54:影との同調
五日目の朝。僕の心は、昨日までとは全く違っていた。空腹と疲労は変わらない。けれど、僕の中には不思議と恐怖も焦りもなかった。僕はもう、ダリウスを狩る「狩人」ではない。ただ、この森で生き延びようとする「獲物」なのだから。
訓練が始まると、僕はダリウスを探すことを完全にやめた。僕がすべきことは、ただ一つ。彼の背中に触れるという最終目的を忘れず、しかし今はただ、この森で「死なない」こと。僕は目を閉じ、意識を『風の声』と、肩の上のコダマが教えてくれる地面の音、その二つだけに集中させた。
森に入ると、僕はダリウスの気配を追わない。代わりに、僕は森の「声」を聞き、獲物として最も安全な道を探した。鳥たちが騒いでいる場所は避ける。小動物たちが静まり返っている場所も、何か大型の獣がいる兆候だ。
その時、風がかすかな音を運んできた。僕の進路上に仕掛けられた、枝の罠が立てる音だ。
以前の僕なら、その音に気を取られ、別の罠にかかっていたかもしれない。だが、今の僕にはわかった。これは僕を誘うための虚の音だ。
僕は音を立てた罠を避け、大きく迂回する。同時に、コダマが地面の微かな振動を僕に伝えていた。ダリウスが、僕が罠にかかるのを見越して、待ち伏せしている場所の振動だ。
僕は彼の仕掛けた罠にも、待ち伏せにも気づきながら、あえてそこには近づかない。僕はただ、獲物として、危険を避けて森を歩き続ける。
ダリウスは、僕が彼の罠に気づいていることに、気づいているはずだ。それでも彼は、僕を狩ることができない。なぜなら、僕は彼を追っていないから。僕はただ、森の景色に溶け込み、風のように、水のように、彼の周りを流れ続けている。
僕は彼の視線を追わない。彼の思考を追う。彼が次にどこへ向かい、どこを警戒するのか。獲物として、それを予測し、彼の意識の死角へと、常に自分の身を置き続けた。僕はダリウスの影になった。光が差せば、必ず生まれる影。けれど、決して光に捕まることのない存在。
そして、ついにその瞬間が訪れる。ダリウスが、僕を見失い、苛立ちから一瞬だけ、思考に隙が生まれた。風が運ぶ彼の呼吸の乱れが、僕にそれを教えてくれた。彼は僕を探すため、大きな岩の向こう側を覗き込もうと、足を踏み出す。僕は、彼のその動きを読んでいた。彼の影として、その岩に寄り添うように、すでに待ち構えていた。
ダリウスが岩を回り込んだ、まさにその瞬間。僕は彼の背後、影の中にいた。
僕の指先が、ついにダリウスの背中に、そっと触れた。
動きを止めたダリウスは、何も言わなかった。ただ、深いため息をつくと、僕に背を向けたまま小屋へと歩き出した。
「…ついてこい。飯の時間だ」
その夜、僕は数日ぶりに、温かいシチューの匂いを嗅いでいた。今日の夕食を作ってくれたのは、ダリウスだった。訓練を終えて小屋に戻った僕は、疲労で指一本動かせず、囲炉裏の前に座り込んでしまったのだ。
そんな僕を見て、ダリウスはちっと舌打ちを一つすると、「てめえはそこで座ってろ。今日だけだ」と言って、黙々と調理を始めてくれた。
僕たちは、囲炉裏の火を挟んで、黙々と食事を進めた。ダリウスが作ったシチューは、僕が作るものよりずっと深みのある味がした。
「今日のところは、合格だ」
突然、ダリウスが言った。
「だが、勘違いするな。それで完璧になったわけじゃねえ。ここから先は、てめえ自身で磨き続けるもんだ」
「はい」と僕は頷いた。
この数日間で僕が掴んだものは、まだほんの入り口に過ぎない。
「斥候の基本は、隠れること、近づくことだ。だがな、小僧」
ダリウスは、厳しい目で僕を見据えた。
「時には、どうしても戦わなきゃならねえ時がある。逃げられるもんなら、迷わず逃げろ。無駄な戦いは死にてえ奴がやることだ。だがな、仲間を守る時、あるいは、てめえが逃げられねえと判断した時…その時の戦い方を、次から教える」
避けられない、戦い。その言葉の重みに、僕はごくりと唾を飲んだ。僕の修行が、次の段階へ進む。それは、今までよりもずっと危険で、厳しいものになるだろう。でも、僕の心に恐怖はなかった。
「…はい!」
僕は、まっすぐにダリウスの目を見て、力強く返事をした。




