕は、森の中にぽっかりと開いた、広場に出た。


「空が見える!」


久しぶりに見た空だった。午後の太陽が木の梢から顔を出している。その太陽は広場の真ん中に立つ大きな木を照らしていた。


ひときわ大きい。幹の太さは、大人が五人がかりで腕を回しても、まだ足りないだろう。広がった枝は、周囲の空間を独り占めしている。この森の主、とでも言うべき、圧倒的な存在感。


なのに、その姿はひどく痛々しかった。葉は色褪せて黄色く縮れ、枝の何本かは力なく垂れ下がっている。樹皮には、まるで病巣のような黒い染みが、いくつも浮かんでいた。


そして、なによりも、その『声』が。


《……痛い……苦しい……わからない……なぜ……》


《……うるさい……やめろ……静かに……》


混乱。苦痛。嘆き。その巨大な体の中で、荒れ狂う嵐のような声が、渦を巻いていた。それは、僕がかつて経験した、あの声の奔流に溺れる感覚と、あまりにもよく似ていた。そして、ツノゴケジカやヨロイクマが発していた、あの苦痛の叫びと、全く同じ質のものだった。


(……そうか……魔獣だけじゃ、ないんだ)


僕は、確信した。この森で起きている異常は、動物も、植物も、区別なく蝕んでいる。森そのものが、巨大な『病』に苦しんでいるんだ。


強い共感が、僕の胸を締め付ける。この大樹も、僕と同じなんだ。望んでもいないのに、聞きたくもない声を無理やり聞かされて、ただ一人で、ずっと苦しんできたんだ。


(分かるよ……その苦しさ、僕も……)


「……僕に、何かできないか」


口から、思わず言葉がこぼれていた。衝動的だった。僕に何ができるというんだ。傲慢だとは、分かっている。でも、目の前の苦しんでいる存在を、見て見ぬふりなんて、できなかった。


僕は、吸い寄せられるように大樹へと近づき、ごつごつとしたその幹に、そっと右手を触れた。ひんやりとした、硬い感触。その向こう側で、荒れ狂う声の嵐が、僕の意識に直接流れ込んでくる。


(大丈夫)


僕は目を閉じ、意識を集中させた。自分の心を、波紋一つない、静かな水面のように凪がせる。そして、その静けさを、手のひらを通して、そっと大樹の中へ流し込んでいく。


(大丈夫だ。ここにいるよ)


荒れ狂う声の奔流に対して、抵抗するんじゃない。無理やり黙らせようとするのでもない。ただ、その奔流の隣に、もう一つ、静かで、穏やかな流れを寄り添わせるように。「君の苦しみは、ちゃんとここに聞こえている」と、伝えるように。


コダマがいつも僕の指を掴んで伝えてくれているものを、僕はこの木に伝えたかった。


《…………? 》


ほんのわずかな間。一瞬だけ、大樹の中で荒れ狂っていた声の嵐が、ぴたりと止んだ気がした。僕の静けさに、耳を澄ませるように。


でも、それは僕自身の精神を、ごっそりと削り取る行為でもあった。くらり、と世界が揺れる。額から汗が噴き出し、立っているのがやっとだった。僕は、森の主のような大きな存在に対して直接『干渉』したのだ。


その、瞬間。


僕の意識とは全く別のところから、一つの『声』が、脳内に直接響いた。それは、今まで僕が聞いてきたどんな声とも違った。ノイズのように無機質でもなく、大樹のように感情的でもない。静かで、冷たく、そして明確な『意思』を持った、問いかけ。


《――お前は、誰だ? 》


はっとして、僕は振り向いた。


いつの間に、そこにいたのか。僕の目の前に、一人の人影が、静かに立っていた。


古木のような滑らかな肌。髪は深い緑色の苔でできていて、その間から小さな白い花が咲いている。琥珀のような瞳が、じっと僕を見つめていた。


(……森の、人……?)


僕が『モリビト』と呼ぶことになる、森の番人との、出会いだった。


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