53:獲物になるということ
夜空に誓った僕の決意は、翌朝、あっけなく砕かれることになる。ダリウスとの、二日目の訓練が始まった。
「…始めろ」
その一言を合図に、彼は再び森の闇へと消えていく。僕は昨日の失敗を繰り返さないように、作戦を立てていた。ダリウスは僕の聴覚を逆手に取り、偽の音で僕を翻弄した。なら、僕は今日、僕の最大の武器である『風の声』だけに集中する。視覚という不確かな情報は、捨てる。
僕は目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。森のざわめきの中から、彼の心音を探す。…いた。思ったよりもずっと近い。僕は音を頼りに、慎重に、しかし確実に距離を詰めていく。だが、僕が彼の背後を取ったと思った瞬間、僕の足元で、仕掛けられていた枝がぱきり、と乾いた音を立てた。その音に意識が向いた一瞬、僕の首筋には、昨日と同じナイフの冷たい感触が押し当てられていた。
「…死んだな」
ダリウスは、僕が聴覚に頼ることを読んで、僕の進路上にいくつもの音の罠を仕掛けていたんだ。
三日目。
僕は作戦を変えた。狩人として、ダリウスの思考を先読みする。
彼が僕を待ち伏せしそうな場所を予測し、その裏をかくように動いた。しかし、彼の動きは僕の予測を常に、そして遥かに上回っていた。まるで、森そのものが僕に牙を剥くかのように、あらゆる場所から小石や投げナイフが飛んでくる。僕はただ逃げ回るだけで、反撃の糸口すら見つけられなかった。
四日目。
僕の体は、疲労と空腹で限界に近づいていた。
何より、心が折れそうだった。
昨日手に入れた答えが、今日にはもう通用しない。その繰り返しが、僕から自信というものを根こそぎ奪っていく。森に入っても、僕はもう、ダリウスに触れることなど考えていなかった。ただ、今日こそは「死なない」ことだけを、目標にしていた。
訓練が始まると、僕はこれまでのように攻めの姿勢でダリウスを探すことをやめた。ただひたすらに、自分の身を守ることに集中する。その時、右手の茂みから、微かな物音がした。ダリウスの罠だ。以前の僕なら、音の主を探そうと意識を向け、その隙を突かれていただろう。けれど、極度の集中と飢えが、僕の思考を極限まで削ぎ落としていた。
(…あそこは、危ない)
僕は音の主を探すのではない。
その音から最も遠く、そして最も安全な場所へと、考えるより先に体が動いていた。背後に大きな岩を背負い、あらゆる方向からの奇襲に対応できる位置へ。
もちろん、その行動すらダリウスにはお見通しだった。僕が岩に背をつけた、まさにその瞬間。僕の頭上から、ダリウスが音もなく飛び降り、僕の首筋にナイフを当てた。
「…また死んだな、小僧」
その夜も、僕は夕食にありつけなかった。もう何度目かもわからない、空腹の夜。囲炉裏の前で膝を抱える僕に、ダリウスが初めて口を開いた。
「…今日もてめえは死んだ。だがな、小僧。最後、なぜあの岩に動いた?」
「…わかりません。右から音がして、ただ、あそこなら死なない、と…」
僕の答えに、ダリウスはフンと鼻を鳴らした。
「そうか。…てめえは今日、初めて俺を狩ることをやめた。ただ、生き延びることだけを考えた。狩人の目じゃなく、獲物の目で森を見ていたってことだ」
その言葉は、僕の頭を鈍器で殴られたような、強い衝撃を与えた。「獲物の気持ちになれ」。僕はその言葉の意味を、ずっと履き違えていたんだ。獲物の動きを予測するんじゃない。僕自身が、獲物になるんだ。生き延びるためだけに、森の全てを警戒し、危険を察知し、安全な場所へと逃げる。あの時の僕は、無意識に、そうなっていた。
僕は顔を上げた。僕の目には、もう迷いはなかった。
「…師匠。明日、もう一度だけ、お願いします」
囲炉裏の火が、僕の瞳の中で静かに、しかし力強く燃え上がっていた。




