58:初めての実戦
「てめえが掴んだものが、本物かどうか。その身で確かめてこい」
ダリウスの言葉を胸に、夜が明けると、僕はすでに出発の準備を整えていた。ダリウスは何も言わない。ただ、僕に手入れの行き届いた狩猟ナイフを一本、無言で差し出した。僕が今まで使っていたものよりも、ずっと鋭く、重い、本物の斥候が使うための道具だった。
「…ありがとうございます」
僕がそれを受け取ると、彼は「さっさと行け」とだけ言って、小屋の奥へと消えてしまった。僕はコダマを肩に乗せ、静かに小屋を後にする。初めての実戦。師の期待と、魔獣への恐怖が、僕の心臓を締め付けていた。
「さて、と。行くか、コダマ。まずは、見つけないと始まらないよな」
あえて軽く言って、僕は小屋を背にした。
森に入ると、僕はまず意識を集中させ、モリオオカミの気配を探した。『風の声』に耳を合わせる。鳥の声、虫の音、木々のざわめき…それらの音を一つ一つ押し流し、獣が発する、縄張りを主張する匂いと、飢えの唸り声を探し出す。コダマが伝える大地の声から、他の獣とは違う、重い足取りで踏み固められた獣道の痕跡を辿る。やがて、木々の向こうに、前に見たキバイノシシの幼体よりもずっと大きく、筋肉質な影が見えた。灰色の毛皮を持つ、一匹のモリオオカミ。
(いた…! あれか…。デカいな…もっと小さいのが見つかればいいけど…)
そんな望みを持ちながらも、僕はそのモリオオカミを追うことにした。ダリウスに教えられた通り、まずは見つからないようにしながら、その行動パターンを徹底的に観察する。岩陰に隠れ、風下に身を置き、息を殺す。水を飲む場所、獲物を探す経路、そして休息する岩陰。モリオオカミの動き一つ一つから、その習性と警戒心の強さを読み取っていく。僕は、モリオオカミが最も油断する瞬間と、最適な襲撃のタイミングを冷静に分析していた。
数時間後、ついにその時が来た。モリオオカミが獲物の子鹿を食べ終え、満腹感から一瞬だけ警戒を解いた、その隙。僕は『獲物の目』になり、気配を完全に消して、慎重に距離を詰めていく。
そして、不意を突いてスリングから石弾を放った。完璧な奇襲のはずだった。しかし、石が放たれたまさにその瞬間、モリオオカミは野生の勘だけで姿勢を変えて攻撃を避けてしまった。
(! …ずるい!)
奇襲に失敗した僕に対し、オオカミは即座に猛然と襲いかかってくる。僕はダリウスとの訓練を思い出し、全力で大きく後ろへ跳び、その鋭い牙をかわした。モリオオカミの攻撃は止まらない。
(速い! …でも師匠の攻撃よりは、ずっと直線的だ!)
僕は何度も何度も、紙一重で攻撃を避けながら、ただひたすらに、師に教えられた「隙」を待った。
焦りから手を出せば、僕がやられる。僕は歯を食いしばり、防御に徹した。
そして、ついにその瞬間が訪れる。連続攻撃で苛立ったモリオオカミが、ぬかるんだ地面に足を取られ、ほんの一瞬、その体勢を大きく崩したのだ。
見えた! あれこそが、僕が待っていた本物の「隙」!
僕は回避しながら回転させていたスリングから、狙いすました一撃を放つ。石弾は、モリオオカミの喉元を正確に捉え、その巨体をぐらつかせた。
モリオオカミが体勢を立て直すよりも早く、僕は一気に距離を詰め、師から授かったナイフを、その喉元深くに突き立てていた。
獣の熱い血が、僕の腕を濡らす。モリオオカミは断末魔の叫びを上げることもなく、静かに地面に倒れた。森に、沈黙が戻る。僕は、荒い息を繰り返しながら、震える手でナイフを握りしめていた。
「…やった…やったんだ、コダマ…!」
僕はその場にへたり込み、懐から肩の上に戻ろうとしている相棒に話しかけた。コダマは僕の頬に、そっとその体をすり寄せてくる。そのいつもの感触に、僕は自分が生きていることを実感した。
小屋への帰路は、新たな戦いだった。仕留めたモリオオカミは、僕の体よりもずっと重い。肩に担ぐと、その重みが膝まで響いた。
「…お、重い…」
数歩進んでは休み、また数歩進んでは息を切らす。
(これ、本気で持って帰るのか…? 狩った証拠なら牙だけでもいいよな。絶対。いや、でも獲物は全部持ち帰れって、前に…。うう、重い…)
汗が滝のように流れ、足は鉛のように重かった。勝利の余韻など、どこかへ吹き飛んでしまっていた。
夕暮れ時。僕は泥だらけで、疲労困憊になりながら、なんとか小屋へとたどり着いた。僕がモリオオカミの死体を地面にどさりと下ろすと、音を聞きつけたダリウスが小屋から出てきた。彼は僕の姿と、足元のモリオオカミを無言で見比べる。僕は、師がどんな言葉をくれるのか、緊張して固唾を飲んだ。
ダリウスはオオカミの周りをゆっくりと一周し、その牙や毛皮を検分すると、僕に向き直り、心底面倒くさそうに、深いため息をついた。
「…馬鹿野郎。モリオオカミの肉は、筋張ってて臭くて不味いんだ。魔石以外は皮と牙だけ剥いでくりゃ、それでよかったんだよ」
そのあまりにもあんまりな言葉に、僕は呆然と立ち尽くすしかなかった。




