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49:昼間には見えない獲物

木の上で息を潜める僕の前に立った老狩人は、射抜くような目で僕を見上げ、低い声で問いを投げかけた。


「小僧。今のはどういうことだ。なぜ、キバイノシシが来るのがわかった?」


その問いに、僕は言葉を詰まらせた。どう説明すればいい? 風の声が聞こえるなんて言っても、信じてもらえるはずがない。

「…なんとなく、です。危ない気配がして…」


僕がそう答えると、老狩人はフンと鼻を鳴らした。

「気配、だと? あのキバイノシシの気配を、俺より先にお前が感じ取ったとでも言うのか。俺を馬鹿にするのも大概にしろ」


「嘘じゃありません! 聞こえたんです、風の音や、地面の震えが…教えてくれたんです!」

必死に訴える僕を、老狩人は値踏みするように、じろりと睨みつける。その目は、僕が狂人か、それともただの大嘘つきかを見定めようとしているようだった。


「…風の音、ねえ。言葉でなら何とでも言える」

老狩人は吐き捨てるように言った。


「お前のその耳が、本当にそこまで聞こえるというのなら、腕で示せ」

彼は空を指差した。まだ日は高い。


「あの太陽が山の向こうに沈むまでに、月光兎げっこううさぎを狩ってこい」

「月光兎…!?」


その名に、僕は息を呑んだ。月の光を浴びている間しか、その姿が見えないという幻の獣。


「でも、昼間は姿が見えないはずじゃ…」


僕が言うと、老狩人はにやりと口の端を吊り上げた。

「そうだ。夜は素人が月明かりに頼る時間だ。本物の斥候はな、白日の下で見えねえもんを見つけ出すのさ。お前の言う『風の声』とやらが本物なら、姿が見えない兎の一匹や二匹、見つけられるだろう?」


昼間の森では見えない兎を狩る。それは、不可能の証明をしろと言われているに等しかった。だが、僕の心は不思議と燃えていた。この理不尽な試練を乗り越えれば、この老狩人に話を聞いてもらえる。それだけは、確かだった。


「…やります」


僕の返事に、老狩人は少しだけ目を見開き、そしてすぐに興味を失ったように踵を返した。

「好きにしろ」という背中だけが、そこにあった。


僕は早速、森の中で意識を集中させた。森を満たす無数の音の中から、兎の気配を探す。うさぎの気配は、驚くほど簡単に見つかった。


《…小さな心臓の音2つ…草を食む音…ぴくぴく動く鼻先…》


風は、明確な存在を僕に告げた。僕は音を立てないように、慎重に投石器を構える。…しかし、その先にいるのは、木漏れ日の下で草を食む、ごく普通の茶色い兎が一匹だけだ。


風の声は、告げている。その茶色い兎のすぐ隣で、もう一匹の兎が草を食んでいる、と。僕の目には一匹しか見えないのに、耳には二匹分の音がはっきりと聴こえる。この激しい感覚の不一致が、僕の脳を混乱させた。


《…心音の加速…》


僕の殺気に気づいたのか、二つの音が同時に逃走を開始する。茶色い兎が跳ねる姿は見える。だが、そのすぐ横を、見えない何かが同じように跳ねていく。


「くっ…!」


僕は見えない方へ向かって石弾を放つが、それは虚しく地面を叩き、隣にいた茶色い兎を驚かせて逃がしてしまっただけだった。

二つの気配は、完全に森の音の中に紛れて消えてしまった。僕は自分が石を放った場所へ駆け寄るが、そこには湿った土の匂いがするだけで、獲物の痕跡はどこにもない。


「…やっぱり、いたんだ。でも、見えなかった…」

僕は近くの木の根元にどさりと腰を下ろす。肩の上のコダマが、心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。


「僕の目は、嘘をついてる。風の声も嘘をつくことがあるけど…今回は信じるしかないな」

僕はコダマに語りかけながら、自分の思考を整理する。信じるべきは、目に見える世界じゃない。僕にしか聞こえない、この世界の本当の音だ。


「…もう一度だ。もう一度、探そう」


僕は立ち上がり、再び意識を集中させた。ざわめく森の音の中から、あの小さな心音を探し出す。鳥の羽ばき、木々の葉擦れ、遠くの獣の足音…。それらの音を一つ一つ聞き分け、押し流していく。焦るな。もっと深く、もっと静かに。


そして、見つけた。さっきよりもずっと遠いが、間違いない。

《…小さな心臓の音…草を食む音…》

今度は一匹だけだ。


僕は投石器を構えない。ただ、その音だけを頼りに、ゆっくりと距離を詰める。僕の目には、相変わらず風にそよぐ下草しか見えない。だが、僕の耳は、そこにいる小さな命の営みを、はっきりと捉えていた。


(…そうか。見るから、惑わされるんだ)


答えは、最初からわかっていたはずだ。僕はあえて目を閉じた。白日の光がもたらす偽りの情報…視覚を、完全に遮断した。


スリングを回し始め、聴こえる兎の行動パターンから、その逃走経路を予測する。スリングが風を切る音は聴こえているだろうに、油断しているのかみえない兎は草をはみ続けている。僕は更に一歩近づく。


危機を感じた兎が、逃走を開始する。


その瞬間。僕は、音があった場所を狙わなかった。兎が数瞬後に到達するであろう未来位置に向かってスリングから石を放った。


放たれた石弾が、陽光の中を切り裂く。風切り音の後、ごす、という鈍い衝突音と柔らかいものが倒れる音がした。


僕は音のした場所へ、ゆっくりと歩いていく。倒れた兎を探すのは生きた兎を探すよりも難しかった。僕は手当たり次第に草の上をまさぐって兎のからだを探す。ようやくやわらかくふさふさとしたものを手が探し当てた時、その体は透明から不透明に変わりつつあった。それは息を呑むほどに美しい銀色の毛皮を持つ兎に変わっていった。


僕はその月光兎を手に、老狩人の小屋へと戻った。扉の前で腕を組んで待っていた老狩人は、僕が差し出した兎を見て絶句し、やがて天を仰いで深いため息をついた。


「…ちっ。とんでもない化け物を拾っちまったかもしれねえな」


その声は、呆れているようで、どこか少しだけ、楽しんでいるようにも聞こえた。


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