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59:師の贈り物

モリオオカミを仕留めた翌朝。僕は当然、次の訓練が始まるものと身構えていた。体のあちこちが痛む。けれど、心は不思議と軽かった。


しかし、ダリウスは訓練用のナイフを手に取らなかった。僕が朝食の準備を終えると、彼は囲炉裏の火を見つめたまま、静かに告げた。


「昨日で、俺がてめえに教えることは終わりだ」


「…え?」


あまりにも突然の言葉に、僕は間抜けな声を出した。終わり? どういうことだ? 僕の修行は、まだ始まったばかりのはずじゃ…。


呆然とする僕を置いて、彼は一人で森へと入っていく。


「昼までには戻る。それまで、小屋の周りの薪でも割っておけ」

その背中は、僕に何も説明してはくれなかった。


僕は言われた通り、小屋の裏で斧を振るい始めた。カーン、カーンと、乾いた音が森に響く。無心で薪を割っていると、いつの間にか、肩の上のコダマに話しかけていた。


「なあ、コダマ。僕、少しは強くなれたのかな」


僕は、この森に来てからの日々を思い返す。最初は、ダリウスの言葉の意味すらわからなかった。「森の文字を読め」と言われて、ただ途方に暮れた。「殺気を消せ」と言われて、自分の内なる音に戸惑った。「獲物になれ」と言われて、何度も何度も打ちのめされた。


一つ一つの教えが、僕の中に染み込んでいく。攻撃の予兆となる『本物の音』だけを聞き分けること。ただ避けるのではなく、避けながら次の準備をすること。そして、先の隙を見ること。


「まだ、全然足りないけど…。でも、少しだけ、戦い方がわかった気がするんだ」


僕は斧を振り下ろす。薪が、乾いた音を立ててきれいに割れた。


夕方、ダリウスは見たこともないような大きな鹿を担いで戻ってきた。それは、僕との最後の夜のための、師からの送別の宴の始まりだった。


その夜、僕たちは囲炉裏を囲み、ダリウスが作った鹿肉のローストを食べていた。丁寧に焼かれた肉は、驚くほど柔らかく、僕が今まで食べたどんなものより美味しかった。


「いいか小僧。俺が教えたのは、生き残るための最低限の技術だけだ。ここから先は、てめえ自身で鍛えていけ」

いつになく、穏やかな声だった。


「てめえには、他の奴にはない耳がある。それは強力な武器だ。だがな、それ故の危うさも、てめえは持っている」

ダリウスは、囲炉裏の火を見つめながら、静かに続けた。


「昔、俺にも仲間がいた。そいつは、誰よりも優れた目を持っていた。どんなに遠くの獲物でも、どんなに巧妙に隠れた魔獣でも、そいつの目からは逃れられなかった」


それは、僕が初めて聞く、彼の過去の話だった。


「だがある時、俺たちは巨大な森熊に追い詰められた。そいつは、熊の動きだけに集中しすぎた。自分の目に映る、最大の脅威だけをな。…その結果、熊の巣穴の影に潜んでいた、もう一匹の小さな魔獣に気付くのが遅れた。そいつの一撃が、俺たちの陣形を崩し…仲間は、死んだ」


ダリウスの声は、淡々としていた。けれど、その奥に、押し殺した深い後悔が滲んでいるのを、僕は感じ取った。


「そいつは、死んだ。仲間の忠告を聞く耳を持たなかったからだ。自分の目だけを過信したせいだ」


囲炉裏の火が、パチリと音を立ててはぜた。


「カイ。てめえの耳も同じだ。あまりに多くの声が聞こえすぎる。一つの声に囚われた時、てめえは、もっと大事な音を聞き逃すだろう」

「大事な、音…」

「ああ。仲間の声だ」


ダリウスは、そこで初めて、僕の目を真っ直ぐに見た。


「てめえは、一人で生きていけるほど強くはねえ。誰かと共に歩め。互いの背中を預けられる、そんな仲間を見つけろ」

「…仲間」

「そうだ。自分の弱さを認め、他人を信じられる強さを持て。それが、俺がてめえに教えられる、最後の教えだ」


彼の言葉は、静かに、だけど、ずしりと重く、僕の胸に響いた。

仲間…。

僕がずっと、避けてきたもの。

人の声が怖くて、一人でいることを選んできた僕に、それができるだろうか。

でも…。

ダリウスの真剣な瞳を見ていると、彼の言葉が、ただの忠告ではないことがわかった。

それは、彼の後悔と、そして、僕への祈りのようなものだった。


「…うん。わかった」


僕は、小さく頷いた。

それが、僕にできる、精一杯の返事だった。




翌朝、僕は全ての荷物をまとめ、小屋の外でダリウスと向かい合っていた。感謝の言葉を伝えたいのに、何と言えばいいのか、言葉が見つからない。僕が深々と頭を下げると、ダリウスはぶっきらぼうに三つのものを僕に差し出した。


一つは、赤黒く光る魔石。


「てめえが狩ったモリオオカミの魔石だ。売るなり素材にするなり好きにしろ」


もう一つは、そのモリオオカミを狩る時に借りた、狩猟ナイフ。


「そいつは、俺が昔の弟子にやったもんだ。…不器用な奴でな、すぐに刃こぼれさせやがるんで、俺が代わりに使ってた」


柄には、小さな傷がいくつも刻まれている。彼が、かつての弟子のことを話すのは、これが初めてだった。


「それから、これだ」


最後は、モリオオカミの硬い皮で作られた、僕の体を守るための真新しい胸当てだった。


「…中古品だがな。新しいモリオオカミの脂が手に入ったんで手入れしておいた。まだ少し臭えが、我慢してつけとけ」


僕は、臭いは不快では無かったが、それとは別の、こみ上げてくる熱いものを感じた。


「…行け。ぐずぐずするな」


ダリウスは背を向け、小屋の中へと入っていく。僕はその背中に向かって、ありったけの声で叫んだ。


「ありがとうございました!」


返事は、なかった。


僕はコダマと共に、ついに魔獣の森の奥に向けて、その第一歩を踏み出す。腰に下げたナイフと、体を守る胸当ては、ここで学んで強くなった事を信じさせてくれた。


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