52:獲物の恐怖
訓練を終えた夜、僕はダリウスの前に、夕食のシチューを置いた。昨日とは違う、僕が自分の力で獲ってきた食事だ。囲炉裏を挟んで向かい合い、無言で匙を口に運ぶ。その静かな時間の中で、ダリウスがぽつりと問いかけてきた。
「…お前がようやくできるようになった『殺気を消す』こと。それが本当はどういう意味か、わかってるか?」
「え…? 獲物に、気づかれないようにするため…ですよね?」
僕の答えに、ダリウスは「半分正解で、半分は死ぬほど甘え」と吐き捨てた。
「いいか、小僧。森の獣はな、常に捕食者の殺気に晒されて生きてる。遠くからでも、その『死の匂い』を嗅ぎつけて危険を察知するんだ。だがな、その殺気がふっと消えたらどうなる?」
「…諦めて、どこかへ行った…とか?」
僕の答えを聞いて、ダリウスは心底呆れたようにため息をついた。
「そう思うド素人が、最初に死ぬ。…てめえが消した殺気はな、獣にしてみりゃ『恐怖』の正体だ。獲物がその殺気が消えたことに気づいた時、それは捕食者がいつでも喉笛を食い破れる距離まで来て、息を殺したという何よりの証拠になるんだ」
それは師として初めて与えてくれた、獲物の側から見た世界の理だった。彼の言葉の一つ一つが、僕の知らない森の姿を教えてくれる。僕はその意味を噛みしめるように、黙って頷いた。
翌日、ダリウスは僕に次の課題を課した。
「昨日と同じだ。俺の背中に触れてみろ。だがな、小僧…」
ダリウスの纏う空気が、昨日とはまるで違う。ぴりぴりとした、肌を刺すような緊張感が、彼の全身から放たれていた。
「…今日からの俺は、本気でてめえを狩る。お前に狙われた獲物になったつもりでな」
訓練が始まると、僕は昨日掴んだ感覚を頼りに、自分の存在を消し、ダリウスの背後を狙った。風になる。木になる。石になる。僕自身の存在を、僕の中から消していく。だが、次の瞬間、ダリウスの姿が森の中から忽然と消えた。
(…どこだ?)
追うべき対象を失い、僕は戸惑う。その時、ぞわり、と背筋を冷たい悪寒が走った。立場が、逆転したのだ。僕が狩人で、ダリウスが獲物なのではない。僕が、獲物になったのだ。
『風の声』に耳を合わせても、ダリウスの気配はどこにもない。彼は森の音に完全に溶け込んでいる。僕が焦り、一歩足を踏み出した瞬間、ひゅん、と風を切る音がして、すぐ頬を小石が掠めていった。
「っ…!」
僕が木の陰に隠れようとした瞬間、目の前の枝が、どこからか飛んできた投げナイフで断ち切られた。見えない敵からの、正確無比な攻撃。それは、僕が今まで感じたことのない、本物の『狩られる恐怖』だった。
心臓が大きく脈打ち、嫌な汗が背中を伝う。どこだ。どこにいる。パニックに陥った僕は、ついに致命的なミスを犯す。背後で、ぱきり、と小枝が折れる音がした。僕はそれに気を取られ、振り返ってしまったのだ。
その瞬間、僕の首筋に、ひやりとした鋼の感触が押し当てられた。いつの間にか背後に回り込んでいたダリウスの、訓練用の、刃引きされたナイフだった。
「…死んだな、小僧」
耳元で、冷たい声が響く。僕は、金縛りにあったように動けなかった。
「てめえはまだ、獲物の気持ちがわかっていねえ。ただ気配を消すだけじゃ、風にさえなれねえぞ。明日も同じだ。俺に殺されなくなるまで、飯は抜きだ」
その夜、僕は夕食にありつけなかった。昨日手に入れたはずの自信は、今日、首筋に残るナイフの冷たい感触と共に、完膚なきまでに打ち砕かれた。小屋の中の空気が、息苦しい。僕は囲炉裏の火から逃げるように、そっと外へ出た。
ひんやりとした夜風が、火照った頬を撫でていく。空を見上げると、満天の星が瞬いていた。けれど、その美しさも、今の僕の心には届かない。
「…どうすれば、よかったんだろうな。コダマ」
僕は肩の上の相棒に、か細い声で話しかけた。コダマは何も言わず、ただ僕の首筋にそっと寄り添う。その小さな温もりが、凍えそうな心を少しだけ溶かしてくれた。
「僕は、師匠の動きを、ただ追っていただけだった。…獲物の気持ちになれ、か。狩られる側の気持ちなのかな…」
悔しさが、また込み上げてくる。でも、負けたままで終わりたくない。僕は夜空に浮かぶ一番星を、強く、強く睨みつけた。
「…明日こそ。明日こそ、絶対に」




