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50:森の文字

「…入れ」


彼はそう吐き捨てると、今まで固く閉ざされていた小屋の扉を、ついに僕のために開いた。


そのぶっきらぼうな言葉は、僕が弟子として認められた、紛れもない証だった。僕は肩の上のコダマと共に、緊張にこわばる足で、師となる男の住処へその第一歩を踏み入れた。


小屋の中は、彼の暮らしぶりをそのまま映したような空間だった。壁には手入れの行き届いたナイフや弓、解体用の道具が整然と掛けられている。獣の皮をなめす独特の匂いと、燻された薪の香りがした。武骨で質素だが、全ての物が少しの無駄もなく配置されている。彼が囲炉裏に火を熾すのを、僕は黙って見ていた。ぱち、と火の粉が爆ぜる。その時、彼は初めて僕の方を向き、短く告げた。


「ダリウスだ」


それが、僕の師匠の名前だった。突然の名乗りに、僕は慌てて自分の名前を告げる。


「カイ…です」


僕がそう名乗っても、ダリウスは特に興味を示した風もなく、ただ「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。彼にとって、僕の名前などまだ覚える価値もないのかもしれない。


翌日の朝。ダリウスは僕を連れて、昨日とは違う小川のほとりへ来ていた。


「小僧、ここから何がわかる?」


僕は言われた通り、耳を澄ませる。

「…水の流れる音と、鳥の声がします。とても、穏やかです」


僕の答えに、ダリウスは心底呆れたように、そして怒ったように一喝した。

「馬鹿野郎。目を使え。耳だけで生きられると思うな」


彼は泥に残された、微かな窪みを無骨な指で示した。

「これは半日前の鹿の跡だ。こっちの深くえぐれてるのは、水を飲んだ後、何かに驚いて跳ねた跡だ」

僕の目には、ただの足跡にしか見えなかった。


「お前の耳には『穏やか』に聞こえるかもしれねえが、この場所は半日前、鹿にとって『危険』だった。お前の耳が聞こえるのは『今』だけだ。だが斥候はな、痕跡から『過去』を読み、これから起こる『未来』に備えるんだ」


そう言うと、ダリウスは僕に一つの課題を与えた。

「日が沈むまでに、この場所で過去に何があったのか、俺が納得する答えを三つ、見つけてみせろ」

それだけを言うと、彼は僕を一人残し、さっさと小屋へ戻ってしまった。


一人残された僕は、途方に暮れた。ダリウスが言ったことは、頭ではわかる。だが、どうすればいい? 僕は彼が指差した足跡をもう一度見つめるが、それが鹿のものであること以外、何も読み取れなかった。『風の声』に耳を合わせても、聞こえてくるのは今現在の、森の穏やかな音だけだ。


「何に驚いたんだろうな、コダマ…」


僕は肩の上の相棒に話しかける。答えが返ってこないのは、わかっている。時間は刻一刻と過ぎていく。聞こえすぎる「今」の情報が、むしろ僕の集中力を奪っていく。過去を読むとは、どういうことなんだ? 焦りと無力感だけが、僕の心を蝕んでいった。


結局、僕は何も答えを見つけられないまま、日が沈んだ森を歩いて小屋へ戻った。


「…何も、わかりませんでした」


僕の報告を聞いても、ダリウスは僕を責めなかった。ただ、無言で囲炉裏の灰を指差した。

「この灰を見て、何がわかる?」

「…昨日の薪の、燃えカスです」

「そうだ。火はもう消えている。だがな、ここから昨日の火の大きさや、燃えた木の種類がわかる」


彼の言葉に、僕ははっとした。


「音は消える。だが、出来事は必ず『痕跡』という文字を森に残すんだ。お前は、まだ森の文字の読み方を知らねえだけだ。明日、もう一度やってみろ」


ダリウスのその言葉に、僕は自分が何をすべきかの、小さな、しかし確かな取っ掛かりを見つけた気がした。僕の本当の修行が、今、始まったのだ。


翌朝、僕は昨日よりもずっと早く目を覚ました。頭の中には、ダリウスの言葉が何度も響いている。「音は消える。だが、出来事は必ず『痕跡』という文字を森に残すんだ」。

今まで僕は、聞こえる『音』ばかりに頼りすぎていた。森は、音以外の方法でも僕に何かを伝えようとしている。僕はその『文字』の読み方を学ぶため、決意を新たに、昨日と同じ小川のほとりへと向かった。


僕はまず、昨日見た鹿の足跡の前にしゃがみ込んだ。

ただ見るだけじゃない。指でそっと泥の硬さを確かめる。鼻を近づけて、土の匂いを嗅ぐ。そして、目を閉じて『風の声』に意識を合わせた。すると、昨日とは違う声が聞こえた。風が運んでくる、かすかに残った獣の恐怖の匂い。その匂いと、深くえぐれた足跡が、僕の頭の中で一つの線として繋がった。


(…そうだ。鹿は、狼に追われていたんだ)


鹿の足跡の近くに、もっと大きな、犬に似た獣の足跡が残っているのを、僕は見つけた。風は、その足跡から狼の飢えた匂いを運んできてくれた。これが、『森の文字』か…! 


コツを掴んだ僕は、夢中で他の文字を探し始めた。

地面に落ちた一本の羽。木の幹に残された新しい爪痕。不自然に折れた枝。

一つ一つの『文字』に意識を合わせ、聞こえる『声』と結びつけていく。それはまるで、今まで知らなかった言語の辞書を、一ページずつ懸命にめくっていくような作業だった。


日が傾き始めた頃、僕は三つの答えを手に、ダリウスの小屋へ戻った。


「…見つけました」


僕の報告を、ダリウスは腕を組んだまま黙って聞いていた。

一つ目は、鹿を驚かせたのは狼だったこと。

二つ目は、クルミの木の下で起きた、小動物同士の縄張り争いの痕跡。

そして三つ目は、蛇が獲物を飲み込んだ後、岩の上で日向ぼっこをしていた痕跡。


全てを話し終えた僕に、彼は一言だけ、こう告げた。

「…まあ、及第点だ。明日からは、次の訓練に移る」


その言葉はぶっきらぼうだったが、僕にとっては最高の褒め言葉だった。僕はついに、スカウトとしての本当の第一歩を、踏み出すことができたのだ。


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