60:違和感の森
『魔獣の森』に入って、三日が過ぎた。ダリウスの元を離れた直後はさすがに心細さもあったけれど、今のところ旅は順調そのものだ。斥候として師に叩き込まれた技術と、僕が生まれ持ったこの耳。二つが組み合わさった時、世界は驚くほど僕に協力的だった。
風は数キロ先の崖崩れの音を運び、僕はそれを迂回する。獣道は今は忘れられた岩棚の存在を囁き、僕は雨を凌いで夜を明かす。これまで僕を苦しめてきたこの能力が、今は頼もしい相棒のように感じられた。
(うん、今のところは、だけど)
食料の確保も問題なかった。森に入ってすぐに、僕はツノゴケジカという魔獣を仕留めている。その名の通り、角に苔が生えた大型の鹿で、肉は少し硬いが滋味深い。彼らは非常に臆病な性質で、人の気配を察するとすぐに森の奥へ逃げてしまう。狩るには、風下から慎重に近づく必要があった。
異変が起きたのは、四日目の昼下がりだった。比較的拓けた場所を歩いていた僕の耳に、茂みを激しく揺らす音が届いた。咄嗟に身構える。複数の足音。数が多い。木々の間から姿を現したのは、ツノゴケジカの群れだった。
(……様子がおかしい)
僕は眉をひそめた。彼らは僕の存在に気づいている。だが、逃げる素振りを見せない。それどころか、血走った目で僕を睨みつけ、威嚇するように前足で地面を掻いている。本来草食であるはずの彼らから、剥き出しの敵意が放たれているのを、肌で感じた。
(なんで……臆病なはずじゃ……)
一頭が、短い咆哮と共に突進してきた。それを皮切りに、群れのすべてが僕めがけて殺到する。
「なっ……!」
咄嗟に横へ跳んで、最初の一頭をかわす。しかし、すぐに次の鹿が硬い角を突きつけてくる。僕はナイフを抜き、必死に応戦するが、多勢に無勢だ。これは、狩りじゃない。一方的な襲撃だ。
なぜだ? 臆病なはずの角苔鹿が、なぜこんなに攻撃的なんだ? 何が彼らをここまで変えてしまった?
混乱する思考の中、僕は必死に彼らの動きを見極めようとした。その、瞬間だった。彼らの『声》が、僕の頭の中に直接流れ込んできたのは。
《――痛い! 痛い! 痛い!》
《――怖い! 怖い! 怖い!》
《――出ていけ! 邪魔だ! 殺す!》
衝撃だった。
僕は今まで、生き物の『声』なんて、はっきりと聞いたことはなかった。人の感情が流れ込んでくることはあっても、それはあくまで混線したノイズのようなものだ。動物の思考が、言葉として聞こえたことなど一度もない。
それは、人間のように複雑な思考じゃない。もっと単純で、本能的な感情の濁流。苦痛。恐怖。そして、その裏返しとしての、猛々しい怒り。彼らは、僕を憎んでいるわけじゃない。ただ、得体の知れない苦痛と恐怖から逃れたくて、目の前にいる僕を必死に排除しようとしているだけなんだ。
一瞬の硬直。その隙を突かれ、一頭の角が僕の脇を掠めた。
「ぐっ……!」
衝撃で数メートル吹き飛ばされ、地面を転がる。幸い、師匠にもらった胸当てのおげで致命傷は避けられたが、鈍い痛みが走る。僕はなんとか立ち上がり、近くの巨木に向かって走った。なんとか木を駆け上り、太い枝に身を隠すと、角苔鹿たちはしばらく木の下で苛立たしげに嘶いていたが、やがて興味を失ったように森の奥へと去っていった。
僕は荒い息を整えながら、しばらくその場から動けなかった。脇腹の痛みよりも、先ほどの体験が、僕の心を大きく揺さぶっていた。
(……今のは、なんだ……?)
僕は、確かに彼らの『声』を聞いた。
風や道の『声』とは全く違う。もっと生々しくて、感情的で、魂そのものが叫んでいるような、生命の響き。
なぜ、聞こえた? なぜ魔獣の思考が、こんなにハッキリと……。魔獣だからか? それとも、彼らが感じていた『苦痛』が、あまりに強烈だったからか? 強い感情は、それだけで意味を持つ。あの叫びが、僕の能力の壁を突き破って流れ込んできた……?
いや、それだけじゃない気がする。この森に満ちている、何か。目には見えない、じっとりとした空気が、僕の能力を無理やりこじ開けたような、そんな気味の悪い感覚があった。
……また、僕の呪いが強くなったってことか……?
森の問題か、それとも新たな呪いの始まりか。混乱する思考の中、僕は祈るような気持ちで、肩の上の相棒に目をやった。
「……コダマ……君の『声』は?」
僕は、その小さな石の体に、そっと意識を向ける。もし、この小さな友達の苦痛まで聞こえてしまったら……しかし、聞こえてきたのは、いつもと同じ、静かで、硬質で、ただそこにある石の沈黙だけだった。生きているものにしか、この現象は起きないらしい。僕は心の底から安堵のため息をついた。
「……ああ、よかった……」
すると、コダマは僕の外套の襟からそろりと降りてくると、僕の人差し指を、その小さな両手でぎゅっと握りしめた。ひんやりとした石の感触。でも、不思議と温かい。その無言の仕草が、「僕はここにいるよ」と語りかけてくれているようで、僕のささくれ立った心が、少しだけ凪いでいくのが分かった。
「……ありがとう、コダマ」
僕は脇腹の傷に薬草を塗りつけながら、思考を巡らせた。理由はまだ分からない。でも、考えられることが二つある。
一つ。ツノゴケジカたちの異常な行動と、僕が聞いた苦痛の叫び。この森の奥で、何か異常なことが起こっている。
そして、もう一つ。僕の能力が、その森の『病』に共鳴するように、勝手に変化してしまったこと。これは、もう他人事じゃない。
僕はナイフを鞘に収め、警戒を最大に引き上げながら、再び森の奥へと歩みを進めた。




