51:忍び寄り
小屋に戻ると、ダリウスは、壁際に吊るされていた血抜き済みの大きな鳥を指差した。
「腹が減っただろう。弟子は飯を作るもんだ。…やってみろ」
それは、僕にとって二つ目の試験のようだった。僕は頷き、ダリウスのナイフを借りて、鳥の解体を始める。嘆きの荒野で何度もやった作業だ。けれど、僕の拙い手つきを、ダリウスの鋭い目がじっと見つめていた。
「ちげえ。刃の角度が深すぎる。そんなんじゃ、皮が切れちまうだろうが」
冷たい声が飛ぶ。僕はびくりと肩を揺らし、言われた通りに刃の角度を浅くした。
「骨に肉が残りすぎだ。肉はな、コンマ数ミリでも無駄にしちゃならねえ。それは、てめえが殺した命への礼儀だ」
ダリウスの指導は、一つ一つが的確で、一切の無駄がなかった。羽のむしり方、内臓の取り出し方、食べられる部位とそうでない部位の分け方。僕が今まで自己流でやっていた作業が、いかに非効率で、命に対して無頓着だったかを思い知らされた。
解体を終えた肉を、囲炉裏の鍋で野菜と一緒に煮込む。やがて、小屋の中に香ばしい匂いが立ち込めた。完成したシチューを木製の椀によそい、ダリウスに差し出す。彼は無言で受け取ると、一口すすり、そして初めて、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「…まあ、食えるな」
僕たちは、囲炉裏の火を挟んで、黙々と食事を進めた。森の音と、薪がはぜる音だけが聞こえるこの静かな時間が、僕には不思議と心地よかった。
「あの…師匠…」
思い切って、僕から話しかけてみた。
「どうして、僕に教えてくれる気になったんですか?」
ダリウスはシチューから顔を上げず、ぶっきらぼうに答えた。
「…お前はそこそこ森でやれる。だが、だからこそ今のままじゃ確実に食われるからだ」
それ以上、彼は何も語らなかった。でも、僕にはその言葉だけで十分だった。食事が終わると、僕は後片付けを済ませ、小屋の隅に用意された寝床に潜り込んだ。その夜、僕は久しぶりに、本当に久しぶりに、ぐっすりと眠ることができた。
翌朝、僕が目を覚ますと、ダリウスはすでに出かける準備を整えていた。
「小僧、今日からてめえは俺を追え」
彼は壁に掛けていた弓を手に取ると、僕に背を向けたまま言った。
「俺に気づかれずに、この背中に触れてみろ。それができなきゃ、今夜の飯は抜きだ」
斥候としての基本であり、最も重要な技術の一つ、『隠密行動』。僕は心のどこかで、少しだけ自信を持っていた。嘆きの荒野で、僕は常に気配を殺して歩いてきた。足音を消すことには、慣れているはずだったからだ。
ダリウスは何も言わず、森の中を歩き始めた。僕は足音を完全に消し、木の葉一枚揺らさないように、慎重に彼の後を追う。呼吸を殺し、木の幹から幹へと渡るように、影の中を進んでいく。完璧な追跡。
(…いける!)
ダリウスとの距離が、あと数歩というところまで縮まった。僕がそっと手を伸ばそうとした、その瞬間。ダリウスが、ぴたりと足を止めた。そして、まるで背中に目がついているかのように、僕がいる方向を正確に振り返った。
「…どうして、わかったんですか?」
僕の問いに、ダリウスは心底呆れたようにため息をついた。
「てめえの殺気が風に乗ってんだよ。獣はそういう匂いを嗅ぎつける。お前に合わせて言えば殺気の音か。お前が獲物を狩ろうとする『意識』そのものが、森中に響き渡ってるんだ」
殺気…。僕には、そんなものを出しているつもりは全くなかった。けれど、何度やっても結果は同じだった。僕がダリウスに近づこうと意識すればするほど、僕の存在は『音』となって森に響き、彼に察知されてしまう。
僕は初めて、自分自身の内側から発せられる『音』という、新たな壁に直面していた。
その日の夕食に、僕はありつけなかった。空腹と、それ以上に強い悔しさで、僕は囲炉裏の前で膝を抱えたまま眠れない夜を過ごした。どうすれば、殺気を消せる? 僕はゆらめく炎を見つめながら、必死に考え続けた。
その時、ふと、嘆きの荒野での日々を思い出した。あの頃の僕は、ただ生きるためだけに歩いていた。何かを狩ろうと意識するのではなく、自分がただの風景の一部になることだけを考えていた。危険な獣に見つからないように。荒野の風に、溶け込んでしまうように。
(…そうか。僕は、ダリウスを『獲物』として見ていたんだ)
翌朝、僕は昨日までとは違う気持ちで、森に入った。僕はダリウスを追うことをやめた。ただ、彼の後ろを、同じ森に住む一つの生き物として、無心で歩いた。獲物として見るのではない。ただそこにいる存在として、認識する。
僕は風になった。木になった。地面に転がる石になった。僕自身の存在を、僕の中から消していく。
すると、どうだろう。ダリウスは一度も振り返らなかった。僕は何の抵抗もなく、彼の背後に立つことができた。そして、その広い背中に、そっと指を触れた。
僕の指先に気づいたダリウスは、驚くでもなく、ただ静かに言った。
「…そうだ。斥候はな、時には風にさえならなきゃならねえ時がある」
僕は、自分の内なる『音』をコントロールする、その第一歩をようやく踏み出したのだった。




