56:大きく避けろ
休息日の翌朝、森の中の開けた場所で、僕はダリウスと向かい合っていた。彼の右手には、刃を潰した訓練用のナイフが鈍く光っている。昨日までの穏やかな空気は消え、再びぴりぴりと肌を刺すような緊張感が戻ってきた。
「いいか小僧。ここからは、避けられねえ戦いのための訓練だ」
ダリウスの目が、獲物を定める狩人のそれに変わる。
「まず、てめえが前の訓練で何を学んだか、確認させてもらう」
そう言うと、ダリウスは僕を反対に向かせた。首の後ろがヒリヒリする。
左から葉が揺れる音がした。僕はもう彼の作り出す嘘には惑わされない。小石の音は確かに聞こえる。けれど、そこからは攻撃の予兆となる『本物の音』…心音の乱れや、筋肉が収縮する硬い音が聞こえてこない。
僕は小石の音を意識から切り捨て、ダリウス本体の気配だけに集中する。彼は僕の右の死角から、音もなく踏み込んできていた。僕はその動きに合わせ、後ろに跳ぶのではなく、半身になって攻撃をいなす。
僕の動きに、ダリウスは「ふん」と鼻を鳴らし、一度距離を取った。
「…どうやら、ただの音に振り回される段階は卒業したようだな」
僕の成長を認めつつも、彼はすぐに次の段階へと進む。
「だがな、小僧。本当の戦いはここからだ」
ダリウスはナイフを構え直した。
「敵が攻撃しようとする、その一瞬前を捉えろ。殺意で心臓が跳ね上がる音…その『攻撃の予兆』となる音を感じ取ってみせろ」
そして、厳しい声で付け加えた。
「タイミングが分かったからといって、粋がるな。今のてめえにできるのは、誰よりも早く、誰よりも大きく、安全な場所へ逃げることだけだ。いいな、反撃なんざ考えるな。とにかく、大きく避けろ」
訓練が再開される。僕は目を閉じ、意識の全てをダリウスの心臓の音だけに集中させた。そして、ついにその瞬間を捉える。
彼の心音が、攻撃の直前に「ドンッ」と一度だけ、力強く脈打つのを。
僕はダリウスの教え通り、攻撃の種類を判断する前に、ただ全力で後ろに大きく跳び退いた。僕が今までいた場所を、ダリウスのナイフが風を切って通り過ぎていく。タイミングは完璧。そして、回避も成功したはずだった。
一瞬、安堵した僕だったが、ダリウスはすぐに体勢を立て直し、再び僕にプレッシャーをかけてくる。
(…来る!)
僕は再び、心音の乱れを捉えた。そして、同じように後ろへ大きく跳ぶ。だが、甘かった。
僕が着地した瞬間、すぐ目の前の地面から、まるで罠が作動したかのようにダリウスの上半身が現れた。僕が大きく避けることを見越して、彼は僕の退避場所に、すでに回り込んでいたのだ。僕の喉元に、冷たいナイフの感触が押し当てられる。
「タイミングが分かったからといって、粋がるな」
ダリウスの声が、耳元で冷たく響いた。
「今のてめえにできるのは、大きく避けることだけだ。だが、俺にてめえの逃げ道が読めないと思うか? 同じ場所にばかり逃げる獣は、一番狩りやすいんだぜ」
その日、僕は何度も攻撃のタイミングを捉えた。そして、その度に、僕の逃げ道を完璧に読み切ったダリウスに、打ちのめされ続けた。
タイミングがわかっても、勝てない。ただ大きく避けるだけでは、いずれ追い詰められる。
その夜、僕は囲炉裏の前で、どうすれば予測不能な回避ができるのか、答えの出ない問いをずっと考え続けていた。
翌朝も、ダリウスに言われた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。タイミングがわかっても、ただ後ろに下がるだけではいずれ追い詰められる。
訓練を始める前に、ダリウスは僕に告げた。
「てめえの課題は、ただ避けることじゃねえ」
彼の目が、昨日よりもさらに鋭く、僕の覚悟を見透かすように光る。
「避けてからが、本当の戦いだ」
そして、ダリウスは僕に、信じられないような要求をした。
一つ、攻撃の予兆を捉え、大きく避ける。
二つ、避けながら、投石器を構え、いつでも反撃できる体勢を作る。
三つ、攻撃を放った直後の体勢、呼吸、視線、心音の乱れ…その全てを読み取り、隙があるか否かを判断する。
「避けながら武器を構えろ! そして、敵の体勢を見ろ! 牙を剥いた後の獣は、一瞬だけ腹を見せる。その一瞬を見逃すな!」
訓練が始まると、僕はその要求がいかに無茶なものかを、骨の髄まで思い知らされた。
(…来る!)
心音の乱れを捉え、僕は大きく後ろへ跳んだ。だが、その回避行動に全神経を使っている僕に、スリングを構える余裕なんて、どこにもない。今度は、スリングを構えることを意識した。だが、武器に気を取られた僕の体は、ダリウスの攻撃を避けきれず、あっさりと打ちのめされる。
ましてや、彼の体勢を読むなんて。僕の頭は、三つの行動を同時に処理しきれずに、完全にパンクしてしまった。頭の中が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられたみたいだ。
その日も、僕は何度も泥の上に転がされた。悔しくて、情けなくて、涙が出そうになる。でも、ここで諦めるわけにはいかなかった。
夕暮れ時、これが最後の一回だと、ダリウスが告げた。僕の体はもう、限界だった。意識も、朦朧としている。
ダリウスの心音が、攻撃の予兆を告げる。僕はもう、何も考えられなかった。ただ、体が覚えた動きのまま、全力で後ろに跳んだ。
そして、着地した、その瞬間。僕の右手はすでに、石を番えたスリングを握りしめていた。そして、再び大きく後ろへ跳び退くその跳躍の最中に、僕の体は勝手に、スリングを回転させ始めていたのだ。
そして、初めて見えた。攻撃を放った直後の、ダリウスの姿が。彼の体勢は、完璧に見えた。隙など、どこにもない。
だが、僕の耳は、確かに捉えていた。彼の呼吸が、ほんの一瞬だけ、大きく乱れたのを。
そして目は、彼の膝が屈してバランスを取り直しているのを見た。
それは、まだ僕が攻撃できるような「隙」ではなかった。けれど、僕の目には確かに見えた。次の準備のための一瞬の「間」が。
僕の目の色が、今までと違うことに気づいたのだろう。ダリウスはナイフを下ろし、静かに言った。
「…見えたのか、小僧」
僕は「はい」と、力強く頷いた。まだ手は出せない。けれど、僕はついに、本当の戦いの入り口に立ったのだ。




