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61:獣の苦痛

改めて耳をすませて、なるべく遠くの『音』を聴いてみる。

そうするとある方向から、より多くの微かな『苦痛』が聴こえてきた。あのツノゴケジカたちが感じていた『苦痛』。

それは予想通り、僕が進むべき方向と一致していた。


僕がそこへ向かう必要は無いのかもしれない。嘆きの荒野でそうしたように、そこを避けるようにして目的地へ向かうという道もある。しかし、この森で起きている問題は、僕に聞こえる声を増やした。僕に無関係なものとは思えない。


「……行ってみるしかない、よな」


「でも、あまりに危なそうだったら、すぐに逃げるよ」


僕はコダマに向かって話しかけた。コダマは僕の服をしっかりと握りしめることで、いつでも逃げる準備ができていることを示してくれた。


(うん。君さえいれば、僕は大丈夫だ)


森は、その深さを増すごとに、鬱蒼とした姿へと変わっていった。天蓋を覆う木々の葉が、昼の光さえも拒む。足元にはシダや苔が密生し、一歩進むごとに、湿った腐葉土の匂いが立ち上った。


五日目の午後。僕は、ある魔獣の縄張りの手前で足を止めた。空気の匂いが変わった。鼻を突く、魔獣の濃い匂い。倒された木々がある。それらは鋭く大きな斧で刈り倒されたように見える。その切り口には太い毛がはりついている。


(……ヨロイクマ、か)


ダリウスからその名は聞いていた。獣や魔獣については、自分で観察して学べというのがダリウスの基本的な姿勢だったが、めずらしくこの魔獣については教わっていた。鋼のような硬い体毛を持つ、クマ型の大型魔獣。鋭い爪と強大な腕力によって、斧を振り回すような斬撃を放つ。師匠からは、「森で最も危険な魔獣の一つだ。出会ったら、とにかく逃げろ」と口酸っぱく言われていた。


(師匠があれだけ言うんだ。よっぽどヤバいんだろうな……)


幸い、彼らの習性はハッキリしている。一つ、完全な夜行性であること。昼間は縄張りのどこかにある巣穴で、眠っている。一つ、非常に縄張り意識が強く、マーキングされた境界線を、自ら越えることは決してない。


僕は風に耳を合わせて、ヨロイクマの『声』を探った。聞こえてきたのは、洞の奥深くから響いてくる、穏やかな寝息のような『声』だけだった。よし、眠っている。


僕は慎重に、マーキングされた木々を避け、縄張りの外周に沿って迂回を始めた。昼間のうちに、ここを通り抜けてしまう。それが、斥候として最も正しく、安全な選択のはずだった。


その、はずだった。


「グルルルルッ……!」


突如、背後で低い唸り声が響いた。心臓が凍りつく。ゆっくりと振り返ると、そこにいたのは、一体のヨロイクマだった。体長は三メートルを優に超えるだろう。黒光りする体毛が、憎悪に満ちて逆立っている。


なぜだ!? 昼間だぞ!? 眠っていたはずじゃなかったのか!? 


(僕の耳が、聞き間違えた? いや、そんなはずは……!)


混乱する僕の思考を、ヨロイクマの『声』が蹂躙する。


《――頭が! 割れる! 痛い! 痛い!》


《――うるさい! 消えろ! なにもかも!》


《――苦しい! 誰か! 助けて!》


ツノゴケジカと同じだ。その瞳に宿るのは、狩猟者の冷静さじゃない。ただ、耐えがたい苦痛と、そこから逃れたい一心が見せる、無差別な破壊衝動。こいつは、僕を餌として認識しているわけじゃない。ただ、自分の苦しみの原因かもしれないものを、手当たり次第に排除しようとしているだけだ。


次の瞬間、ヨロイクマは咆哮と共に、縄張りの境界線をあっさりと越えて、僕に襲いかかってきた。知識が、常識が、音を立てて崩れ去る。


(師匠! 言ってたことと、違うじゃないか……!)


僕はなりふり構わず駆け出した。背後から、巨体が木々をなぎ倒しながら迫ってくる音が聞こえる。斥候の技術なんて、もはや何の役にも立たない。ただ、必死に、がむしゃらに、生きるために足を動かすだけ。


どれくらい逃げただろうか。息が切れ、足がもつれ始める。このままでは、追いつかれる。僕は、方角を確認するために、近くの木に登ろうとした。上から森を見渡し、現在地を把握する。


幹に手をかけ、数メートル登った、その時だった。


ギャアアアッ! 


甲高い鳴き声と共に、頭上から黒い影が僕に襲いかかった。咄嗟に身を翻し、地面に飛び降りる。僕がいた場所に、鋭い嘴が突き刺さった。


見上げると、枝に一羽の鳥が止まっていた。鋭く尖った嘴を持つ魔鳥。マガドリだ。普段は群れで行動する彼らが、なぜか一羽だけで、この木を縄張りだと主張するように、僕を威嚇している。


(悪かったよ。そんなに怒らなくてもいいだろ…)


僕は別の木に向かって走った。しかし、そこでも同じだった。幹を登り始めると、どこからともなくマガドリが現れ、僕を攻撃してくる。どの木にも、まるで番人がいるかのように、一羽ずつマガドリが陣取っているのだ。


(何だ? 森中で勝ち抜き戦でもしてるのか?)


空への道が、完全に閉ざされている。頼るべき知識は崩壊し、進むべき方角も見失った。背後からは、依然としてヨロイクマの狂った咆哮が聞こえてくる。


僕は、ただひたすら地上を逃げ惑うしかなかった。森の掟が、完全に狂ってしまっている。この森の『病』は、僕が想像していたよりも、ずっと深く、深刻なものなのだと、絶望的な形で思い知らされていた。


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